« May 2010 | Main | September 2010 »

2010.08.31

富士山に登ってきました。

多くの人が登っているのにびっくりしました。


1008301


100830


なんでも年間で25万人が登っている、とか。


僕は「自分が起きる時間には世の中はまだ動いていない」というのを、自分のささいな自信(?)にしていましたが、いやいや、すでにばっちり世の中は動いてました(笑)夜中から山登りする人がいっぱいいって驚き、です。


毎日毎日、何百年もご来光を見に富士山登頂している人がいる


富士山が、俗にいわれるパワースポットだとかどうだとかはともかくとして、それだけでもスゴイ場所ですね。


行ったことない人にはおススメしますが、しんどかったので自分自身のしばらくの再訪はないかな、と。


ご一緒した方お疲れさまでした!

August 31, 2010 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.08.26

「ポジティブシンキング」について考える

「ポジティブになれば成功する」という考え方があります。


僕も一時期はまり、成功哲学みたいなものを手に取りました。で、講座に参加したりしました。


けど、「自分がどう考えてもポジティブになれない、という時にどうするのだ?」という疑問に対して当時の僕は明確な答えが見つかりませんでした。(実は今もです)

仕事をしていればポジティブになれない思いで迎える月曜日の朝はいくらでもあるでしょう。どれだけ考えても気持ちが重くて逃げ出したい商談だってあるかもしれません。


「結局はポジティブになれない自分の努力や姿勢、という部分に帰結しないといけないのか・・・」


そう考えると、急にこの考え方が窮屈に思えてきました。そんな「努力」をするのであれば、「現実」に焦点をあてた方が賢いのでは?と考えるようになりました。いまから、10年くらい前の話ですかね。


その後、「ポジティブ、と考える自分の心にある葛藤」の有無について考えるようになりました。


「ポジティブシンキング」は僕の認識ではあくまで「思考」レベルでの話です。


けど、僕らは思考だけで生きているわけではありません。「思考」「心」「身体」といった部分を包括的にとらえないと、人間どこかでバランスが崩れます。


「ポジティブに考えてるけど、どこかに無理があるような感じがする」


これはきっと、「心」や「身体」が葛藤を感じているんです。「NO」とか「無理」とかいうサインを出しているんです。


そんなことから、「自分が考えていることと、心や肉体との間に葛藤があるかないか?」を考えるようになりました。どこかに違和感がないか考えるようになりました。


で、違和感があるものは素直に従うようにしました。


すると「心」や「身体」はさまざまなサインをだしているんだな、とちょっとだけ気づくようになりました。それらは、「思考」以上に賢いのだな、と思うようになりました。


そして、現在。


僕は「ポジティブシンキング」という言葉そのものに対して、違和感を感じるようになってきました。なので、僕のボキャブラリーからはこの言葉はほぼ姿を消しました。


いわゆる「成功者」と呼ばれる人にはポジティブシンキング(あえてこの言葉をつかいます)的な人は多いと思います。


けど、「ポジティブシンキングが『成功』の条件」として考えると違うんじゃないかしら・・・・
だって、多くの「成功者」はポジティブシンキングなんかそんなに意識していないだろうし・・・。

僕が大事だな、と思うのは「ポジティブシンキング」よりも、「無邪気」ということ。


僕の知り合いに5つくらい上の経営者がいらっしゃいます。交友関係が広く、どこにいっても「ポジティブですね!」といわれるような明るい性格の方です。


「こんなすげーことを考えた」といってコピー用紙の裏紙に書かれた「企画書」を前に嬉々としてビジネスのことを語るかと思えば、「このアイドルは絶対ブレイクする!」と見たことも聞いたこともないアイドルの情報が携帯に送られてきたりします。


この間は、「休暇をつかって学生の時の友達を訪ねて北海道から南下する」というプロジェクトを数年がかりでやっていく、なんて話をしていました。


こんな「無邪気な姿勢」を日常にとりいれられれば人生はいい方向にシフトしていくのかな、と。そこは、「ポジティブ」「ネガティブ」といった概念そのものが不要な世界のような気がするのです。

August 26, 2010 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.08.24

「企業戦略の自由度」について

企業には時に「進むに進めず、下がるに下がれず」といった状態があります。


「売上が下がっているけど、営業担当や広告出稿を増やしたところで抜本的な解決にはならない」などといった状態です。


で、不景気とはこうした状態に多くの企業が陥る時期、でもあります。



こんな時は、「時間が経過するのを待つ」のも戦略でしょうし、「とにかく思いつく何かしらの打ち手を打つ」というのも戦略でしょう。


そこには、戦略を考える人の個性や仕事観が大きく反映されます。(当然、どういう戦略が「最適解」かは、少なくともそれを選んだ時点では分かりません。)


先日、ある建築会社の社長インタビューで「今は仕事の数が少ないばかりか、利益がきちんととれる現場がなくなってきている。仕事をしていても、単に業者さんや職人さんにお金を回しているだけだ」という話がありました。


さりとて、「広告を打っても営業マンを雇ってもすぐに売上があがらないだろう」し、「大手会社から仕事をもらいにいっても利益はカツカツだろう」ということでした。


まさに、「進むに進めず、下がるに下がれず」という感じですね。


確かに、業界の構造としてビジネスが膠着化してしまっている業態、業種はあるでしょう。その中で、「進むに進めず、下がるに下がれず」でどうしようもない、という時期もあると思います。


けど、「戦略の自由度」を見つけるのが会社の経営者の仕事だと考えると、それを見つけられることが会社の代表者としての存在価値の一つであるとも思います。


僕が考える「戦略の自由度」とは、「こうしたらいいな、という打ち手が多く見つけられる」ということ。その自由度は経営者を「視野狭窄」や「過度の不安」から遠ざけることになります。(とかく、経営者層には何かしらしていないと気持ちが落ち着かない、という人が多いですからね。もちろん、自分も含めてです。)


今、自分がいる業界の中で「戦略の自由度」が「どう考えても少ないし、これからもっと少なくなっていく」と考えるのであれば、他の業態に目を向けることも含めてそれらを探す必要があるのかもしれません。


安易な多角化は中小企業にとっては厳禁だと僕は思いますが、「戦略の自由度」がないままでのビジネスを続けることによるリスクもどんどんと加速化していく流れがどうもあるようですしね。


むろん、他に目を向けた業態の中では「進むに進めず、下がるに下がれず」という企業が目白押しかもしれないですけど。

August 24, 2010 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.08.17

経営における知識、について

「経営」のことについてはほとんど知らずに会社をスタートしました。


もともと、「会社を興したい」という野心が強くあったわけではありません。仮にそういう野心があったにせよ「何かになるための勉強」「何かをするための勉強」をコツコツと続けられるタイプでもありません。


「やっていくうちに何となく覚えていくんだろうな」と軽い気持ちでした。

ただ、一つの目標として「大企業の一線で働く50歳くらいの人に負けない」と漠然としたイメージがありました。


何をして「負けない」なのかは今思うとよく分かりませんが、仮に経営やビジネスの話になった時に少なくとも経験や知識といったもので遅れをとりたくない、ということですね。創業してまもない会社の代表者としてはそこそこのハードルだったように思います。


会社をやって5年目くらいの頃、ふと思いました。


ビジネスの経験や知識は豊富。だけど、どうも職業人としての重みのようなものが感じられない人がいる、ということを。


そんなことを感じてから「経営における知識」は別にどうでもいいことなのかな、と思うようになりました。それに伴って研修会などにいく機会がどんどんと減っていきました。


後年、私が感じた感覚を多摩大学大学院の田坂広志先生が「経験を体験へと昇華させる」という視点から指摘されていることを知りました。


経験や知識を、反省や追体験をしていくことにより「体験」へと変えていく


それがなにより必要なんだと思いました。


となると、「知識」はそれ自体が力なのではなく、「体験」をつくりあげていく上での触媒であり、補助線のようなものなんだ、ととらえるようになりました。


知識をつける上で読書が有益なのは、多くの方が認めるところだと思います。僕も読書は半分は趣味、半分は仕事で人並み以上にはしています。


僕にとってのいい本は「知識が知識として自己主張していない本」です。


更にいうと、知識が「触媒」や「補助線」になって読み手の人生に変容を促したり、経験を体験へと昇華させることをサポートするような本です。


読書をすることは大事だと思ですが、「知識が知識として自己主張している本」にうずもれるのはどうなのかな、と思います。


えてして、そういう本における知識は「触媒」や「補助線」になるおしとやかさ(?)を持っていません。「読み手を動かしたい」という荒々しさに満ち満ちています。


僕らが生きている社会は「いたるところで知識が自己主張している社会」です。


今後は、知識を世の中に流通させる職業人の美意識の変化も大事でしょうが、受け取り側の「知識」に対する防御に対しても考えてもいい時代なのかもしれません。


でないと、知識だけで経営ができるような錯覚に陥ってしまうかもしれませんし。

August 17, 2010 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.08.16

ブログぼちぼちと復活、です

僕らは、仕事をして知識や経験が増えてきます。


で、それが「多くを理解しないでもわかる」といった洞察力や、「なんとなくこれがよさそうだ」という直感のベースになってきたりします。


けど、知識や経験ばかりが増えすぎて、それらがいい形で消化されないと「思いこみ」やら「先入観」となって僕らを視野狭窄、思考省略に陥れます。

これらの恐ろしいところは、「視野狭窄や思考省略になっている自分」に気がつきにくいことです。で、視野狭窄や思考省略は「自己弁護」や「自己防衛」を伴いはじめ、思いこみや先入観をより強化していきます。


こんなことを考えると、「経営を少しでもよくやろうと思っていろんな知識を得ようと思った」こと-実は、そのことが視野狭窄や思考省略の遠因になっている可能性があるということです。


そんな文脈から考えると、「先入観がつくから本は読まない」といった主張が一見正しく思えてきたりします。


だからといって「経営における知識」を否定するのは得策ではないと思います。


最近、流行しているドラッカー博士のマネジメント論や、ポーター博士の企業戦略論は、僕ら実務家が一生かけても現場で生み出すことのできない(言語化することのできない)叡智だと思います。


けど、仕事をしていれば「知識」だけでは解決できない局面、もっというと「知識」などは全く役にたたない局面があることも実務家であれば何回も体験するわけです。


「知識は大事だけどこだわるべからず。知識を得て、それからどう離れるか」


ということを大事にしたいと思っていたのに、このブログはいつのまにか、がっちし「知識」に毒されているような気がしました。(ある方にもそのようにいわれました)


「知識は大事」と認めた上で、それからどのように離れていくか?


また、「知識を超えるもの」を自分の中でどう定義していくか?どのように近づいていくか?


3か月ブログを休んでみて、そんなことをちょっとだけ考えてみました。


こういうことを考えること自体が「知識」に毒されているのかもしれませんけど(汗)。巷に知識があふれ、知識に毒されていることすらも分かりにくい時代であることだけは間違いないようですね。

August 16, 2010 | | Comments (0) | TrackBack (0)