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2011.10.25

映画『監督失格』をみて思い出したこと、思ったこと

「大塚さんは、負けん気が強いタイプ。だから、本を読んで自分を武装するの。ロジカルな部分では誰にも負けないぞ、ってね。その負けん気の強さは親御さんとの関係性からきたと思うわ。さぞかし、厳しい親御さんだったでしょう」


とある席で初めてお会いした方にこう分析(?)されました。


別に、「自分を分析してください」とお願いしたわけじゃないんですけどね。てか、大きなお世話です。人を自分なりに見立てるのはいいでしょうけど、口に出すのはどうか、と。

自分は「負けん気が強いタイプ」だと思ってないし、「ロジカル」でもない。さらにいうと「厳しい親御さん」で育ったという自覚がない。


と話をすると「自分には見えていない自分がいるからね」とのこと。どうやらこの方、カウンセリングの仕事をしているらしく、その後、潜在意識や過去のトラウマだとかいった「お勉強発表会」がはじまりました。


心理学的にいうのなら「私はあなたより優位だわゲーム」、でしょうかね。


確かに、「自分では見えていない自分」はきっと僕の中にいっぱいいるでしょう。


けど、他人を自分の見立てで分析して、それを「自分では見えていない自分」と他人に指摘するのにどれだけの覚悟が必要かこの人は分かってるんでしょうかね?


「自分の見えていない自分」は「自分が見たくない自分」と表裏一体。で、僕らは徹底的に「自分が見たくない自分」を「見たくないもの」としてフタをするためにものすごいエネルギーを使うのだといいます。


で、「自分が見たくない自分」はあるきっかけでふっと糸口が開けたりするそうです。それは、カウンセラーに話を聞いてもらっている時かもしれないし、本を読んでいる時かもしれない。お風呂に入っている時かもしれないし、「見たくない自分」に向き合おうと意識を向けている時かもしれない。


いずれにしてもそんなタイミングが訪れることがあるそうです。「自分が見たくない自分」を守るために使っているエネルギーが開放されていくきっかけがあるそうです。


映画『監督失格』を見て、こんなことを考えました。賛否両論ある映画かもしれませんが、僕は人間の(もちろん、自分を含む)「自分が見たくない自分」について考えさせられました。


これは僕の「見立て」ですが、このカウンセラーさんにも「見たくない自分」がおそらくあったんでしょうね。「自分が見たくない自分」にフタをする一つの型としての「他人分析」だな、と。


でもこれは、僕の「見立て」であって、想像であって、解釈であるんですけどね。


他人を「見立て」ても、それに執着せず


そんな姿勢でいないと「自分が見たくない自分」には近づけないんだな、とかつて感じたことをこの映画を観て思い出しました。

October 25, 2011 |

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