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2006.08.31

仕様書をくれなきゃ・・・

数年前のこと。


とあるお取引先で、コンピュータのシステム設計をSEの方にお願いした。ついては、「一緒に同席して、顧客管理の側面からアドバイスが欲しい」ということで、僕も立ち会った。(ちなみに、システム設計、などは大の苦手です)


お取引先の担当者が「今回の要望の主旨」や「おおまかな予算」、「期待したいアウトプット」「想定している期日」などをSEに話をするところから打ち合わせはスタートした。


が、どこか歯車が噛み合ってないような・・・。

お取引先「(ある程度説明が終わり)・・・ということでお願いをしたいんですが・・・。」


S E「・・・ん?もうちょっと具体的な話はないんですか??」


お取引先「具体的、というと??」


S E「今の情報だけでは、何をどうつくったらいいかイメージできないんですよ。細かい制作仕様書のようなものはないんですかね・・・??


お取引先「仕様書・・・それはないですねえ〜。そんなものが作れないからこちらもプロにお願いしてるんですよ」


SE「そうですか・・・イメージは分かるんですけど・・・」


お取引先「それを形にしていくのがSEの仕事ではないんですか??」


SE「そうですよ。ただ、ある程度の仕様書のようなものがないと、何をどうしていいか分からないではないじゃないですか・・・」


お取引先「それがないと仕事が進まないということですか?」


SE「いえ、そういう訳ではないですけどね・・・」


僕は同席していて思った。


明らかに仕事の立脚点が違う、と。


お取引先にとってこの場合の仕事は、「見えないものをだんだんと具体化していくこと」だ。


だから、「こんなイメージ」だとか「だいたいこんな予算」だとか「こんなアウトプット」だとか、抽象的な言葉しかでてこない。で、それに対して何もおかしいと思っていない。そもそも仕事ってそんなものだ、とさえ思っている。


このお取引先との打ち合わせはたいがいが夜の街、だ。で、コースターの裏などに事業計画(のようなもの・・失礼)を書いて、プレゼン(?)をしていく。


「まあ、だいたいこんなイメージね」と自分のひらめきを言葉にしながら、周囲のプロの力を借りて、仕事として形をつくりあげていく。


一方で、この時のSEさんの対応は「ある程度形のあるもの(=仕様書)を整備していくのが仕事」のスタンス、だった。


だから、お取引先の話が「抽象的」だったり「具体性」がなかったり「イメージばかりで・・・」と映ってしまうのだ。


で、本人もそれを当然だと思っている。最終的な成果としてコンピュータのシステムという形にするのが仕事、だ。で、あれば発注者の意向が明確であればあるほど、イメージに近いものがつくれるのは当然だから、だ。あとで、「こんなイメージじゃないよ」といわれてもたまらない。


こんなコミュニケーションギャップはどこの会社にでも存在している、だろう。僕が一時期、身を置いていた住宅メーカーでも営業担当と工事担当の意識の違いは日常的に存在していたし。


新しく着手する仕事のほとんどが、「無から有を生み出す仕事」だ。


けど、人間の気質、性格、やっている仕事の内容によって「無から有」へのアプローチ方法が変わってくる。


僕は、「仕事なんてのはよくわからないものを形にするものだ」という意識が強い。「仕様書をくれ、なんてのはプロのいう言葉じゃない」とも思っている。


分からないことがあれば、ヒアリングしてイメージを具現化するのが仕事だと考えている。(時々、クライアントさんに対して「どうしたいか具体的にいってください」といってしまうこともありますが・・・)


そんなだから仕事を進めながらいろんなことを考えていく。「もうちょっと具体的に・・・」などといわれて、その場で思いつきで返答を考える事も別段、めずらしいことでもない・・・。


だんだんと形がみえてくるようになると、僕の頭の中でもイメージが具体化してくる。仕事って「何か素晴らしいアイデァが最初からあるのではなく、動きながらまとまっていくもの」と思っている。


きっと、上のSEさんと僕が話をしても噛み合わない、だろうね。


先日、ある方から「社長の指示が場当たり的で抽象的」との相談をいただいたので、ご本人の了解をとり今日のテーマにしてみました。


確かに、経営者だとかの指示は「抽象的なケース」は多いですよね。でも、逆にいうと経営者が具体的な指示ばかりしてたら会社って何も進歩しないですよ。


あいまいで、抽象的で、よくわからなくて・・・そんなものを形にしていくから職業人の力はのびていく、と思うんです。経営者の指示が、「計画性があって、具体的」であれば、僕らは社長の手足でしかなくなっちゃいますしね。


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追記
8月も終わりですね。どこにもいかない夏、でした。年内までには休みをとって海外渡航を模索してます。


August 31, 2006 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2006.08.30

素直だけど、素直じゃない

Muetai


「いまからリング上で四つん這いになれ」


タイ王国の国技・ムエタイの王者を目指していた日本人格闘家がある日、師匠にそういわれたそうです。


パンチやキック、筋肉強化の練習ではなく、「リング上で四つん這いになってハイハイしろ」というのです。


その格闘家は師匠の言葉に素直に従います。そこには「なんでこんな練習をしなきゃいけないんだろうか?」という思いはなく、ただ素直に師匠のいうことを聞いていれば強くなる、と思ったからだそうです。


後年、ムエタイの頂点を極めたこの格闘家の師匠にあたる人がこの時のエピソードを披露していました。


その師匠にとって「四つん這いになれ」という練習は、その格闘家の素直度をはかるテストのようなものだった、らしいです。「どこまでバカ素直になれるか?」ということを試したらしいです。


終わりに「人間、考え過ぎて素直になれない奴は伸びない」みたいなことをいってこのエピソードは終わってました。


松下電器の創業者、松下幸之助さんも同様なことをいっておられました。「人間、素直じゃないと伸びない」と。僕も(自分がそうかどうかは別にして)そう思います。


よく「トイレ掃除をすると運がよくなる」なんていいます。それの本質って、「トイレ掃除をする=運がよくなる」ではないと思うんです。(で、あればトイレ掃除を仕事にしている人が一番運が強いはずです)


「トイレ掃除??へえ〜そうなんだ!」とかいってあまり考えずに素直にトイレ掃除をするような人だから結果的に運がよくなるのだと思います。「それで、運がよくなればラッキーじゃん」-そんな感覚が仕事や日常生活の中にいろんな流れをつくるのだと思います。


一方で、素直だけでもいけないと思います。特に経営者やリーダーは、ですね。


師匠や先輩のいうことに対して「素直に話を聞くが、どこかに素直じゃない自分」の存在も意識する必要があるとも思います。あまのじゃくでいる自分の存在も必要だと思います。


世の中、素直だけで生活していたら自分の身が守れないですし、素直も度を越すと「何も考えない自分」にいきついちゃいますしね。


「素直だけど、素直じゃない」


僕の尊敬する経営者は、相矛盾するこの二つをうまーく統合できています。僕の目指す人間像、ですね。素直なんだけど、どこかあまのじゃく、みたいな・・・


「あいつは素直だ」と周囲からいわれるのは何よりの褒め言葉です。


一方で「あいつは素直じゃない」といわれるのも何よりの褒め言葉なのです。


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追記
昨日は夏バテで夕方から一気に調子悪くなりました。予定していた夜のジムも休んで、早めに寝たら復活しました。


いつも調子が悪くなると昔の先輩がいわれた「お前ら、健康維持ってのは社会人にとっての最大のマナーだからな」という言葉が思い出されます。

August 30, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.29

人それぞれ、っすね

僕は物事を斜に構える人が苦手、だ。


一生懸命やってる人に対して「そんなにまじめにやって何になるの?」って感じの人が苦手、だ。


だが、神様(?)は不思議なものでそういう人間を僕の近くに置きたがる。なぜか必ずそういう人が僕の近くによってくる。


あたかも、「お前はこういう人との付き合いを学ばないとあかん」といってるかのように・・・


そういう人は「人それぞれ」って言葉を好む傾向がある(ように思っている)。何か真剣な話をしていても「要するに人は人ってやつですよ」でまとめてしまう。


「人それぞれ」っていわれれば確かに「人それぞれ」。


けど、僕らは「人それぞれ」を与えられた与件として、考え方や気質の違う人を組み合わせてチームをつくったり、組織をつくったりして相乗効果を高めたり、お互いのサポートをしているわけ、だ。


人間、社会生活をしている以上は職場であれ、家族であれ、近所の仲間であれ何かしらの組織やコミュニティーに所属しているだろう。そんな組織の恩恵(?)を少しでも受けていながら、「人それぞれ」って言葉で終わってしまうのはどうも僕の美意識に照らすとかっこうが悪い。


「人それぞれ」って一見(一聞?)すると、西洋の個人主義の薫陶を受けたかのような進歩的(?)な思想(もちろん、皮肉、ですよ)のように聞こえるが、根底にあるのは「思考省略」ではないだろうか?


僕にいわせれば「人それぞれ」という多くの場合は、人間関係の中で他人との衝突や意見の食い違いからくるストレスや矛盾を予めバリアーをはって予防しているだけ、だ。面倒だったり、時間がかかったり、自分がストレスを感じるようなことから逃げている、だけだ。(無論、逃げ=悪いではないですけどね)


「人それぞれ」ってスタンスからはじまる人間関係が、僕は濃くなったり、結びつきが強いものになったりするとは到底思えない、のだ。傷つけたり、傷つけられたり、やりすぎたり、やられすぎたりの中で人間と人間とほどよい関係って生まれていくものではないかしら・・・。


僕より若い方を中心に、「人それぞれ教」の信者が激増している。(これは僕の実感覚、です)


別段、僕がそういう人たちを「人それぞれ」って感じで視覚の外に置いてしまうのは簡単、だ。だが、経営者には「自分がいい、と思ったことは周りの人に広げていく」という役割が課せられている、と僕は勝手に考えている。


「人それぞれって確かに聞こえはいいけど・・・じゃ、1つ聞くけど、自分に子供が生まれたら『人それぞれ』って教育するの???」といつも僕はこう噛み付く。


胸を張って「はい、そう教育しますよ!」っていう人はあまりいないんじゃないかと思うんだけど・・


今日はおじさんのおこごとでした。


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追記
週末は京都までジムの遠征(!)&ゴルフにいきます。時間があれば新選組の近藤勇のお墓参りをしてこようと思ってます。

August 29, 2006 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2006.08.28

てめえ、なめてんのかこの野郎

「てめえ、なめてんのかこの野郎〜反省文書かせるぞ」


「俺を誰だと思ってるんだよ〜あっ!??」


30歳近い板前さんが僕らの目の前でひたすら怒られている。週末にいったお寿司屋さんでの話、だ。

とにかくめちゃくちゃな親方(?)だ。


ワサビヌキをお願いした連れに普通のお寿司を出してしまって、その言い訳が「お前らが俺に気を使わせるからお客さんに迷惑かけてしまったじゃねえか」だ。若い職人さんからした理不尽この上ない・・・


2時間近く店にいて、とにかくひたすらに怒られる若い職人さん。一応は、カウンターにいるお客さんの手前、小さい声で怒るのだがもともと静かなお店だけに余計にめだってしょうがない。


僕は途中から、お寿司よりもこの職人さんがやたらと気になってしょうがなかった・・・。が、イライラしてしょうがない・・・って感じではないのだ。むしろ僕は「ちょっとだけ」この職人さんに好感が持ててしまった。


よく、モノの本を読むと「第三者の前では後輩や部下を怒らない」ということが書いてある。


確かに、人間、プライドだとか自意識だとかがあるので、そういう気づかいは必要だと思う。別室に呼出したり、飲みに誘ったりしてやんわりというのは、たしかに効果的だとも思う。


けど、僕は考える。


人間、怒るべきタイミングが存在する。文句をいったり、忠告したりするタイミングが存在する。それが、「いま」「ここで」だと感じたら、「第三者がいるから・・・」と機をみずに自分なりの判断で怒った方がいい。


・・・究極的にはそっちの方がお互いにとっていい。


確かに、怒ったからといって人が変わるとは思えない。文句をいったからといって大の大人が納得するとも思えない。


が、少なくとも「怒ったり、文句をいってる事実」だけは伝わるはず、だ。その中で、「この人はどういう思いから怒ったり、文句をいってるのか?」が伝わるひとには伝わるはず、だ。


更にいうのなら、リーダーの大事な仕事のひとつは、「物事に対しての価値判断を示すこと」だ。「何をしたら怒るのか??」「どこか怒りのポイントなのか?」は各メンバーに明確にするのは責務、だと僕は考えている。で、ないとメンバーが自発的に動ける組織などつくれないだろうし・・・。


コーチングやカウンセリングといった部下育成(って言葉は嫌いですけどね)を効果的に行なう技術(あえて、技術といいます)が日本の企業に多く普及しはじめている。


確かに、効果的なノウハウや技術も多い、と思う。


けど、それらの技術を学ぶ前に僕らがもっていなければいけない姿勢がある。それは、いざとなったら部下やメンバーに対して「きちんと文句をいえること」「時には感情的になってでも怒れること」だ。


「怒ったり、文句をいいたい」という気持ちを無視して、これらの技術のみに頼るのはどうだろう?


リーダーといっても別に特別な人間ではない。怒りとか悲しみとかいった自分の感情をオープンにできないと、陰口や不平不満といった形で多くは別の場所でネガティブな気持ちが噴出する。


僕の実経験では、怒る時に怒ることのできるリーダーは、酒を飲んでいても愚痴や不平が少ないように思う。それはきちんと感情の消化ができているから、だ。


「部下やメンバーに感情的になって怒るのは恰好悪い」ー確かに表層的な部分だけとらえればそうだ。


が、メンバーに対していいたいことをいえずに悶々と(?)してるリーダーは怖くないか??


いいたいことをいえず、不平や不満をどこか他の場所で言ってたら嫌ではないか??

喜怒哀楽がはっきりしてる方が何を考えてるか分かって御しやすい(?)ではないかしら??


僕は文句をいいたくなったら文句をいえるという方がよっぽど健全だと思います。もちろん、程度の問題はありますけどね。


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追記
週末は、5月末に亡くなったうちの猫の納骨でした。気持ちの中でぽっかりと空いた穴はふさがったのか、どうなのか分かりませんが・・・時の経過ってのはすごいな、と思いました。


その後、渋谷でミュージカル「ウェストサイドストーリー」を見ました。このミュージカル、何回も見てますが、毎回寝てしまってストーリーがよくわかりません。今回もそうでした。歌と踊りは素晴らしかったです。


August 28, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.24

『巨人の星』が復活

Hoshi

あの、不朽の名作『巨人の星』が40年ぶりにリメークされている、という。


参考記事


主役は星飛雄馬ではなく、一番のライバルの花形満。


ネットなどを見ると、「あれでは花形ではない」だとか「イメージが壊れる」だとかの賛否両論はあるようだが、僕はあの名作がリメークされることには大賛成、だ。


漫画は時代を映す鏡、だ。


『巨人の星』と聞いて多くの方が思いだすであろう星一徹(星飛雄馬の父)は、「マイホームパパが主流になりはじめた社会への痛烈な批判としてでてきたキャラクターだ」とどこかできいた。子供に対してやみくもに迎合、優しくする父親が増えてきた時代に対しての警鐘だ、と聞いた。


Ittetu


いま思えば飲んで、暴れて、子供に自分の夢を押し付けて、無理矢理トレーニングさせて・・・かなり無茶苦茶な父親だが・・・まだ、ああいった父親がまだ受け入れられる時代だったのだろう。


Hoshikun


『巨人の星』は単なる野球漫画、スポコン漫画ではなく、いろんな切り口できれる漫画だ。だが、あえて僕がこの漫画が好きな理由をあげると、根底に流れる「プロに対しての尊敬」の思想、だ。


例えばこんなシーンがある。


高校野球で準優勝をした飛雄馬が念願の巨人軍に入団する。


で、多摩川(巨人軍の2軍練習場)まで他の選手と一緒になってマイクロバスに乗って練習に出向く。バスの中は席が空いているのに先輩選手はなぜか立ったまま、だ。


席を譲ろうとする飛雄馬に対して、同僚がこんなことをいう。


「巨人軍の選手は足腰を鍛えるためにバスでは立ったままなんだ」と。だから、「先輩ほど率先して立つのだ」と。


更には、「先輩方の足元を見てみろ」とその同僚はいう。飛雄馬が立っている先輩の足元を見ると、一様に踵が浮いている・・・驚く飛雄馬、そこまでしてプロは鍛えている、ということなのだ。


『巨人の星』では、そんな「プロの世界は違うんだぜ」というメッセージ(?)がいたるところに流れている。(これは梶原漫画の根底に流れる一つの共通思想でもある)


僕らは子供の頃にそんなメッセージを受け取った。世の中には自分が頑張ってもなかなか辿り着けないような世界がある、ということを知った。


その中で、「そんなプロの世界では、努力が必要だ」「プロの世界は、長嶋であれ王であれ人並み以上の努力をしている」と誰しもがメッセージとして受け取った。


一方、現代はプロに対しての憧憬がなくなってきた(ように思う)。


週刊誌にスキャンダルが書かれたリ、選手の名前が「くん」づけで呼ばれるようになったり、選手がバラエティーに出演するようになったりして、プロという世界がごくごく身近に感じられるようになってきた。その一方で、プロというものの存在が軽くなってきた。


だから何って訳ではないが、僕はこの流れってのはあまり好きではないな・・・。


とまれ、『巨人の星』が今の時代でどのような展開になっていくかが楽しみ、です。


追記
何年か(十年以上?)前に巨人軍の現役選手が3人ほどテレビのバラエティーに出て対談をしてました。で、本文で書いた『巨人の星』のバスの話しになりました。


会話の内容はよく覚えてませんが、「あの話はかなりビビったが、誰もやってないよな」「バスの中では皆寝てるよな〜」だとか笑い話にしてました。


まあ、実際はそうなんでしょうけど、それを公共の電波をつかって笑い話にするセンスが僕は分かりません。

August 24, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.23

なぜ部下が思うどおりに動かないのか??

なぜ部下が思うどおりに動かないのか??


朝、大量に送られてくるメールの中にそんなタイトルがあった。開いてみると、経営者や管理職を対象にした「カウンセリングマインドを磨く講座」の案内らしい。


練りに練った営業メールなのだろう、いろいろといいことは書いてある。「カウンセリングマインド」はないよりあった方が自分のためになると思うし、職場以外でも役に立つとも思う。


・・・・・が、僕は冒頭のタイトルですべて終わり、だ。


他人を思うように動かしたい、とういう気持ち、欲求は人間だれにでもあるだろう。


経営者やリーダーであれば、『社員や部下が「自発的に、創造的に、新しいことを、効果的に」仕事をやっていってもらったらいいな』と思わない人はいないだろう。「なんで自分が思うように動いてくれないんだろう??」と思ったことのない経営者やリーダーはほぼ皆無、だろう。


まずは、それらの気持ちを持つことに関しては「○」(まる)、だ。


自分をとりまく環境に対して「こうなったらいいなあ」と思うことは、別段、悪いことではない。というより、そこから業務や仕事の改善だとか、将来に対しての夢や目標だとかが生まれてくる、ともいえるだろう。


だからといって、「じゃっ、それを実現しましょう!!」、となると話は別だ。「部下を思う通りに動かす」なんてエモーショナルなキャッチに惹かれて講座に通うのは僕の美意識の中では「×」(ばつ)、だ。


・・・なぜか?


「人間を思う通りに動かす」という発想を具体化しようとする経営者やリーダーの思いは、「思考省略の際たるもの」だからだ。


逆に考えてみてもらいたい。自分の会社の経営者や上司が「部下を思う通りに動かす」なんてキャッチコピーの講座に参加してたら、自分がバカにされているような感じがしないだろうか??テクニックや技術で自分を動かそうとしてたら、ちと怖くないかしら??


僕は嫌だね。


そうではないのだ。まず、経営者やリーダーは「社員や部下は思い通りにならないものだ」という前提を認めることだ。


人間としての気質や、育ってきた環境、今おかれている立場、仕事に対しての向き合い方・・・・・さまざまな考え方が幾重にも折なっている人の集合体が組織、だ。自分と同じような思いを持っている人が集まる(そんな人が次々と育っていく)、という幻想を無くすことがまずは大切、だ。


その中で、「『結果として』自分と思いを同じくするような社員が現れればラッキー」くらいに思っているのが大人の考え方、だろう。


もうそれはテクニックや技術でどうこうというレベルではないのだ。経営者やリーダーの「全人格レベル」、経営者やリーダーとしての「存在レベル」での話、だ。1度や2度、はたまた数ヶ月の講座に出たくらいではどうしようもない、話だ。


「たんたんと仕事をしていれば、性格や気質は異なっていても思いを同じくするような社員や部下は必ず現れる」と長いスパンで信じることが大切、だ。


経営者やリーダーが巷に氾濫する「部下を思い通りに動かす」みたいな講座を「自分の人格をあげるため」との思いで参加するならいいだろう。そこには「自己責任」の思想が根底にあるからだ。


だが、「部下を思い通りに動かす」という目的でいくのはどうだろうか??そこにあるのは安易な操作主義、それと「他人責任」の思想が根底にないだろうか?


世の中、「人を動かしたい」って欲求を満たすようなものが溢れている。


が、僕はこれらのものからどれだけ離れられるか?が重要だと思っている。「部下を思い通りに動かしたい」という自分の弱い心と向き合うのが、僕が考える経営者やリーダーの理想の姿勢、だ。


「『部下が思い通りに動かない』のは自分の人格レベルの話だ」と思ってれば、「思い通りに動かない・・・・」と社員や部下に対してイライラするよりもより建設的だ、と僕は考えている。結局は自分に何かが足りないんだろうし、ね。


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追記
『○○が指南  女性をその気にさせるモテモテ講座』だとか『相手を意のままに操る◎◎』だとかの本が僕の本棚にはたくさんあります。


が、どの本も「こんな本を真に受けてばかだな〜」だとか「何でこんな本を読むヤツがいるんだろう」という視点で読んでます。いずれにしても操作主義満載のものには、あまりいいものはないですね。

August 23, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.22

正義と、正義もどき、と

正義感が強い、という人がいる。


自分自身をきちんと律していて、他人にも厳しかったりする。


「それでは筋違いだ」だとか「一般的にはこうあるべきだ」だとかの発言が多い。


僕もそういう時期があった。

社会正義みたいなものに憧れて(?)、ジャーナリストのはしくれになりたいと考えた。


小田実さんや本多勝一さんの本を読んで「おお、なるほど!!世の中の不正を正さねば!!」などと思った。で、「政治だとか、教育だとかをきちんとしなければ後世に禍根を残す」と真剣に考えた。(恥)


が、当時の僕の職業(?)はフリーター、だ。


その頃にある方(テレビにもでるような20歳くらい上の著名人)から「お前よ〜社会正義云々いうんならよ、めちゃ金稼げよ。で、その金を社会正義のために使うんだよ。その方がよっぽど世のため人のためだぜ!」といわれた。


更には、「今のままのお前では正義感云々じゃなくて、『正義もどき』だぞ」ともいわれた。


僕は、「この人は何も分かってないな」と思った。


皆がみな、そうして社会の構造に入り込んでしまっているからいけないんじゃないか、と。「まずはお金を稼いで、自分で生活していけ」という言葉で社会システムにとりこまれるからいけないんじゃないか、と。だからみな、日々の生活に追いまくられて、長いスパンで、広いスパンで物事を考えられないのではないか、と。


が、それから数年、僕は正社員として働きはじめ、すっかりと社会の構造(?)の中にとりこまれて(?)いった。(いまでは、その構造の伝道者?にすらなっている)


あれから、10年近くがたった。


当時の僕は、目の前に抱えたいろんな矛盾を消化できずにいた。「やりたいと思ってることができない矛盾」、「こうありたいと思ってるのにその目標までがめちゃ遠く感じられる矛盾」・・・・


多くの人はそんな矛盾を抱えながら生活をしている。


が、僕はダメだった。そんな僕が選んだ方法が旅にでることだった。更に、「社会正義」という崇高な目標を掲げる事、だった。


自分ができもしない壮大な目標を掲げる事は、自分の中にある矛盾や葛藤に目を向かせない効用を持っている。それでいて、現実逃避していない感覚で生活をしていられる。


更には誰に対しても聞こえがいい。正義、という錦の御旗を担ぐので誰にも文句がいえない・・・これって一挙三得、なのだ。


以降、僕は正義感を振りかざしたくなるとちょっと躊躇をするようにしている。それが自分の中の心の葛藤や矛盾からの言葉ではないか、と考えるようにしている。


さすがに、「社会正義」などの御旗を振りかざすことはしなくなったが、「会社ってのは○○が当たり前だろう」だとか「仕事って○○するものだろう」って言葉はよくよく使ってしまう。


これももしかしたら自分の葛藤や矛盾の現れであり、「正義もどき」なのかもしれない、という視点を持つようにはしている。(でも、勢いが乗ってくるととまらなくなる)


一方で、殊更に「正義」を振りかざす人には「何の矛盾があるんだろう?」と思うようにしている。「どんな葛藤があるのかしら?」と思うようにしている。


そんな風に考えると、「あの人は正義感が強い」って人の本質も「正義もどき」だったりして・・・人間、疲れてくると症状が体に現れるように、心が疲れると「正義」となって現れる人がいるようだ。僕もそんな傾向(?)を持ってるので気をつけないと、と。


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追記
甲子園、早稲田の初優勝だったみたいですね。僕は早稲田実業OBの荒木大輔が選手だったころ、高校野球や早稲田が大好きだったのでちょっと感無量、です。


荒木が最後の甲子園で徳島の池田高校にボロクソに打たれた日(確か14-2で早稲田が負けた)を思い出しました。あの日の一ファンとしての屈辱(?)はいまでも忘れてません。面白いように池田が打ってましたからね。


August 22, 2006 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.08.21

忙しい自分に満足していますか?

週末は心理療法のワークショップにいってきた。


テーマは「忙しい自分に満足していますか?」。


忙しくしなければ精神のバランスがとれない、という心のメカニズムを分析しながら自分に向き合うワークショップ、だ。


一般的には親の期待水準が大きかったり、何か解決できてない課題(トラウマのようなもの)があって目をむけたくない場合、自分の身を破滅させる程忙しくさせてしまう傾向がある、という。


なるほど・・・付き合いだ、仕事だと「忙しい」経営者が実はみたくない現実から逃避しているケースはよくある、と見聞きする。仕事を言い訳にしているだけに僕らは細心、こんな陥穽に気をつけなければならない。


自分が忙しくしている理由


僕の場合、心の中身を探っていくと「こうはなりたくない」という思いが強いらしい。どうやら、そんなコンプレックス(?)のために時に突き動かされるように働く傾向があるようだ。


だが、逆を言えばコンプレックスが原因で突き動かされるように働いたから今の会社があるのも事実、だ。豊臣秀吉の例を出すまでもなく、コンプレックス(?)は時には大きな力となるし、物事を行なう原動力になる。


だから、コンプレックスがなくなればいいってもんでもない。心の中にあるそんな思いを認めて、意識的にバランスよく付き合うことが必要、なのだ。


一方で、コンプレックスから心の病にかかってしまう人もいるのも現実だ。


人に対して極度に恐れてコミュニケーションがとれなかったり、自分を認めたり受け入れてあげられなかったり、何をやっても不完全燃焼感が残ったり・・・


僕の現在の課題は、そんな人たちの状況を少しでも理解しようとすること、だ。


僕の頭の構造の中では、自分のことを認められないという気持ちが正直、良く分からない。そういう人の多くは、まじめで素直でごくごく普通だったりする。「人に認めてもらえる要素がありありじゃないか・・」と考えてしまう。


で、「もっと自分に自身を持つようにしたら」といった本人達をますます苦しめる言葉をかけてしまう。自分だったらこういわれればいいかな、というところからの発想しかできない。悲しいかなこれが現時点での僕の限界、だ。


こと人間関係では、自分の理解できる領域の中で自分を伸ばす事はたやすい。自分と同じような感覚の人であれば言葉も気持ちも理解することはたやすい。


が、自分が理解しにくい人の感覚や気持ちを理解するようにすることではじめて自分の中の可能性が広がっていく、とも思う。


人間の真の成長は心の世界が分かるようになること、だ。


まずは「自分の心の構造と傾向」、そして「他人の心の構造と傾向」。最終的には「組織の心の構造と傾向」がわかるようになること、だ。


本来ならば、仕事や日常生活をしていく上でこれらのことを学んでいくのが王道、だ。ただ、人間の叡智はすばらしいもので、心理学という学問はこれらを体系的な形で僕らに学びの方向性を示してくれている。


これを使わない手はあるまい・・・。


しばらくは、心のメカニズムについて取り組んでいきたい、と思う。


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追記
そいや、もう1ヶ月半くらいは休みをとってないです。休みの日をつかって「忙しさ」をテーマにしたワークショップにいくというのもおかしなような・・・


まっ、僕らの休みなんてのはあってないようなものですからね。今日も夜はジム通い、です。

August 21, 2006 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.08.18

ああ、思い出の数々が・・・・

200608170755000


会社が狭くなり、お盆中に内装工事をしてレイアウトを変えた。


僕の部屋が半分の大きさになって、さながら書籍に囲まれた物置きみたいになった。


「あのう、これらの雑誌どうします???」-うちの現場サイドから質問が入った。会社に大量に保管されている雑誌の処遇(?)について、だ。


クライアントの広告を取り扱うと、出版社から掲載見本誌が送られてくる。それらの雑誌がたまりにたまっていていい加減、場所が手狭になっている。


優しい口調(?)の裏には「もう、そろそろ片付けてもらえないか??」というニュアンスを感じたような・・・(被害妄想?? 気のせい??)

確かに、いままで片付けるチャンスは何回もあった。うちの会社は2年に1度、引っ越しをしてきた。そのたびに、「この見本誌の数々どうします?」とのやりとりはあった。


ただ、そのたびに「これは俺の思い出だ!」とか「うちの会社の苦難の(?)歴史の証人だ!」とかいって片づけ(要は処分、ですね)を拒否していた。


これらの雑誌には創業の頃から手がけていた仕事の見本市のようなもの、だ。信用も実績もない会社が、出版社や広告代理店と取引口座を広げていったプロセスを証明するもの、だ。


ひとつひとつの雑誌には、それぞれ深い思い出がつまっている。


「クライアントと2日間、ひたすら酒を飲みながら事業の戦略、原稿の構成を考えたなあ・・・」「締切に間に合わず出版社に文句をいわれながら近くのファミレスで原稿をつくったな・・・」「いきなり広告申込みがキャンセルになって、原稿に穴をあけそうになって必死でかき集めたりしたなあ・・・」


「諸事情で『雑誌はできたけど発売はしない』って本だったよな・・・」「読者から『広告代理店の責任者出せ!』」といったクレームが入ったな・・・」


「原稿のミスでお客さんからお金が入ってこなかったなあ・・・」「出版社と思いもよらないトラブルがあってまいったよな・・・」「デザイナーがいなくてホントに困ってたよな・・・」


そんな思い出の数々の生き証人(?)だ。


たまーに眺めては、「あの時に比べたら良くはなってるよな〜」と自己満足に浸っていたのだが・・・もう思いきって捨てるしかない・・・(当然、ある程度のストックは残しておくけど・・・)


「これもタイミング、だな。じゃ、処分していいよ」というと、翌日には束になって梱包された雑誌の数々が・・・


「・・・・まっ、時は流れてるからな」としばししんみり。仲のよい友達と離ればなれになる感覚、といったらいいすぎ、かしら・・・。


お金や仕事は「きちんと捨てたり、消化したり、与えたりすると新たに入ってくる」と僕は考えている。人間のキャパは決まっている。そのキャパを越えるためには、持ち過ぎたら捨てる勇気を持つ事が必要、だ。


特に、仕事については「いままでの仕事のやり方を捨て続ける事が勝負だ」とさえ思っている。でなければ、僕が進歩しない、会社も停滞する・・・。


が、モノはなかなか捨てられない・・・そいや子供の頃からそうだったな。


だからモノを所有するのは苦手、なんだよね。


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追記
いい組織には必ず「歴史やエピソード」が存在していると考えています。(NHKでやっていた「プロジェクトX」みたいな感じですね)


で、歴史やエピソードを語る「語りベ」の役割をした人が普及活動(?)をしています。


「○○みたいなことがあったから今のような会社になった」だとか「○○の失敗を通して会社は○○を学んだ」みたいなことを、新しく入ってきた人に話をする存在、ですね。


多くの中小企業の場合、最高の「語りベ」は経営者です。経営者は自分の哲学のようなものを語る時に、きちんと自社の歴史などを伝えながら哲学の背景までを語らねばならないと僕は考えてます。


今回、処分した雑誌に関しても一つ一つの雑誌をテーマにして「うちの会社の歴史」みたいなものを講議でもしたいくらいです。(爆)

August 18, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.17

改めて、ブログを書く意味(のようなもの)

このブログを書いて1年半になろうとしている。投稿件数もまもなく300本、だ。


はじめは「ブログがブームだからやり方を知っておかないとな」程度にしか思っていなかったが、書いていくうちに「ブログは自分がはたらく美意識を打ち出す恰好のツールだ」と思うようになった。


※その辺のところは「ブログを書く意味」で過去に書きました。


仕事に対して、生きるということに対して、お金に対して、人間関係に対して、成長ということに対して・・・僕はまず、経営者リーダーの側から自己開示することが必要だ、と考えている。


究極的には、お取引先も、協力業者も、社員やアルバイトも、経営者やリーダーの「働いたり生きたりする美意識、姿勢」に共感した人しか残っていかない、と僕は考えているからだ。

かつての日本社会では、経営者やリーダーが自らの言葉で美意識を打ち出す風土があった。うわべの言葉だけではなく、「言霊」(魂の入った言葉、ですね)として社内に浸透できる優秀なリーダーが存在していた。


そんなリーダーが言葉を語る機会が減った。


僕が大嫌いな「人は人、自分は自分」の文化が会社にも浸透しはじめたから、だ。で、権利ばかり主張するエセ大人が大量に生産された。(それが日本企業低迷の一つの要因だと僕はまじめに思っている)


組織に命を吹き込むリーダーも時代の流れとともに畏縮してしまった。一生懸命にやる、という美徳がだんだんと崩れ、人に嫌われたくない調整型のリーダーが大量生産された。・・・まずは、人に嫌われる覚悟をすることがリーダーの条件なのに、ね。


僕の中でブログはそんな時代に「仕事の美意識を打ち出すことにより、言霊をつくりあげる恰好のツール」だ。言霊とは、自らの哲学が根底にあってはじめて自分の言葉に宿るものだ。説得力だとか、他人を巻き込む力だとかは言霊の力の有無がポイント、だ。


その言霊を生み出すのにブログは適している、


もひとつ、ブログを書く意味(効用)は「初対面の方であっても『信用できそうだ』と思われること」だ。


人間が人に信用されるには二つのパターンがある。


一つは、信用がある人に「こいつは信用できますよ!」と言っていただくこと。これは僕が創業時によくやったパターン、だ。


もひとつは、「細かなことを通じてちょっとづつ信用を築いていくこと」だ。


「ブログを書いている」ということだけで信用される、というのも妙な話だが・・・実際はそうらしい。


朝、ネットを開く。するとブログが更新されている。それが、週に何度か続く・・・この繰り返しでかなりの信用が築かれているらしい。少なくとも「こいつは仕事をしている」とは思ってもらえるらしい。


もひとつ、ある方が「ブログを半年も書いていれば嘘をつけない」とおっしゃっていた。


確かにそうだ。僕も2〜3ヶ月くらいだったら自分の心にもないことでブログを書いていく事ができるかもしれない。が、半年は無理だ。ましてや、1年などは絶対に無理だ。


かならずどこかでボロがでてくる。


少なくとも、半年以上ブログを書き続けるということは「まじめに、本当に、仕事に向き合ってるんだな」という恰好のプレゼンテーション(?)なのだ。これはなによりの信用の積み重ね、なのだ。


そんなだから、ブログの更新にはまだまだこだわっていきたい、と思うのです。いつも読んでいただいている方、ありがとうございます。


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追記
ブログはあくまでも美意識や言霊を伝えるための一手段、です。目的ではなく手段、この辺はきちんと見失わないように、とは思ってます。


ブログが目的化してきたらすぐさま閉鎖します。僕の目的は、きちんと仕事をして関わりある方の成長の機会をつくって、いくばくかの安定を保証することですしね。

August 17, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.16

本を読むセミナーに参加して

僕は、「本を読めば人生が変わる」とマジメに思っている。


が、そんな話をすると「本を読むと行動力が鈍る」「本を読むと既成概念ができあがってしまう」(だから、本を読まない・・)みたいに言われることがある。


確かに表層的にとらえるとそうかもしれない。小学生や中学生が読書にハマりすぎると、こんな指摘は的をえているかもしれない。


が、僕らは大人だ。本を読んでも、無意識のうちに「自分の経験」というフィルタリングをかけている。だから既成概念ができたりはしにくい(はずだ)。


僕は「本を読めば読むほど行動力はついていく」し、「本を読めば読むほど既成概念などとは縁遠くなっていく」と考えている。少なくとも僕の経験上はそうだ。


大人の読書は単に知識を得るために読むのではない。逆に、知識を捨てるために読むのだ。


インターネット革命により、「知識」は急速に価値を失った。地方に住んでいる一小学生でもネットを駆使すれば、大学論文にアクセスしたり、ホワイトハウスの情報(あくまでもオフィシャル情報ですが・・)にアクセスできる。


単に「物を知っている」だけでは二束三文の時代、だ。そんな時代には、知識を「智慧」に変えていく働きかけをしなければならない。それが、読書の役割、だ。知識の価値がなくなったからこそ、知識を得るために読書をするのだ。


我々は知らないことは分からないし、知らないことはできない。とにもかくにも、最低限の「知識」を脳にインプットしないと、「智慧」云々のレベルの話はできない。そりゃそうだ、知識がなきゃ何をどうやって考えていいかも分からないんだし・・・


確かに、自分の周りに起きたできごとから反省だとか熟考したりして「智慧」をつくる作業はできるかもしれない。けど、我々の日常はそうそう智慧を創発するようなことばかりが起こるわけではない。多くの日常はたんたんと過ぎていく・・・


本を読めばわずかの金額で、智慧の創発を加速度的にやれるのだ。これは、使わない手はないだろう。


先週末は、3日間をかけてフォトリーディングの講座を受講してきた。速読、といっていいのかしら??アメリカの加速教育のひとつで、本をたくさん処理するための技術、だ。


実は3年前にもこの講座を受けていて今回は再受講、改めて思いました「本を読まないといかん」と。


その一方で、下は大学生からの講座の参加者と話をするうちに、「皆が皆、本を読むような時代になったら困る」とも思いました。僕が、会社を続けさせてもらってるのは、一つには「早く起きていること」、もひとつが「本を人より読んでいること」が大きな要因です。


僕よりも仕事のスキルやセンスがある人はゴマンといます。業界のキャリアの長い人だっていくらでもいます。そんな人が同等の本を読まれたらこりゃまずい、と思いました。人と競争するようなことではないんですけどね。


でも、多くの人にとって読書と早起きは「やりたくてもできない」ことの代名詞、です。


僕は徹底的にその分野(?)を極めていこう、と思いました。1ヶ月で30册の読書は必読にしたい、と考えました。


それは、広告という言葉を仕事にしている会社の代表者としての最低限度の責任だ、とも思いました。


フォトリーディングに関してはこちら
フォトリーディング公式サイト


追記
お盆中に夢をみました。5月に亡くなった猫がでてきました。抱いてる感覚までばっちり残ってました。普段はほとんど夢をみないんですけどね。


August 16, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.10

習慣について考えてみる

「いい習慣が、いい成果を生み出す」


これに異論はないでしょう。


僕はイチロー選手が「試合が終わった後に、グローブの手入れをしながら試合の反省をする」という話が大好きだ。


トップアスリートや一流の経営者について書かれたものを読むたびに、練習や仕事を習慣化することの大切さを感じる。


が、それは分かってるのだが、ものごとを習慣化(=やることが決まりになっている)することは難しい。


僕もちょっと考えただけでも習慣化したいことがいっぱいある。

●身の回り(特に机の上)は綺麗にしたい    
 (が、机の上は・・・以下、自主規制)

●規則正しい食生活をしたい    
 (が、暴飲暴食、間食がとまらない)

●日記を毎日つけたい    
 (が、書こうとすると寝てしまう)

●ベットの上で寝たい   
 (・・が、体力がつづかず床でねてしまう)


など。。。習慣化できずにいることがいくつもある。これが日常生活でごくごく普通にできれば仕事の成果も変わってくるとは分かってるのだが・・・


一方で、僕の中で長い年月を経て習慣化したこともある。特に書面にまとめてある訳ではないが、思い付くまま羅列すると・・・


1.朝5時に起きるようにしている。(達成率は半分、くらいですが・・・5時15分くらいが多いです)


2.「暑い、寒い、忙しい、疲れた、時間がない」を否定的な文脈で使わないようにしています。
 (「それよく口にしてるじゃん!」といわれるかもしれませんが、本人はかなり気を付けてます。)


3.1日にあった「よかったこと」「はじめて体験したこと」をノートに書いてます。(変なポジティブシンキングで「僕はできる!」などと唱えるのなら、こっちの方が数倍も有益だと思ってます)


4.本を1日100ページ以上読むようにしています。
 (本当は1日1冊といきたいです。僕らは言葉を仕事にしているので・・・)


5.お金の向きをそろえるようにしています。
 (これは、僕の周りのお金持ちがほとんどやってるからです)


6.玄関の靴の向きをそろえるようにしています。
(これは、運が良くなるからと聞いたからです。)


習慣になってることってこんなものかしら・・・(あと、1つはここでは書くのをやめときます)


でも、習慣化できることと、習慣化できないことがあるのはなぜなんだろうか??


僕は、世の中のほとんどの人が「やりたいけどできない」っていう早起きが習慣化されている。が、小学生でもできる「机の上の整理整頓」がいつまでたってもできやしない・・・


この心理メカニズムを分析すると「自分の無意識がどれだけコミットしてるか」の違いがあるように思えてならない。


例えば、僕が習慣化している早起き。


僕は朝の早起きが大事だと思っている。どんなに仕事のセンスがなかろうが、朝4時とか5時に起きてたんたんと仕事をすれば、数年後に大きな成果になると思っている。


で、それらの思いは僕の無意識レベルでもコミットされている(無意識がどう考えているかは分からないので判断はできないのだが・・・)いままで読んだ本や聞いた「早起きは大事だ」という話が、潜在意識の中にきっとたくさん残ってる。


だから、「早起きを習慣にしたい」と頭で思った時に、顕在意識と無意識が同じ方を向いてるので早起きを習慣化できるのだ。


一方、なかなかできない机の片づけ。


僕の中で机を片付ければ仕事がはかどる、とは思っている。資料を探したり、紛失することがなく、お客さんにも迷惑がかからないと思っている。自分でもそんな仕事の進め方をしたい、と思っている。


が、無意識の根底の部分で「どこか乱雑な方が経営者らしい」と考えている自分が存在する。机の上がばっちりと片付いてるより、「机の上が乱雑な方が仕事ができそうだ」というイメージがあったりする。「アイデァは混沌と乱雑の中からしか生まれない」と思っている自分がいる。


そんな情報が潜在意識の中に必ず存在している。だからどれだけ意識レベルで「片付けを習慣化したい」と思ってもなかなか習慣化されない、のだ。


最近、ビジネス書の分野などで「よい習慣をつけましょう」的な本が売れているように思う。が、「よいことだとは思うんだけどなかなかできない」という人も多いはず、だ。


そんなことはあまり気にすることはない、と僕は考えている。人間には性格の違いがあるかのように、習慣化されることも人それぞれの傾向(?)があるのだから。


それはひとえに、顕在意識と無意識の間の意識のズレ、だ。


習慣化できることと、習慣化できないことを通して、自分の無意識が何を考えているのか?僕はそんな感じで習慣と向き合うようにしている。


なかなか習慣化できないことは自分の意思が弱いのではない。自分の潜在意識と方向性がずれている、のだ。


僕がお世話になっているセラピストがこんな話をしてました。


「仕事をバリバリしたい」と頭で思っていても、潜在意識のどこかで「仕事をせずにラクに過ごしたい」って考えがあれば、いずれ燃え尽きてしまうんですよ・・・無意識で否定する事を顕在意識で無理に押し付けようとするのはどうか、と思いますよ。


僕もかく思います。潜在意識の力をあなどってはならない、と思います。


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追記
明日から、3日間「フォトリーディング」の再受講にいってきます。これは潜在意識だとかの力をつかって本を読む(ながめる?)技術、です。


潜在意識をいかにマネジメントするかって僕はとても重要だと思います。「えー、うさん臭い」と思ってる人が多い(そうでもないかな?)うちがチャンスです。


今日は朝一番からジムのレッスンです。これも、習慣化されたことかもしれませんね。


August 10, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.08

人を採用しない戦略ってどうかしら??

とある席で「起業家」の方と席を同じくした。


何でも、一人で創業して年商6千万円強という。情報商材を扱っているため、荒利率は高い。まあ、なかなかのビジネスといえるだろう。


その「起業家」と人材の採用に関しての話になった。


彼の根本的な考えは「社員を採用してビジネスを広げるを広げるってナンセンスですよね」ということらしい。


僕は「なんでそう思うんですか??」と聞いてみた。

何でも、「経営にとって大事なのは人件費のコントロール」で、「そのためには社員を採用するのではなく外部業者とのネットワークを結ぶのが大切」であり、「これからの時代は軽い本社をつくることが大切」だという。


「ふーん、どこぞの経営の本に書いてあるようなことですね」と僕は思った。


確かに、そんな経営ができれば理想、だ。でも、それが幻想(あえて言い切ります)だから人を採用するんじゃないかしら・・・。経営にいいとこどりは有り得ないんだし・・。


「では、人を採用せずにクライアントへのサービスのレベルが保てると思います??」と僕は聞いてみた。


「大丈夫ですね。ネットで商売が完結できるようなシステムをつくってますから」


なるほど、ね。


でも、僕はどことなくモヤモヤした感じが残った。これから事業を伸ばしていこうと思っている「起業家」が人を採用することを最初から放棄することに対して、だ。


会社が大きくなっていくと必ず行き当たる問題に直面する。


それはクライアントへのサービス、の問題だ。


年商で1,000万円の時は問題でなかった会社のシステムが、5,000万円、1億円となっていくに従っていままでのシステムが機能していかなくなっていく。


当たり前だ、物理的に仕事の量が増えるのだから、1件あたりのクライアントにかけられる時間は相対的に減っていくはずだからだ。


それを解消するには、いままでの業務プロセスを見直していきつつ、きちんと人を採用して、地道に教育をしていかなくてはいけない。経営資源(「人」「モノ」「金」「情報」)の中で「人」だけはものすごく時間がかかる。なるべく早め早めに手をかけないとサービスは低下したまま、だ。


つまり、会社が成長カーブを描いても人を採用せずに経営を続けていこうという考えは間接的には「サービスの放棄」を意味してると僕は考えている。


あとは、「起業家」の心の問題だ。


人を採用するのは、確かに骨が折れる。採用のための広告費もかかるし、月々の給料も発生する。保険代もかかるし、賞与だって出さないわけにはいかないだろう。そもそも、いい人(これも幻想、ですけど)が採用できるか分からないだろうし・・・。


それで「ようやくと仕事ができるようになった!」と思ったら、会社を辞めたりしてしまうこともあるだろう。なかなか思い通り動いてもらえないことにイライラもするかもしれない。よかれ、と思ってやったことが反発を招くこともあるかもしれない。


この起業家のとっている「人を採用しない」という戦略がそんな不安や自信のなさから来ているのだとしたら僕は立ち止まって考えないといけない、と思う。


なぜか・・・


僕らは経営をするという宿命をたまたま持つことになったのだ。政治家でも、芸能人でも、職人でも、ショップ定員でもなく、会社を経営するという宿命、だ。


であれば、いいことも悪いこともすべてひっくるめて問題をかぶって、経営者としての成長を図らねばならない。


経営者としての成長は、社員との日々の格闘(?)を通してしか訪れにくい。「人を採用しない」という戦略が、そんな日々の格闘を放棄している声によるものか、は考えてみてもいいかもしれない。


まあ、これも「ひとそれぞれ」って一言で終わってしまうことなんですけどね。


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追記
僕は、すべての経営者は「雇用を広げていく責任がある」と思ってます。社員として人を採用するのはもちろん、取引業者に仕事が回るようにするのも僕らの宿命です。


いくら政治家や官僚が崇高な政策を打ち立てようと、僕ら経営者が人を採用しないと日本の経済はよくなりませんからね。会社が人件費倒れになっては本末転倒ですが、常に大局的な視点を持つことは大事だと考えてます。


もはや「誰かが何とかしてくれる」という年代じゃないですしね。


August 8, 2006 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2006.08.07

「できる人」と「できた人」と

大学時代、僕は運動部に在籍していた。


大学の運動部はやたらと昇進(? 進級、ですね)が早い。1年に1度は必ず昇進し、部下(後輩)ができていく。


昇進とともに幹部となり部の運営を担っていく。会社でいえば、取締役会に入って会社の方向性と運営の責任を担うようになった、ということか。


今、数多くの先輩、同輩、後輩を振り返ると、幹部になっていくシーンでいろんなパターンがあった。


その中でも僕が嫌だったのは、幹部になると「気兼ねなく話ができる先輩」が「できた人」になってしまうパターンだ。人間的に「できた人」を演じてしまうパターンだ。


確かに、幹部やリーダーになるのであればこういう姿勢をとって背伸びをすることは必要かもしれない。


僕はリーダーには、絶対美意識が必要だと考えている。リーダーとして何が正しくて、何がかっこういいのかを持っていないと、無責任で人の上なんかにたてるもんじゃない、と考えている。


が、「できた人」を演じるのは僕の考える美意識とはちょっとずれるのだ。「できた人」を演じるのであれば、素の自分をさらけだしてメンバーに接していくのが幹部としての美しい姿勢だと思っている。


素の自分をさらけだす、ということはきちんと喜怒哀楽を明確にすることだ。でないと、深い部分での信頼は得られないのじゃないかしら・・・。


所詮は(といっては大学の運動部は成立しえないが・・)学年の1つ、2つで大きな隔たりがあるのが大学の運動部、なのだ。そこに、上下間での人間としての存在価値の違いなどはほとんどあるまい。幹部になったからといって「できた人」などを演じていてもすぐ化けの皮は剥がされてしまうのだ。(逆に、本当に「できた人」は幹部になる前から存在が違っている、と思っている)


それよりも幹部になったら「できる人」を指向したい、と僕は思った。部内の仕事をきちんとやって、「あの人がいればなんとかなる」とメンバーに思われる方が「できた人」といわれるよりもいいな、と考えた。


さて、今から15年程前の部活動の話を唐突に出したが、この考え方はいまでもほとんど変わってない。


社長らしく「できた人」を演じるつもりは僕はほとんどない。(そうせざるを得ないシーンはままあるが、そうそう多くはない)それよりも、仕事だとかで「できる人」を指向したい、と考えている。


「できた社長」は作り物ではかっこうが悪い。「できる社長」でありながら、いずれそのうち遠ーい将来にでも「あの人はできた社長さんですね」といわれればいい。


だいいち、若くして「できた社長」などいわれてたら気持ち悪くないかしら???なんだか人間的な魅力も薄そうだし・・


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追記
今週は来客があったり、8年ぶりに昔の先輩とお会いしたり、3日間の速読の講習会(再受講)にいったりとバタバタしてます。


お盆の間はひたすらジムにいくのと、秋に出したいDVDのコンテンツを考えて終わりそうです。


August 7, 2006 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.08.03

組織の相乗効果を図るには・・

「商品の発送業務を外注業者に出そうか、出すまいか?」


数カ月前、このことで悩んだ。


僕の会社では広告事業の傍らで、ヒーリンググッズをショップやサロンに卸す仕事をしている。最初は3店鋪ほどのスタートだったのだが、4年目で600を越えるお取引先とご縁ができた。


いままで受注した商品の発送は自社で行なっていたが、スペースが狭くなり、こまごまとした業務に担当が忙殺されるに及び、「お金がかかってもいいから外注先を探そう」と考えた。


で、いくつか現場レベルで打ち合わせをして、見積もりをいただいた。


が、どうも僕の中でモヤモヤ感が残る・・・。なんかすっきりとしないのだ。


僕は仕事をしていてモヤモヤ感、イライラ感、ドキドキ感がおきた時は、それをしばらく見つめることにしている。


それらの感情は、僕の内面からのメッセージだと思うからだ。


それらに蓋をして、日々の忙しさにかまけていては、自分の内にある感情は燻り続けるだけだ。自分の中で消化されない感情のようなものは、いずれそのうちに爆発する。で、あればモヤモヤがあるたびに現実を見つめて感情を消化するほうが長期的にみるとリスクは少ない。


その時も、しばらく時間をとってモヤモヤ感を見つめることにした。


で、一つの考えが徐々にまとまってきた。


「外注先に頼むのはいかがなものか・・・」と。


一時期、会社の業務を外部に依託する(アウトソーシング)のは効率経営の代名詞みたいにいわれた。(今でもそうかしら??)が、僕はアウトソーシングに頼り過ぎる経営を指向するのはナンセンスだと考えている。


理由は二つある、


一つは、会社の中にノウハウが蓄積されにくいから、だ。


僕らは新しい仕事をすると、対価としてのお金の他にさまざまなものをいただく。その中でも重要なのは、経験や体験の蓄積、だ。それが、ノウハウとなって会社の財産となる。アウトソーシング経営ではノウハウの蓄積が期待できにくい。


もひとつは、社員同士の方が仕事の相乗効果が高まるから、だ。


デザイナー、ライター、イラストレーター、企画屋さん・・・いままでいろんな外部の方と仕事をしてきた。今でも、うちの会社にはなくてはならない外部の方はたくさんいらっしゃる。


それらの優秀なスタッフを仕事の案件ごとにキャスティングできれば効率的な経営ができる、とは誰しもが思うだろう。


が、僕はいままでの仕事を通じて「社員同士のコラボレーションに勝るものはない」と考えている。社員間で行なう仕事の相乗効果は、なかなか外部スタッフとの間では形成されないものだと考えている。


考えてみたら当たり前、だ。会社に対しての向かい方が根本から違うのだから・・。


兵法で有名な孫子だったか、戦争論の著者だか忘れたが「傭兵に頼る組織は失敗する」みたいなことを読んだ記憶がある。(外部スタッフの方を傭兵と頼るのは不適切、ですが・・貴重な戦力という意味です)


戦争を行なう際の組織編成の時も、ちゃんと自国の人間を使った方がいい、ということらしい。僕はこの原則は経営にもあてはまる、と思っている。日産自動車を回復させたカルロス・ゴーン氏が「日産にとって絶対に欠かせない外注業者は数社だ」と確かいっていた。


取引先は数千社あるであろう日産ほどの大企業ですらそんな感じなのだ。かくまでに、外注先とのコラボレーションは難しい。組織としての相乗効果を発揮したいなら、きちんと早め早めに人を雇って、その人たちを戦力化することだ。


そんな僕の内なる声がでてきたので外注(アウトソース)を辞めて、人員を増強することにした。まだ、2ヶ月もたっていないが、僕の判断は間違いなかった、と痛感している。


今日のブログは自画自賛、かしら・・


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追記
亀田選手の世界戦、ラストの3ラウンドだけ見ました。判定云々についてはとやかくいうつもりはありません。僕も格闘技のジャッジをしていて、「ふざけんなコラ」といわれて嫌な思いをしたことがありますしね。運も実力のうちですし、採点は採点ですし。


ただ、格闘技としてのボクシングが舐められるのが怖い、です。


今は格闘技にあまり興味がなくなってしまったけど、かつては熱狂的な格闘技ファンだった僕にとっては、亀田選手の判定云々よりそっちが気になります。


アリ、フォアマン、レナード、ハーンズ、デュラン、チャベス・・・キラ星のごとくボクシングの歴史を飾った選手たちは昨日の試合をどうみるんでしょうね。

August 3, 2006 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.08.02

公共施設での「マナー」について考える

通ってるスポーツクラブでの話。


やたらと「マナー」についてうるさい会員さんがいる。


「うるさい」だとか「集団になっていて邪魔だ」だとか「場所取りをするな」だとか・・・で、クラブのお客さまの声に書き込んだり、スタッフに注意を促したり、時には悪口罵詈雑言サイトにイライラした思いを書き込んだりする。


そんなだから、一部スタッフはやたらと「マナー」とやらにびくびくするフシが見られる。ちょっと過度に反応しすぎじゃないか??というスタッフもいる。

「マナーとは人間が集団生活で楽しく生活するための共通ルール」のようなものだ。


それ以上でも、それ以下でもない、と僕は考えている。所詮(といったら語弊があるか?)は僕らが楽しく生きるための数ある生活の知恵の一つでしかないのだ。


僕は「マナー」を殊更に主張する会員さん、「マナー」に必要以上にびくびくしてるスタッフはどうも本筋を外しているような気がしてならない。楽しく時間をすごすためのルールに僕らが束縛されたら本末転倒じゃないかしら??


更にいうのであれば、「僕らは誰かに迷惑をかけて生きてる可能性がある」というニヒリズムくらいもっていてもいいのではないかしら??誰にも迷惑かけないで生きていく、ってのは誰だって無理なんだし。


「マナー」を意識的に違反(?)してるのならともかく、誰だって無意識にマナー違反してることだってあるでしょう・・・そう思えば、多少の他人のマナー違反に対しても寛大になれると思うのだが・・・どうだろう??


僕はスポーツクラブにいっても、特別マナーみたいなものを気にすることはない。「周りの人はこれをしたら嫌がるかな」だとか「これを言っらまずいよな」というのは日常生活をしてる時や仕事をしてる時と変わらない。


で、たまに人の地雷に触れるようなことをやってしまったりする。そしたら、きちんと謝ったり反省すればいい。「すみません」「ごめんなさい」「以後きをつけます」僕らは便利な3つの言葉をもっているのだから。


ジムだからといって特別なものなど何一つない。ごくごく普通の日常生活のワンシーンといっしょだ。


そんなものだから、マナー違反みたいなことをされてもあまり頭にはこない。場所の割り込みだとか、大きな声でしゃべるだとか、一部で盛り上がるだとかに関してもあまり頭にきたりすることはない。(たぶん)


「明日は俺が迷惑をかける番かもしれないしな〜」だとか「自分も体がでかくて後ろの人に迷惑かけてるよな(汗)」だとかくらいに思ってる。


が、一線を越えた人にはきちんと対面で注意を促す。


と、ある会員さんがなぜか僕と会うたびに聞こえるように独り言で陰口をいう。最初はほっといたのだから、ある瞬間から僕の臨界点に達した。「おにいさん、何かいいたいことあるのならいいなさいよ」と本人に直接いった。


本人は「いえ別に・・・」といったきり、以降は目もあわせてくれなくなったが・・(汗)別に、喧嘩うったわけじゃないんですが・・。


こういうこと書くとやりすぎだとかいわれるかもしれないけど、マナーは所詮は生活の知恵の一つだ。(僕の中で)マナーを逸脱した会員さんに注意を促すのはあたりまえの話、だ。そんな存在のためにせっかくの時間をムダにしたくはないからね。


もうちょっと「マナー」に対して寛大になれば、ジムライフももっと楽しいのに、と僕は思えてならない。


顔見知りの人間関係だって、知らない人との人間関係だって、ある程度の迷惑を受けたり、迷惑をかけたりの中で相手との距離感が分かっていくものなんだし。


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追記
僕はマナー否定論の立場じゃないですよ、念のため。(たまにこちらの意図と逆に読まれたりするんだよな・・笑)


回りの事を気づかう気持ちは絶対に大切だと思ってます。けど、「人間関係で地雷に触れることを極度に恐れるのもいかがかな」とも僕は思います。


そんな事なかれ主義で会社をやってたら成長も進歩もないですしね。究極的には「人間は地雷に触れたものからしか真の学びは得られない」と思ってますし。


「あいたたた・・・やっちゃったよ」を恐れてはなりません。

August 2, 2006 | | Comments (0) | TrackBack (0)