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2011.11.30

やんわりと言ってます、から考える

誰かに言いたいことがあるとします。


「ちょっとこういう態度が困る」でも「こういう部分を改善したい」といった口にするのに勇気が必要なことだっとします。


そんな場面に直面すると、人はいろんな意識が逡巡します。

「波風立てたくない」とか「相手に嫌な気持ちを持たせたくない」とか「自分がガマンすればいいかな」とか「自分だって反省しないといけないことがあるしな」とか「相手は自分より年上だから失礼かな」とかいった意識、ですね。


その結果、「やんわりと言う」「遠回しに言う」という妥協案(?)がでてきりします。


けど、「やんわり」や「遠回し」が当事者の腹に突き刺さることはほとんどないようです。


それは、「やんわり」や「遠回し」が多くの場合において「自己防衛」から生まれる行動だから、だと僕は思います。


自己防衛をしながら人の腹に突き刺さるような言葉を、口にできるわけがありません。僕らは、言葉だけで会話してるわけじゃないですからね。


僕らはさまざまな形で自己防衛をする生き物です。


「波風立てたくない」ってのは自己防衛の意識が顕在化してるので分かりやすいパターンです。多くの場合、「自分がしんどい思いをしたくない」という感情が根底にあるでしょうから。


けど、「相手に嫌な気持ちを持たせたくない」といった自己防衛の意識がわかりづらいケースもあったりします。こんな時、ほとんどが「自分が嫌な気持ちを持ちたくない」であるような僕は気がするのですが、どうなんでしょうね?


別に、自己防衛が悪いわけじゃないです。その本能があったから人間はここまで進化をとげてきたのでしょうし。


けど、「あっ、今自分は『自己防衛してるんだな』」って意識に入れるかどうかは自分を知る上で案外と大事なのかな、と。


「自分は強いんですよ」って形の自己防衛、「自分は弱いんです」って形の自己防衛、「自分は知識がありますよ」って形の自己防衛•••僕らはさまざまな自己防衛に囲まれて生きていますし、自分自身がさまざまな自己防衛をしているでしょうからね。


かくいう自分もこのブログで「僕はこんなことを考えてますよ」って形の自己防衛をしてるのかもしれませんし。

November 30, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.29

まさか走るなんて••想定外の選択肢、ということ

「今年の年末は駅伝に出てる!」


タイムマシンで今年の正月に戻って、過去の自分にこういっても信じなかったでしょう。運動はしていましたが、走るのはあまり好きではないですし。


けど、今年は何の因果があってか走ることになり、走り込みもしてないのに「いつかはホノルル走りたいな」などと酔っては口にしている現実。


ことの始まりは今年の7月。


飲みの席で駅伝に誘われて、酔った勢いで「出る!」と宣言したのがきっかけ。「3割の楽しみと、7割の後悔(?)」とで駅伝に参加したのをきっかけに、いくつかのレースに出ることになりました。


そして現在、「駅伝の二次会の企画」なぞをしている自分は一年前には想定外でした。来年くらいには「次のレースでようよ!」などと走りをしない周囲の人を口説いている(?)かもしれません(笑)


「未来は自分が持っている選択肢の他にある」って考え方を僕は持っています。


僕らが今現在持っている選択肢〜仕事であれ、遊びであれ、趣味であれ〜それはそれで全うしたり、追求していくのは素晴らしい。


けど、「思いもかけなかったきっかけ」から生まれていく「想定外の選択肢」。これこそが、人が生きていく上でのダイナミズムであるのかな、と。


最初は「走るなんて想像してなかったよ」っていう「想定外の選択肢」だったことが、時間の経過とともに「フルマラソン走りたい」だとか「ホノルル走りたい」といった具合に「自分で定めた選択肢」に変化していったりする。


更には、「マラソンもいいけど、自転車もいいよ」だとか「次は鉄人レースでよう(汗)」とかいう具合に「別の想定外の選択肢」が周囲からやってきたりする。


まさに、数珠つなぎですね。


「想定外の選択肢」を運んでくれるのは、たいがいは「周囲の人」。ありきたりの物言いですけど、自分をとりまく周囲の人とは心を入れて付き合いたいですね。

November 29, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.28

「誰かを理想化する」ということ

自分は生まれてこのかた、常に尊敬する人がいます。言葉を変えていうのなら、常に誰かのファンです。


相手は野球選手だったり、格闘家だったり、アイドルだったり、小説家だったり、ジャーナリストだったり、先輩だったり、経営者だったり•••(もちろん、今もいます)


で、そんな時の自分は「相手を理想化」しています。「きっと、この人はこうなんだろうな•••」と相手をどちらかというといいイメージで描いています。

けど、実際のその人たちだって人間です。


仮に近くで付き合ったら自分が思い描いたイメージと違うこともあるかもしれません。


ってか、かなりの確率であるでしょう。なにせ、こちらが勝手に「相手を理想化」しているんですからね。


「スターと一ファン」って特別な関係でなくても、僕らは無意識に近くの人を理想化しています。


その理想に相手が見合わない行動や言動を行うと、失望したり、怒りが出てきたり、裏切られた思いに苛まれたりすることがあります。


けど、「相手を理想化」している主体はあくまで自分です。自分の行った「理想化」という行為に対して、自分を苦しめているわけです。


「相手を理想化」する行為そのものが悪いとは僕は思いません。


「あの人みたいになりたい」、「あの人に認められたい」って感情は、人間が生きていくための癒し(?)になりますしね。


けど、理想と現実とが違った時に「まあ、こんなこともあるだろうな」って許容範囲を持つことは、自分自身の心身のためにも持っていたいと思います。


あと、僕らは「人を理想化する存在」であると同時に、「他人から理想化」される存在でもあります。


職場の上司や後輩から、パートナーや友人から、場面場面で「他人から理想化」をされる存在です。


ほとんどの人は、できれば周囲の「理想」には答えたい。けど、能力や環境要因もあったりして「周囲の理想」に全部を答えることはどうしてもできない。


自分が周囲に対して許容範囲を持つということは、「他人から理想化される自分」にも許容範囲を与えることなのか、と。


「他人からの理想」は人によってはプレッシャーかもしれませんが、ここに振り回されては疲れる一方です。


「できれば理想には答えたいけど、無理だったらごめんね」ってスタンスでいいんじゃないかな、と。


周囲に対して許容範囲を持つ人はそんな人であってもばっちし受け入れてくれると思いますしね。

November 28, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.25

燃えろ!新日本プロレス 猪木血闘録

2011112

1985年7月、生まれて初めてアルバイトをしました。


埼玉の国道沿いにあるジャスコ系列のファミリーレストラン。皿洗いで時給は480円でした。


履歴書の目的には「VHD(今はないのかな?DVDの昔バージョンみたいなもの)が欲しい」と確か書きました。



けど、これは表向きの理由で、本当の理由は「『アントニオ猪木VSストロング小林』(ほか、数試合)のビデオテープが欲しい」でした。


20分のVHSテープで金額は7,000円。当時の自分にはかんたんには手が届かない代物、アルバイト代をためてこの試合を見た時は鳥肌でいてもたってもいられなくなったのを思い出します。


時は変わって2011年。


「燃えろ!新日本プロレス 猪木血闘録!」なるDVDが集英社より発売されています。


今回Vol.4は「猪木VS小林」「猪木VS大木」「猪木&坂口VSシン&上田」といった昭和の新日本プロレスファンにはたまらない組み合わせです。


まだ中身は見ていないですが、全試合ノーカット(昔のビデオテープはだいぶ削除されていた)で1,680円と大変にお買い得な値段設定です。


この試合を映像で見るのは20年ぶりくらいでしょうか。


楽しみな反面、ちと怖いような気もします。思い出が瓦解しないといいんですけどね。


それにしても、昭和の時代のアントニオ猪木さんは今でも僕らの心に生き続けているんですから偉大でしたね。

November 25, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.24

「自分に起こる出来事には意味がある」について

「自分に起こる出来事には意味がある」


自己啓発の本だとかによく出てきますね。ある飲み会の席でこれについてどう考えているか、って話になったのでここで私論を。


僕らに起こる「出来事そのもの」はきわめてニュートラル。「いいこと」も「わるいこと」も個々人の解釈の問題であって、それ自体には意味性はありません。


その「出来事」に対して僕らはなにかしらの「意味」を付与して、「悲しんだり」「喜んだり」「怒ったり」とします。


それらの感情は、僕らが成長していく上での「大切な種」です。(なぜなら、「本来の自分」だとか「ありたい自分」が僕らの感情の裏側には存在しているケースが多いからですね)


その種に、「反省」だとか「自分をみつめる」とかいう栄養分を与えるのであれば「出来事には意味がある」のでしょう。


僕は「成長至上主義」ではありませが、今の日本では成長しないより、成長した方が自分らしい人生を送る門戸は開かれていると、断言できます。それだったら、「成長」を人生の目的の一つにした方がいい。


「出来事には意味がある」と考えて生活をすると「成長」に近いところにポジション取りができると思います。なぜなら、すべての出来事が「反省」だとか「自分をみつめる」ネタ(つまり、「成長」のネタ)になるわけですからね。


逆にいうと、「出来事」という「大事な種」を活用しなければ「出来事には意味がある」わけがありません。


「自分には絶対に非がない」ってことを指摘されたり、責任を押し付けられたり、むちゃくちゃな出来事が起きたとする。


それでも「出来事には意味がある」って考えるのであれば、自分自身の「こうした問題が起きたのはなぜか?」という「反省というスイッチ」を一度入れることが重要か、と。


かつて、15人くらいのグループセラピーを受けたことがあります。


参加者の1人が「職場の人間関係に悩んでいる」という話をされました。確かにひどい話だな、とは思いましたが発言者に「反省」って姿勢が微塵も見られない。


「そんな姿勢が原因の一つでもあるんじゃないかな」ってどことなく感じてた時に、「全ての出来事には意味があるのですから、ガマンです」って発言者が口にした。


この言葉をこういう使い方するのは、日本の至る所で見聞きされるんじゃないでしょうかね。僕は違和感を感じまくりでした。


僕らに起こる「出来事には意味がある」と「反省」とワンセットだと僕は思います。


一度、自分なりに「反省」をした上で「自分はそれでも悪くない」と思えばそれはそれでいいんです。


その「反省」が独りよがりであれば「次の出来事」が自分の身に起きるでしょう。だいたいは、かかわる人が変わっただけで同じパターンの問題が起きるでしょう。


「反省」がきちんとなされているのであれば、「次のステージの出来事」がきっとやってくるんでしょう。いままでの問題が小さくみえてしまうような「出来事」がやってくるでしょう。


人間は「反省」というものを正しくできない生き物だと思いますので、こういう形で「反省をきちんとする」と創造主はプログラミングしたんでしょうね。


「出来事は意味がある」は「反省をきちんとする人」の人生に「より強い意味」を、「より深い意味」を与えてくれるのでしょう。


せっかく生きているのだから、そんな世界を垣間みたいな、って思います。

November 24, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.22

「悪口」と「建設的な意見」との間

「悪口」と「建設的な意見」とを見分けるのは難しいです。


なぜなら、「悪口」は「建設的な意見」を意図して口にされることが多いからです。


例えば、酒場で繰り広げられる「上司は何もわかってない」的な話。


本人を前にしたら口に出せない時点でこれは「陰口」であり「悪口」です。けど、「会社を良くするための『建設的な意見』だ」といわれればそういう見立てもできないくはない、とも考えられます。


では、「陰口」あるいは「悪口」と「建設的な意見」を分けるものは何か?


僕はこう考えます。


「悪口」は口にすれば一時的にすっきりします。誰かが共感してくれたり、合いの手を入れてくれたりしたらなおさらでしょう。自分の中の葛藤が一時的にでも解消されるわけですから当然ですね。


一方、「建設的な意見」は口にすれば、何かを背負うような感覚になります。ちょっと「めんどうだなあ」っていう気分になることもあります。時には「今できることは何か?」って思考のスイッチが入ることもあるかもしれません。


そんな自分の内的感情の違いがあるのかな、と。


人間の営みから「陰口」や「悪口」が消えることは聖職者でもないかぎり難しいでしょう。けど、「建設的な意見」という名前の「悪口」を言っていないか、ってのは時に自覚するのは大事でしょう。


なぜなら、「無自覚な悪口」は自分のブランドを失墜させ、時間と空間を超えて必ず自分の身に振り返ってくるでしょうし。


「悪口」は、「回り回って自分の身に降り掛かってくる覚悟をすること」と「悪口のほとんどが、自分自身の見たくない姿の投影だということ」を理解した上で口にしたらいいと思います。


むしろ、「悪口」を掘り下げた中に「本来の自分の本音」が出てきたり、「自分自身の思い込みの強さ」に気がついたりすることもあるので、「時」「相手」「テーマ」を選んで口にすることは案外と大事かもしませんね。


大事なことは、「意識的になれるかどうか」だと思います。

November 22, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.21

父親の古希祝い

20111120


「歳をとったなあ」と感じることは少ないですが、「自分の弟がまもなく40歳で、妹が37歳」なんてことを聞くと「自分らそんなになったの!」と驚きを禁じ得ません。


自分のことはさておき、なんですけどね。


週末は父親が古希を迎えるのでお祝いでした。僕らの一家に、父親や母親の友人を招いて昼からカラオケにフラダンスにと盛り上がりました。


70歳(1942年生)いうと、日本の高度経済社会とともに生きてきた世代です。


戦後復興という環境の要因はあったと思いますが、僕らの世代に対して「日本って国は凄いんだ」というイメージ、実績を創った功績のある世代ですね。


弟や妹の年齢を聞くと驚くのですが、なぜか「父親が70歳」と聞いてもあまり驚きがない(ピントこない)のはなぜなんでしょうね。


僕は歳を重ねた時に「どれだけ同じ時間を共有してきた仲間がいるか?」「これから同じ時間を共有していきたい仲間がいるか?」が大事だと思ってますが、昨日はそんな「生き様の証」を感じた一日でした。


残りの人生でますますの「生き様の証」をつくっていければいいですね。

November 21, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.18

棚卸し、やっていますか?

うちの会社では月末になると棚卸しをします。「商品ごとに在庫がいくつあるのか?」を手作業でカウントします。


商品が多岐にわたるので、数時間かかります。で、それを集計して、過不足分のチェックをして、社外に保管してある数字と合わせて、報告書にまとめる•••


といった作業を毎月のルーティンとして行います。

この間の打ち合わせの時に「棚卸しは毎月やらなくてもいいんじゃないか?」って声があがりました。


なるほど。


確かに、棚卸しにかかわる時間を他の業務に振り分けた方が効率的だ、って考えもわからないでもありません。在庫数はコンピュータ上では確認もできますしね。データ上と実在庫の差異がわずか、ということもままありますし。


けど、僕の考えは「No」。なぜかというと「棚卸しをきちんと行うと利益があがるから」なんです。


きちんと棚卸しをするだけで1〜2%は利益率がかわってくるんですね。1,000万円の売上が仮にあれば、10〜20万円の利益ですから大きいです。


逆に棚卸しをしないと、利益率はどんどんと悪くなるでしょう。棚卸しは、「在庫の数を数える」って売上には直接貢献しない作業です。理屈上は利益率を押し上げる要因としての因果関係は少ないと思われるのですが、ここは理屈を超えた世界なのでしょう。


おそらく、地道な作業を毎月にルーティンとしてやることから得られる「気づき」のようなものが生まれるんでしょうね。


在庫を数える人がただひたすらに漫然と商品をカウントしていられるほど、人間は非クリエイティブにできていないと僕は思っています。


「この商品はなんとなく動いてるな」だとか「この商品はまったく動きがないな」だとか「もうちょっと楽に棚卸しをできないかな?」という「気づき」。


この「気づき」が時間の熟成とともに商品の開発に役立ったり、アイデアとして形をなしてきたり、業務改善に結びつく種になったり、結果として利益率をあげる要因になるのかもしれませんね。


「非効率と思えることを淡々とやる」


そんことに利益率改善の源泉があるのだから、経営ってのは変数が多くて面白いなと思います。

November 18, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.17

上機嫌、という作法2

先日のブログで「上機嫌」について書きました。


で、「ナーバスになる自分」が時に周囲の見立てで「機嫌が悪い」と思われることを書きました。


どうやら、「機嫌が悪い」は伝染する性質を持っているようです。


何かをきっかけに、「あの人は『機嫌が悪い(みたいだ)』」って一つの感情(=投影)が生まれる。


で、その感情は言葉に出さずとも、「態度」「言葉のイントネーション」「表情」などで相手の無意識に「あなたは機嫌が悪いですよ」ってサインを相手に出す。


相手の無意識はそのサインを受け取って逆に「この人は『機嫌が悪い(みたいだ)』って感情(=これまた投影)を生み出す。


で、それがどんどんと増幅されていく。「投影のし合いっこ」であり、これが続くと「螺旋階段を下るようなマイナスのループ」に陥る。


すると、「思っていることがあれば口に出せばいいじゃん」とか「本当にあの人は『機嫌が悪い』の?」ってことが通用しにくい空気感になっていく。


説明は難しいですが「組織の重力」のようなものが働くんでしょうね。こうしたものが働き始めると、流れをせき止めるのは困難です。


であれば、「ナーバスになっている」「機嫌が悪い」を僕ら個々人が排除していく


これを組織の目的の一つとするのは「あり」だと思います。ここに使われるエネルギーは甚大ですからね。


なーんて考えてきて、「こんな時にナーバスにるだろうな」って場面をいくつか考えてみました。


「今日中にこの仕事を間に合わせないとまずい」というとき、人は「ナーバス」になります。当然ですね。気持ちが焦ったりするでしょう。


「会社が終わったら予定がある」って時に「この仕事やっといて」といわれると時に人は「ナーバス」になります。ペースが乱れるでしょうし、急き立てられる感じがするのかもしれません。楽しい予定だったらなおさらですね。


「むちゃぶりの仕事」とか「説明が欠けている仕事」にも「ナーバス」なる人がいます。「仕事のアウトプットイメージが具体的につかめないと仕事に着手できない」ってストレスに感じる人は案外と多いでしょうし。


「報告や連絡をしにくい仕事」を抱えていて「なんて言えばいいんだろうかな••」って時にも「ナーバス」になるかもしれませんし、「クレーム対応」なんかも「ナーバス」になることでしょうね。


•••とかく、僕らが生きている時代は「ナーバス」になりがちなものに囲まれているのでしょう。


僕らは、「他人の『ナーバス』に影響を受ける個人」であると同時に「自分の『ナーバス』が他人に影響を与えている(可能性がある)個人」でもあります。


自分の「ナーバス」がどういう機会に表出するかを自己認識するのは、案外と大事かもしれません。自分の「ナーバス」が引き金になって、周囲からさまざまな感情を投影される可能性があるわけですからね。

November 17, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.14

パワーストーンバー

20111111

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恵比寿にある『パワーストーンバー』にお取引先とご一緒しました。


恵比寿は今を遡ること20年ほど前、バブルで東京が浮かれまくっていた頃にバーテンのアルバイトをしていた思い出ふかい場所です。

時給は確か900円、だったですかね。部活の練習が終わって20時から23時半くらいまで。池袋の終電車が12時だったので毎日ギリギリでした。


恵比寿の駅近くでご飯を食べて、「では、『パワーストーンバー』へ行きましょう」と向かった先が•••


20年前にアルバイトをしていたバーの跡地(?)でした。


12年くらい前にオーナーが渋谷に店を移転させたのは知っていましたが、それ以降はまったく訪れていなかったので状況を全然知りませんでした。


いやややや、驚きました。


こういう話があると「シンクロじゃん!」って流れになるので嫌なのですが(僕らの日々は数多くのシンクロに満ちていますからね。一つ一つに驚くのはナンセンスです)驚きました。


バーは、「販売を目的として仕入れるなら怖くて仕入れられない石」(@同席した石の専門家談)のようで、すごく素晴らしい石の数々でした。特に、お店の中央にあるクリスタルとインカローズの放つエネルギーは「微細、かつ激しい」なんて感じました。


12時近くまで飲みましたが、翌日はジムのレッスンを3本やって、フットサルにいってなんとか大丈夫だったので、なんか空間に漂うものが違うのかもしれませんね。


近々、また行きたいと思います。

November 14, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.11

アーユルヴェーダのセミナー

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夜中まで酒を飲むと腹が減ります。


豚骨ラーメン、カツ丼、寿司。これが、夜中まで飲む時の最後のメニュー御三家です。時にはオプション(?)としてこれにシュークリームなどの甘味がつきます。


「こういう習慣を止めたい」とは思いますが、「飲んだ夜中に食べるご飯の楽しみをガマンして何の人生よ」とも思ったりもします。


そんな逡巡を繰り返して、もう15年くらいになるんでしょうかね(笑)


先日、アーユルヴェーダのセミナーに参加しました。ホントに気まぐれです。


初級の初級コースだったと思うのですが、食生活を「消化」って観点からとらえるといいことがあるのかな••と思いました。「精神的なバランスがとれる」とか「勘が冴えたり」とか「ワーキングメモリーが増えたり」とかですね。


そうすると、ほんのちょっとだけ世界の見え方が変わってきました。それに伴って、わずかながらに行動も変わってきました。


次に夜遅くまで飲んだ時にどんな行動をとるのでしょうかね?

November 11, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.10

「周囲に知られない仕事」を考える

「自分が所属していない部署がどんな仕事をしているか?」


と聞かれると案外と答えに困りますよね。


いやや、「机の隣の人がどんな仕事をしているか?」が分からないなどというケースもあるかもしれませんね。

「インターネット環境の進歩が個々人の仕事を細分化させた」「働く人が一つの職場に定着しにくくなてきた」なんて背景もあるでしょうし。


かくいう僕も「えっ、こんなシステムを使って行う業務があるんだ」とか「こんな仕事をクライアントから依頼されてるんだ」と発見(?)し、感心することがままあります。


で、今現在もきっとその手の仕事が動いているとことでしょう。それら仕事は、うちの会社で動いているにもかかわらず「社長に知られない仕事」としてひっそり(?)と存在しています。


「周囲に知られない仕事」をあまり数多くしていると、人間は「無気力へのスイッチが入る生き物」だと思います。マズロー博士の「欲求段階説」を出すまでもなく、人間は「他者の承認」を渇望する生き物だからです。


けど、ここで難しいのが「周囲に知られない仕事」がなかなか顕在化してこないことなんです。


いくつか理由はあるでしょうが、多くは「他の人では対応できない仕事」だからです。


例えば、専門性が高い仕事。


周囲は「あの仕事は彼、彼女にしかできないからな」となります。周囲のそんな意識が「自分が内容を知っても協力できる余地はないからなあ••」となり、時の経過がともなって「周囲に知られない仕事」に化けていきます。


例えば、暗黙知に頼る仕事。


「専門性の高い仕事」と似ていますが、センスや感性、直感などの「暗黙知」をベースとした仕事ですね。言語化するのが難しい仕事です。これまた周囲は、「自分には分からないからなあ••」となり、「周囲に知られない仕事」に化けていきます。


で、それらの根底に存在するのが、「自分の仕事をきちんと完遂する」という日本人の職業意識の高さだったりします。そんな意識が、「『周囲に知られない仕事』だって仕事のうちだしな」と自分の感情をなんとか納得させたりする。


けどそんな感情は、「『他者の承認』を渇望する」人間の本質と相反するので時に噴出しかけるものか、と。


「周囲に知られない仕事」をオープンにしていくのは、働く職業人はむろん、僕ら経営層にだってどうやら重要なことのようです。


「こんな仕事してるのに、周りは分かってくれないんだよな」という経営層の意識(無意識?)が組織にもたらす悪い影響は甚大ですからね。


自分が「適切に」開示をしていけばしていくだけ、周囲の協力や支援をいただけるのが、どうやら世の常のようですので。


「働く人のほとんどが、大なり小なり『周囲に知られない仕事』を抱えている」というのが僕の実経験。


って考えると「周囲に知られない仕事」をオープンにすることは、「お互いさま」の人間関係を一つでも多くつくっていく上でも大事なことなのか、と。

November 10, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.08

「朝令暮改」について考える

「朝令暮改」って言葉があります。


意味を調べると「朝に政令を下して夕方それを改めかえること。命令や方針がたえず改められてあてにならないこと」とあります。


あまりいいイメージではないですね。


けど、経営者の中にはこの言葉を好意的に使う方が多いようです。


セブンイレブンやイトーヨーカド堂を傘下に持つセブンアイ•ホールディングスの鈴木敏文会長は『朝令暮改の発想』というタイトルの書籍まで出して「朝令暮改になることを恐れるな」いっていますからね。


僕もこの言葉は好意的に受け取っています。決めたことをどんどんと変えていく、そのプロセスこそが仕事だとさえ思っています。


けど、「朝令暮改」を「あてにならない」と考える人もいるのも経験で知っています。「上に振り回される」だとか「ビジョンが明確ではなくてしんどい」と相談をされたこともあります。


で、その相談をうけるたびに「自分もそういわれてるんだろうな•••」って実感がひしひしと感じたりする(笑)でも、どこかに「それが仕事だからしゃーないじゃん」と開き直っている自分もいる。


「なんで変えていくことを拒否するんだ。それが仕事だろ」って「朝令暮改派(?)の意識」と、「なんてあてにならないんだ。振り回すな」って「朝令暮改反対派の意識」が水面下で対決する


今の日本の職場の多くで見られる光景、かと。


この水面下の意識の対決は「人間の気質」が根底に存在すると思われるのでなかなか難しいですね。


僕は「朝令暮改」を改める必要はさらさら感じていません。それは、小さい会社の生命線の一つ、とさえ思いますし。「それが仕事だろ」って意識はどこかにあります。


けど、「朝令暮改している自分」を客観的に観れるようにはなりたいな、と思います。「変えていること」「変わったこと」にも気がつかないことがありますのでね。


おそらく多くの「朝令暮改派」にしたら過ぎ去った過去のこと、過去に決めたことはどうでもよかったりするんですね。新しいことに意識や行動が向いている。


けど、そんな姿勢が時に「無責任」だとか「現実逃避」だとかにも見えたりするわけで•••。


「無責任」と「朝令暮改」とを結びつけて解釈されるのは「朝令暮改派」からはまったくもって困った話でもあったりするのです。


「責任」ってもっと次元の高い話、でしょと。

November 8, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.07

「申し訳ない」より「ありがとう」

タイトルは、最近見た映画の中のセリフをちょっともじりました。


僕らは、さまざまな人間関係の中に生きています。その中で「1人では生きていけない」ということは多くの人が知識としては知っています。


けど、「自分は自力で生きている」というアイデンティティがあったりもする。


どうやら人は、そんな心の葛藤(?)の中で無意識のうちに気持ちや言葉をコントロールするようです。


僕は、ある人に対して「申し訳ないな」「迷惑かけたな」という気持ちでずっと接していました。


けど、それが「『ありがとう』と口に出していえないから、『申し訳ない』と思うことで心のバランスをとっていたんだな」ということが最近になって判りました。それも、頭ではなく、体感覚でです。


「ありがとう」って口にできない心のつっかえを、「申し訳ない」とか「迷惑かけたな」という言葉に置き換えていたんですね。


「だから何?」といわれるとそれまでなのですが、自分にとってこの気づきは大変に大きかったです。


とかく、わからないのは自分自身のことですね。

November 7, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.06

土曜日のジムが終わった後で

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土曜日のスポーツクラブが終わったあとは、皆で中華料理屋にいきます。シューマイや餃子を食べながらハイボールかビールを飲むのがレッスンに参加した時の恒例行事。


昨日は、新しくスタジオを担当するインストラクターがお披露目の日、素晴らしいレッスンを予感させる逸材でした!


ジムに行かない人からすると「へええ〜」かもしれませんが•••(笑)最近、こうした新しい縁が相次いでいてありがたいことです。

November 6, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.04

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

20111104

増田俊也著•新潮社刊•2,730円

昭和の時代、格闘技が隆盛だった時代の、プロレス•柔道•空手を中心とした華やかではない方の時代史です。


資料や証人をもとに事実に迫っていく筆者の視点は、まさに歴史のデッサンを描いていく歴史家の視点です。


そんな姿勢が、僕ら昭和の時代の格闘技ファンが抱いていた多くの「幻想」を打ち砕いて行きます。


「梶原一騎格闘技史観」「プロレス最強論」「海外で修行して強くなって凱旋帰国」などといったできごとの多くが「格闘技という一つのビジネス」によって生み出されたもの、という認識は僕にとっては「見たくない現実」です。


これらから受けた影響、救い、憧れは計り知れないですし。


高校1年の現代社会の授業で「『猪木VSアリ』ってどーなのよ?」という先生に対抗し「プロレス最強論」を皆の前で語ったことがあるのですが、あの頃の僕がこの本を読んでいたら衝撃で立ち直れなかったかもしれないです(笑)


2段組みで700ページ近くあり、さらには「見たくない現実」をつきつけられるのでなかなかハードな本ですが、ラスト2ページは圧巻です。


僕が「格闘技がつまらなくなったなあ」と感じはじめたは、格闘技そのものが「幻想」を「幻想」だけで終わらせないようになったから、です。


「幻想」だけで終わっていた「夢の対決」が次々に量産され、業界内の人から「幻想」が白日ももとにさらされ、「あの人は強い!」と思っていた人が「そんなんじゃなかったな••」ってできごとが続いたから、ですね。


この本のラスト2ページは、「新たな幻想」を僕らの前に示してくれました。こんな「幻想」が醸し出す余韻、これこそが格闘技のもう一つの醍醐味なのだ、と。


筆者は18年もかけて執筆されたそうです。素晴らしい仕事、ですね。

November 4, 2011 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2011.11.02

上機嫌、という作法

その昔、「最近の社長は機嫌が悪い」と社員面談でいわれたことがあります。


「機嫌が悪い」って自覚は私にはなかったのですが、こと自分に関してのことは周囲の見立ての方が正確である場合が多い。素直に改めようと思いました。


が、そういったたぐいの声が何回か続く。


「機嫌が悪い」が「きっと、怒ってるんだ」「何かトラブルがあったようだ」などと「解釈」になっていったりする。恐らく(これは僕の見立てです)それを正統化するための事実が集まっていく•••。


となると、「機嫌が悪い」といわれている本人が「俺は機嫌なぞ悪くない」といっても通じなくなるわけですね。


こうした思いを何回かしたことがあります。


こと、「自分のことについては周囲の見立ての方が正確である場合が多い」とは思ってますが、正直なんとなく釈然としなかったんですね。頭では理解できるが、体が納得していないような感覚です。


そんな時に知り合いの経営者がこんなことを。


自分も「怒っている」と周囲から言われることが多かったんだわ。半分は自分でつくりあげたキャラクターを演じていたつもりなのであまり気にしてなかったんだわ。


けど、しょっちゅう「怒っている」と陰口いわれてるみたいなので、「こりゃまずい」と思って話を聞いてると「自分がナーバスになっている状態」を人によっては「怒っている」と解釈することに気がついたんだわ。


なるほど•••「自分がナーバスになっている状態」だったら自分にもあるなぁ、と。


経営は、「大胆に攻める部分」だけでは無理なわけで、どこかに「ナーバスに、慎重に、最悪の最悪を考える部分」を併せ持っていないとならない。で、そのいやーな仕事の多くは社長の責務、だと僕は思うわけです。


でも、そんないやーな仕事をすることで「ナーバスになった自分」が周囲にさとられてしまう。更には、「機嫌が悪い」などと感じられてしまってはいただけないですね。


そう考えると、「機嫌が悪い」って人が周囲にいたら、「単にナーバスになってるんじゃない」と認知を変換させるのは、自分がストレスを感じないために有益かもしれないですね。


かくいう僕は、「ナーバスな自分」を客観的に意識できるようにして、「上機嫌を心がける」ようにしたいと思いました。

November 2, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.01

教養について考える

「教養」は、英語だと「リベラルアーツ」。
つまり、「自由になる技術」。
知識は人を自由にする。


(『クリエイティブマインド』杉山恒太郎著•インプレスジャパン)

「知識」って言葉には僕は「一抹の重さ」を感じます。


「人間を行動へと駆り立てる何かを時にはなくしてしまったり、「体で感じること」を阻害してしまうような感じといったらいいでしょうかね。「知識」でいっぱいな人を見てもうらやましいとは思わないですし、「ああなりたいな」とも思えない。


けど、一方の「教養」。これを持っている人は、憧れますね。尊敬の対象です。近くにいるだけで、周囲の人々が何かしらの影響を感じてしまうような人、といったらいいですかね。あまりうまい言い方じゃないですけど。


では、「知識」と「教養」って何が違うの?といわれても言語化するのは難しいです。


世の中にあまた存在する「知識」をベースに、「行動」「経験」「反省」ってものを加えて、「時の経過」ってスパイスを付け加えたものが、「知恵」。で、その「知恵」を集めて人格レベルまで昇華させたものが「教養」って感じかな•••。


でも、この言語化したものそのものが「知識」に毒されている感満載のような気もします。本来は、「言葉そのもの」からも自由なのが「教養」の本質のような気もします。


こんなことを考えると、「知識」は普遍的ですが、「知恵」や「教養」はきわめて属人的です。さらには、「インスタントの知識」って言葉は成立しますが、「インスタントの知恵」だとか「誰にでも分かる教養」って言葉には矛盾があるように思ったりします。


「自由になる技術」を身につけるために学ぶんだ


なーんて心の底から言えたらかっこいいですね。人間は「自己防衛のために学ぶ」って側面があるでしょうし。


「自己防衛からの学び」では人は自由にはなれないのだな、とこの言葉にふれて思った次第です。それは、「教養」とは対局にある世界なのでしょう。

November 1, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)