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2011.10.15

二念を継がない、ということ

「考えることはいいことだ」的な教育を子供の頃から受けてきたためでしょうか、僕らの「脳みそ」は考えるのが大好きです。


放っておくと、ごく些細な一つの事実から、推測したり、過去の記憶をトレースしたり、自分が持っている価値観と結びつけたり•••さまざまな「仮説」「憶測」「想像」を次々とつないでいきます。


それが、「先入観」になり、その後に「確証バイアス」へと成長していったりします。


「確証バイアス」が強すぎると、自由な思考が阻害されます。見つけたり、探したり、感じたりという「人間の体感覚」をベースにした思考が生活の中からどんどんと省略されていってしまいます。


これこそ、「僕らの『脳みそ』の思うつぼ」です。僕らが体感覚で生きて行こうとするのを一生懸命に邪魔する側面が「脳みそ」にはあったりします。


例えば、映画を見ていて泣きたくなる。みぞおちのあたりが波打ち、肩が軽く震えだしてくる。隣の人のすすり泣く声で、自分も横隔膜のあたりにつまった何かを出したくなってくる•••


けど、そんな時に「脳みそ」が働く。「こんなところで泣いたら恥ずかしいじゃん」とか「男は安易に泣くものじゃないよね」とかいう具合に•••。


人間が豊かに生きるための一つは、僕は「確証バイアス」を少なくすることだと思っています。それは、「考えすぎる」をはずすという日々の「脳みそ」との付き合いから生まれるのではないか、と。


臨済宗の中興の祖、白隠禅師のお言葉に「二念を継がない」というのがあるそうです。


例えば、「好きな人にメールをしたけど、返事がなかった」という事実があったとします。その上で、「返事がなくて、悲しいなあ••」と自分の思考が動くとします。


これが「一念」。最初に頭に浮かんだ「念」、思いですね。


で、僕らの「脳みそ」は「次の念」(二念、三念•••)を継いでいこうとします。「自分のことなんか相手にしていないんだ」だとか、「先日のやりとりで気分を害したんだ」だとか、「きっとメールを迷惑に思っているんだ」だとか•••


こうした「二念」「三念」というものを継がないように、「一念」だけでやめておきなさい、という教えだと僕は解釈しています。それにより、「脳みそ」に支配されるようなことは少なくなり、自由意志で生きて行けるスペースができていくということか、と。


「『脳みそ』の役割は防衛」という考え方があるそうです。


まだ、僕は全面的にこの意見に与してはいないのですが、「メールの返事がなくて、悲しいなあ••」という不安定な感情のままでいることを「脳みそ」は好まないのかな、とは感覚的に理解はできます。


不安になると、「脳みそ」が「俺が防衛してやる」とばかりに「念」を継ぎまくってくるのを考えると、「役割は防衛」ってのもあながち間違いではないのかな、とも思います。


本当に不安な時は、「念」を継ぐのを中止して、体の感覚に任せるのが一番の解決策なんでしょうが、日頃の修練なしにこれをやるのは難しいですね。


かくまで僕らは「脳みそ」に「考えすぎる」を強要(?)されているのか、と。


「考えすぎる」も選択できるし、「考えを止める(=二念を継がない)」も選択できる。


そんな選択が自由にできたらいいですね。

October 15, 2011 |

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