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2011.10.31

ハロウィン


20111029

20111030

土曜日、日曜日とハロウィン2連発、今年のテーマはゴースト。


酒を飲んでただけなはずなのに、なぜか体が痛い朝です(笑)


October 31, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.28

単純なことを難しくとらえない、ということ

「単純なことを難しくとらえるな」


これは、10人規模の会社を経営して15年くらいになる友達の経営者の口ぐせ。


彼曰く、「『単純なことを難しくとらえない』とはとっても難しいこと」だといいます。

単純なことを「単純」ととらえると、失敗したときに「単純なことで失敗した」となるでしょ。だから単純なことをあえて「難しく」とらえて、失敗した時のための自己防衛を図るんだよ。


だそうです。その後、こう続きます


この話をしても「単純なことを難しくとらえる」人は「それは社長だからいえるんだよ」とか「話はわかるんだけど、私の状況は違う」ってたいがいがなるんだよね。そこで思考が完全にストップでしょ。これって完全に自己防衛のパターンなんだよ。


けど、「単純なことを難しくとらえない人」は、「へええ〜そんなことだけで仕事がうまく回るのかなあ」って思考回路が働くんだよね。この差は大きいよね、と。


「単純なことを難しくとらえる」のすべて自己防衛と僕は思えないのですが、この意見にはおおまか賛成です。


「なんでそんなに複雑になるの?」ってことが仕事をしているとあったりします。いろんなことが複雑に絡み付いていて、どこから手をつけていいか分からないことがあったりします。


けど、多くの場合は「単純なもの」から生まれたはずなんです。その「単純なもの」が「単純なもの」として積み重なったり、年月を重ねて発酵されたりしてきたはずなんです。


時に、「単純なもの」が「複雑なもの」に姿を変えて行ってしまうってのは、不思議ですね。彼がいうように、根底には「人間の自己防衛」があるのでしょう。


あと、僕が付け加えるなら「人間の自尊心」のようなものでしょうかね。


「単純なもの」を処理するより「複雑なもの」を処理した方が我々の自尊心は満たされるでしょうし。


僕は見たことないのですが、彼の机には「簡単、簡単、とっても簡単」と書いてあるそうです。


自分のやっている仕事を周囲に「簡単」っていえるセンスは、自己の内面ができあがっていることから生まれるんでしょうね。僕は、こういう人に「人としての存在感の大きさ」を感じます。

October 28, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.26

相手は怒っているに違いない、って時に

なにかトラブルが発生したとします。「きっと相手は怒っているに違いない」と自分の心が動いたとします。


「怒っている」ではなく、「怒っているに違いない」と心が動いたとします。これは、「事実」ではなく、「自分なりの解釈」です。


僕らは相手の表情やその場の空気感、人生経験や相手の人間性や力関係のようなものを総合的に判断して「怒っているに違いない」と判断を下していると思いがちです。ロジカルな判断が的確に働いている、と思いがちです。


しかしながら、人間はそれほど理性的な生き物ではないようです。


僕らの自我は「自分の悪い面を認めたくない時に、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう働き」をします。心理学でいうところの、「投影」ってやつですね。


例えば、ある人に怒りの感情が湧いてきたとします。


けど、職場なり、サークルなりでその感情を抑えなければならない環境にいるとします。当然、感情は抑圧されます。


抑圧された感情は、「ある人」と接するたびに刺激されます。そこで、「あの人に怒っているけど、その感情を抑圧しなくてはならない」と心が二律背反の中で強い葛藤状態におかれます。


そこで、自分の心にある「怒っている」って感情が、相手の心の中にもあるはずだ、と思いこもうとします。その結果が「相手は怒っているに違いない」なるのだ、ということですね。


そこは、ロジカルだとか冷静な判断とは全く無縁な世界、のようです。


人間関係で「相手が●●と思っているに違いない」と思ったら、ほとんどが自分の心の「投影」である


なーんて話を何年も前に聞いた時は「へええ」くらいにしか思わなかったですが、いろいろな人間関係の話を聞いたり、当事者としてかかわったりする中で「投影」ってのはほぼ間違いなく存在するのだな、と。


「相手が●●と思っているに違いない」と自分の心が動いたら、「自分の心の中にあることが投影されている」って立ち止まることができたらいいですね。

October 26, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.25

映画『監督失格』をみて思い出したこと、思ったこと

「大塚さんは、負けん気が強いタイプ。だから、本を読んで自分を武装するの。ロジカルな部分では誰にも負けないぞ、ってね。その負けん気の強さは親御さんとの関係性からきたと思うわ。さぞかし、厳しい親御さんだったでしょう」


とある席で初めてお会いした方にこう分析(?)されました。


別に、「自分を分析してください」とお願いしたわけじゃないんですけどね。てか、大きなお世話です。人を自分なりに見立てるのはいいでしょうけど、口に出すのはどうか、と。

自分は「負けん気が強いタイプ」だと思ってないし、「ロジカル」でもない。さらにいうと「厳しい親御さん」で育ったという自覚がない。


と話をすると「自分には見えていない自分がいるからね」とのこと。どうやらこの方、カウンセリングの仕事をしているらしく、その後、潜在意識や過去のトラウマだとかいった「お勉強発表会」がはじまりました。


心理学的にいうのなら「私はあなたより優位だわゲーム」、でしょうかね。


確かに、「自分では見えていない自分」はきっと僕の中にいっぱいいるでしょう。


けど、他人を自分の見立てで分析して、それを「自分では見えていない自分」と他人に指摘するのにどれだけの覚悟が必要かこの人は分かってるんでしょうかね?


「自分の見えていない自分」は「自分が見たくない自分」と表裏一体。で、僕らは徹底的に「自分が見たくない自分」を「見たくないもの」としてフタをするためにものすごいエネルギーを使うのだといいます。


で、「自分が見たくない自分」はあるきっかけでふっと糸口が開けたりするそうです。それは、カウンセラーに話を聞いてもらっている時かもしれないし、本を読んでいる時かもしれない。お風呂に入っている時かもしれないし、「見たくない自分」に向き合おうと意識を向けている時かもしれない。


いずれにしてもそんなタイミングが訪れることがあるそうです。「自分が見たくない自分」を守るために使っているエネルギーが開放されていくきっかけがあるそうです。


映画『監督失格』を見て、こんなことを考えました。賛否両論ある映画かもしれませんが、僕は人間の(もちろん、自分を含む)「自分が見たくない自分」について考えさせられました。


これは僕の「見立て」ですが、このカウンセラーさんにも「見たくない自分」がおそらくあったんでしょうね。「自分が見たくない自分」にフタをする一つの型としての「他人分析」だな、と。


でもこれは、僕の「見立て」であって、想像であって、解釈であるんですけどね。


他人を「見立て」ても、それに執着せず


そんな姿勢でいないと「自分が見たくない自分」には近づけないんだな、とかつて感じたことをこの映画を観て思い出しました。

October 25, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.23

「最後の晩餐」候補

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札幌場外市場のうにいくら丼(うにオプション)。3年ぶりですが、めちゃうまかった。食べ過ぎたので、今日はガンガン動きます。


October 23, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.19

昨日は研修会でした

2ヶ月に一度、研修会に参加をしています。さまざまな業種の経営者が13人と、コンサルタントの先生と。10時に始まり、昼食を食べながら、ぶっつづけで19時まで行われます。


研修会、といってもテーマは特にありません。


参加者が「課題に思っていること」だとか「周囲の意見をききたい」だとか「アイデアを出しをしたい」だとかをを自己申告で発表します。

なので、「ダイレクトメールの作成」や「HPのリニューアル」といったマーケティング的な話もあれば、「競合会社との戦い方」や「企業ブランディング」といった企業戦略の話もあります。


さらには、「会社の人事の話」や「家族との関係性」、「自分自身という存在について」だとか「そもそも人間とは」といった本質的な(?)テーマが出る場合もあります。


業種も、営業エリアも、経営者の個性もさまざまですが、みなさんが持つ課題はどこかに普遍性のようなものがあります。


なので、参加者の相談事を通して、自分の問題がクリアーになっていく、なんてのがしょっちゅうあります。


もう1年半くらい続いていますが、「ともに戦う同士」のような思いを僕は参加メンバーにもっています。


「こうしないといけない」って思考のフレームが外れていったり、「自分はこういう人間だ」ということが体感覚で分かったり••ともすると、独りよがりになってしまいがちな自分がこうした空間と時間を持てることに感謝です。


同時に、「確立した個同士の、信頼を背景にした、ゆるい形の連帯感」のようなものがこれからは職種や立場を問わず不可欠になって行くんだろうな、と考えたりしています。

October 19, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.17

映画『エンディングノート』

20111015

『モテキ』を観に行こうと新宿に行ったのですが、待ち時間がちょっとあったので急遽『エンディングノート』にしました。


「絶対に観よう!」ではなく「できたら観れたらいいな」って感じの映画だったのですが、いやややや、実に素晴らしい映画でした。


誰にでも訪れる最後の物語である「死」。一企業戦士の死を通して描かれる家族の物語。有名人は誰も出ていないし、派手な演出やアクションもありません。


主人公の娘さんが撮影した膨大な家族の記録がベースになっています。


「これってどこまでが事実でどこまでが演出なんだろう?」だとか「主人公は映画化されることを知っていてビデオに映ってるのかしら?」との思いが最初は頭をかすめましたが、途中からはそんな思いが一切霧散してしまいました。とにかく、映像の持つ迫力に魂をゆさぶられ続けました。


糸井重里さんが「泣いてる自分が笑いだし、笑う自分がしゃくりあげる。いやぁ、21世紀の素晴らしい落語を呼吸した思い」とのコメントをオフイシャルサイトに寄せています。


確かに、死に直面した主人公の笑いのセンスが素晴らしかったです。で、その笑いが周囲に対して気遣いってのが垣間見えたりして•••。


「家族の物語」として観る人、「一企業戦士の物語」として見る人、「人間の死の物語」として見る人•••とやかく下手な解釈をすることなく、右脳と体とで観る映画です。ぜひオススメです!

October 17, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.15

二念を継がない、ということ

「考えることはいいことだ」的な教育を子供の頃から受けてきたためでしょうか、僕らの「脳みそ」は考えるのが大好きです。


放っておくと、ごく些細な一つの事実から、推測したり、過去の記憶をトレースしたり、自分が持っている価値観と結びつけたり•••さまざまな「仮説」「憶測」「想像」を次々とつないでいきます。


それが、「先入観」になり、その後に「確証バイアス」へと成長していったりします。


「確証バイアス」が強すぎると、自由な思考が阻害されます。見つけたり、探したり、感じたりという「人間の体感覚」をベースにした思考が生活の中からどんどんと省略されていってしまいます。


これこそ、「僕らの『脳みそ』の思うつぼ」です。僕らが体感覚で生きて行こうとするのを一生懸命に邪魔する側面が「脳みそ」にはあったりします。


例えば、映画を見ていて泣きたくなる。みぞおちのあたりが波打ち、肩が軽く震えだしてくる。隣の人のすすり泣く声で、自分も横隔膜のあたりにつまった何かを出したくなってくる•••


けど、そんな時に「脳みそ」が働く。「こんなところで泣いたら恥ずかしいじゃん」とか「男は安易に泣くものじゃないよね」とかいう具合に•••。


人間が豊かに生きるための一つは、僕は「確証バイアス」を少なくすることだと思っています。それは、「考えすぎる」をはずすという日々の「脳みそ」との付き合いから生まれるのではないか、と。


臨済宗の中興の祖、白隠禅師のお言葉に「二念を継がない」というのがあるそうです。


例えば、「好きな人にメールをしたけど、返事がなかった」という事実があったとします。その上で、「返事がなくて、悲しいなあ••」と自分の思考が動くとします。


これが「一念」。最初に頭に浮かんだ「念」、思いですね。


で、僕らの「脳みそ」は「次の念」(二念、三念•••)を継いでいこうとします。「自分のことなんか相手にしていないんだ」だとか、「先日のやりとりで気分を害したんだ」だとか、「きっとメールを迷惑に思っているんだ」だとか•••


こうした「二念」「三念」というものを継がないように、「一念」だけでやめておきなさい、という教えだと僕は解釈しています。それにより、「脳みそ」に支配されるようなことは少なくなり、自由意志で生きて行けるスペースができていくということか、と。


「『脳みそ』の役割は防衛」という考え方があるそうです。


まだ、僕は全面的にこの意見に与してはいないのですが、「メールの返事がなくて、悲しいなあ••」という不安定な感情のままでいることを「脳みそ」は好まないのかな、とは感覚的に理解はできます。


不安になると、「脳みそ」が「俺が防衛してやる」とばかりに「念」を継ぎまくってくるのを考えると、「役割は防衛」ってのもあながち間違いではないのかな、とも思います。


本当に不安な時は、「念」を継ぐのを中止して、体の感覚に任せるのが一番の解決策なんでしょうが、日頃の修練なしにこれをやるのは難しいですね。


かくまで僕らは「脳みそ」に「考えすぎる」を強要(?)されているのか、と。


「考えすぎる」も選択できるし、「考えを止める(=二念を継がない)」も選択できる。


そんな選択が自由にできたらいいですね。

October 15, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.14

人間の先入観と「確証バイアス」

住宅の仕事をしていた時のことです。


「3ヶ月で契約がゼロ」だったことがあります。すると、「ゼロ社員研修」なるものに出る義務が生じます。


「プレカット工場の草むしり」や「叱咤激励(実際は、叱咤叱咤?)」や「これからの生まれ変わる公約宣言」をします。それも、月に4回しかない休日の1日をまるまる使ってです。

その研修にでると支店長(といっても歳は自分より3つくらい上)から、「だから『ゼロ社員』は•••」とことあるごとに言われるオマケがついてきます。


「競合会社と競って負けた時」「展示場の接客で失敗した時」「本社から『今月の売上はどうなってるんだ』と突っ込みが入った時」•••よくぞまあ、「ゼロ社員」呼ばわりされてたなあ、と思います。


今、思います。この支店長はとにかく「確証バイアス」が強い人でした。


「確証バイアス」とは社会心理学の用語で、


「人間がある先入観を持ってしまうと、その先入観に基づいて他人や問題を観察。自分の先入観を補強する情報のみを選択し、先入観を覆すような情報やアドバイスを低く評価する(又は無視する)人間の心の動き」です。(※ いくつかの文献から自分なりにまとめました)


「大塚は『ゼロ社員』だから営業がダメだ」との先入観ができれば、「営業がダメだ」を補強する情報ばかりが耳に入ります(というか、自分の耳に残ります)。


逆に、「営業がダメだ」を否定するような情報(契約を取った、お客さんに評価された など)は低く評価したりします。時には無視します。


この例以外にも、「あの人はお金にシビアだ」との「確証バイアス」ができれば「あの人はお金にシビア」の情報が、「あの人は交渉ごとが苦手だ」となれば「交渉ごとが苦手」を補強するような情報が入ってきます。


更には、自らが先入観を補強するような情報を積極的に集めにいくことすらあります。


「あの人ってお金にシビアだよね」とか「あの人は交渉が苦手だよね」という具合に、第三者と話をすることで先入観を補強するための情報を集めにいきます。そこで得られた情報が、さらに自分の先入観を補強していきます。


もちろん、「確証バイアス」があるからうまくいくことだっていくつもあります。


「これからの時代は必ずこれが必要になる」との「先入観」を持ち、そのために必要な情報を集めて、周囲の反対を押し切って一気呵成に新規事業を進めて行く、なんて話はまさに「確証バイアス」がいい形に働いたケースでしょうしね。


けど、僕らが生きている社会は「確証バイアス」に満ち満ちていて、それが人間関係などに悪い形で働いていることが多いんじゃないか、と思ったりします。


むろん、人間だから「確証バイアス」をゼロにすることなどムリでしょう。けど、「人間には『確証バイアス』という心の動きがある」と知識として知っておくことは重要か、と。


そこから開ける何か、が必ずあると思います。


「人間関係が豊かそうだな」って人を見ていると「確証バイアス」が少ない人が多いように感じるのは気のせいでしょうかね。僕の中では最近は確信になりつつあります。


追記
「確証バイアス」で新規事業を一気に進めた例を本文で書きましたが補足します。


新規事業がうまく行かなかった理由の一つに「『確証バイアス』の強さ」が原因だったという例はゴマンとあると思います。「リスクの矮小化」ってやつですね。


優秀なビジネスマンは、「『確証バイアス』で立てた計画」を、「時間を置いて寝かせ」、さらには「計画自体を否定してみる」、その上で「『確証バイアス』をアップデートする」


これらをグルグルと回して行くような思考回路を持っているように思います。


「確証バイアス」は立てれども、それに心を居着かせず


ってやつですね。口でいうのは簡単ですが、「確証バイアス」をたてることで僕らは頭や心を整理する一面もあったりするので難しいことです。

October 14, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.11

2年ぶりのタイ

久しぶりにタイに行きました。旅先でのできごと。


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バンコクのホテルで知ったスティーブジョブスの死。「モノを買う喜び、ワクワク感」を成熟社会において成し遂げた功績は素晴らしいの一言です。ご冥福をお祈りします。

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仏教関係のグッズを扱っているマーケットで売っていた、ソムデット•トーの実物大の像。タイで絶大な人気を誇る高僧でものすごくリアル。日本円で30万円弱とのこと。

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バンコクから3時間弱。王様の避暑地•ホアヒンにできたという水上マーケット。ガイドブックに載っているようなバンコクの水上マーケットをイメージしていくと、だいぶ違和感があります。

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ムエタイの伝説の王者、サーマートが主催するムエタイワークショップ(3日間で150ドル)の告知@ルンピニースタジアム。


格闘技オタクだった時にすでに伝説となっていた名選手。会っては見たいが、幻滅するような気も•••。同ワークショップには、K-1で活躍したガオグライ•ゲーンノラシンも招かれているらしい。みなさん、タイで頑張っているのだな、と。


ともあれ、盛りだくさんのタイでした。


October 11, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.04

プロレス談義

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「あと、10年早く生まれていたらよかった•••」


その昔、格闘技マニアだったころよく思いました。


「アントニオ猪木VSストロング小林」の昭和の巌流島対決は、僕が4歳の頃。モハメッド•アリがプロレスのリングに上がったのが、6歳の時。ベニーユキーデが鮮烈なデビューを果たしたのが7歳で、藤原敏夫さんがムエタイチャンピオンになったのが8歳の時。


あと、10年早く生まれていればこれらの試合をリアルタイムで、時には会場に出向いて観戦できていたかと思うと悔やまれます。

昨日は、ご紹介いただいた方々が大のプロレスファンで、酒を飲みながら盛り上がりました。僕のプロレスマニア(但し、昭和の50年代の新日本プロレスが中心)熱も事前に伝わっていたようで、昔なつかしのプロレスチケットを持参してくださいました。


なつかしい•••。アドリアン•アドニス、バッド•ニュースアレン、カウボーイ•ボブ•オートンJRらの外国人の面々。タイガーが初代であること、国際軍団が出場していて、前田日明が出場していないことから、時代考証的(?)には、昭和58年の春の大会のチケットですね。


今、気づきましたがチケットに記載されている「3月6日」は新日本プロレスの設立記念日ですね。ものすごい価値あるチケットか、と。IWGPの前で新日本がとっても活気があったころの空気感がなつかしいです。


と、昨日はそんな話でしこたま飲みました。お会いしたみなさん、またご一緒しましょう!


追記
何年か前に15歳くらい下の世代の人と飲んだ時に「『猪木VSブロディ』の公開練習に行った」とか「『新日本VSUWF』のイリミネーションマッチを生で観戦した」と話をしたらめちゃうらやましがられました。


かくいう僕も見る人によっては、「10年早く生まれていれば••」の対象なのかもしれませんね。

October 4, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.10.03

駅伝に出ました

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ジム仲間の飲み会で酔っぱらって「駅伝に出る」と宣言(?)したのが、3ヶ月前。


エントリーが決まったのが、2ヶ月くらい前。


「そろそろ走らないと」と思ったのですが、ジムにも行けないようなバタバタした日々が続いて•••。


80メートルトラックを60周くらい回っただけの練習しかしませんでしたが、無事に完走できました。

女性3人との混成チーム、それもアンカーだったのでプレッシャーはかかりましたが、他のチームのランナーが「おいら走ってます!」ってモードの人ばかりでなく、仮装やコスプレありの大会でしたので救われました!


次は、12月の「横浜マラソン」を走り(短いコースですけどね)、気が向けばフルマラソンとやらに挑戦してみようかな•••と身体のどこかがなんとなく語ってる朝です。


夜は久しぶりに焼き肉をしばいたので活力がみなぎりました。


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駅伝の舞台設定をしてもらったみなさん、ありがとう! 駅伝では脇役だったけど、こんどの打ち上げの主役は自分なんで、よろしく!(笑)

October 3, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)