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2011.12.28

昨日は銀座で会食

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昨日は、銀座で会食でした。久しぶりに2時すぎまで。


そこそこ飲みましたが、薬膳鍋を食べたので今朝の調子はバツグンです。


今日は今年の仕事納め。


December 28, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.27

自分のことはさておき

「○○さんからの報告や相談がない」なんて問題提起があったとします。


そのために仕事がスムーズにいかないのであれば確かにこれは問題ですね。


けど、僕らがこの手の問題提起をする場合「でも、そうは口にしている自分だって報告や相談を完璧にしているわけじゃないからな」って感じの逡巡が入ったりします。

その「逡巡」が「自分が問題を口にして、逆に自分が突っ込まれるのも嫌だ」だとか「ああいう一面は自分にもあるからな」などの意識を生み出します。


結果として、そんな謙虚な(?)意識が「問題提起をしない」という行動につながり、問題の発見や解決を遅らせることがあったりします。


かつてこんなことがありました。


本ブログに対して「ブログで書いていることと現実の生き方が違うんじゃん?」って意見を耳にしました。もちろん、この手の陰口みたいな意見は直接自分にはきませんから、人づての話としてですね。


「ってか、そんなの当たり前じゃん」


この手の話はこれでジ•エンドです。


このブログは「自分がどう生きているか」ではなく、「自分がどう生きたいか」を書いているわけですからね。「現実の生き方」と違うことなんて至る所にあるでしょうし。


「問題提起を口にする」「考えているこをブログに書く」などの行為を行うと、「そう口にしているあなたはどうなのよ?」って向けられることがままあります。


僕が思うにはこの言葉は、自分のアイデンティティを守るための精一杯の抵抗でしょう。典型的な自己防衛のパターンですし、完璧ガード状態ですね。


別に「問題提起」や「書いた」側は誰かを攻撃する意図がある訳じゃないんですけど(意図がある場合もあるかな)、自己を守るために過剰な反応をしているだけなんでしょう。


これでは、せっかくの(?)問題提起も「あなたこそ問題じゃない」的な水掛け論に終止してしまいます。


先日もとりあげたローマの哲学者•セネカはこういいます。


私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである。(『幸福な生について』P169)


「これが問題だ」と考えることの多くは、つまるところ自分自身の問題でもある、ということですね。


「自分=善、他者=問題」って白黒思考は論外ですが、とかく「問題提起」を行う際は「自分のことはさておき」ってスタンスをいくらか持つのが大事なのでしょう。


「あなたはどうなのよ?」が向けられないように行動を控える、ってのも自己防衛のパターンですからね。


「自分のことはさておき」って言葉のイメージはよくないですけど、「自己防衛」よりもいいのかな、と。


「自己防衛」が強い人で周囲からみて魅力的な人は少ないでしょうし。

December 27, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.26

今年のクリスマス

よく食べて、よく動いて、よく声だして、よく着替えました(笑)


お会いしたみなさん、お疲れさまでした!


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December 26, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.22

今日は賞与の支給日です

会社員で働いているときは給料日までが長く感じた。起業したら、給料日までが短く感じてしょうがなかった。


と、僕が起業した際に参加したあるセミナーで講師がそんな話をしていました。


会社は12期目と3ヶ月目に入っているので、いままでに147回の給料日があったわけですね。それに、賞与と利益がでれば決算賞与があるので200回弱の給料やそれに類する日があったわけです。

途中、確かに「給料日までが短くてしょうがない」なんて時期もありました。


ほとんどの人がそうでしょうが、創業の頃ですね。自分の目の前を流れていくお金の総量が「入り」も増えたし、「出」も増えてとまどいを感じたこともありました。入金がないと支払ができない、なんてこともよくあったと思いますし、前金で支払わないと仕事が進まない部分も多かったですし。


けど、以降は「短くてしょうがない」って意識はほとんどないですね。


今改めて思うのですが、「短くてしょうがない」ってことは「土俵際での資金繰りをしている」か「給料を支払うのが嫌だって意識がどこかにあるか」が根底にあるんじゃないかな、なんて思います。


もし仮に「給料を支払うのが嫌だって意識」がどこかにあるとしたら毎月がそのしんどさとの戦いでしんどいでしょうね。で、その意識は周囲にはほぼ伝わっているでしょうし。


お金には出ていくタイミングや機会、流れや必然性が存在している


と思います。処世訓みたいになってしまいますが、お金がでていく時にはもったいつけず、恩きせがましくならず、心地よく送り出していくことが大事なのだと思います。


自分はどんな局面でも出すときは気持ちよく出す、を心がけていきたいなと思います。お金はエネルギーの塊ですし、気持ちよく出すということが積徳につながるのでしょうし。


僕らには「納税」って嫌なこと(?)があるのですが、これだって同様です。形を変えて社会インフラや子供の教育なんかに返って訳ですからね。


むろん、「気持ちよく出す」って姿勢と「頑張りをどのように評価する」ってことは別問題。


「自分自身の評価は高めになる」のが人間の本質なので皆がみな100%満足、なんてのはユートピアでしょう。けど、その二律背反を統合するものが経営でしょうし、ずっと追いかけていかないとならない世界なのでしょう。


ともあれ、それぞれが、それぞれの形で役割を果たしてもらった半年に感謝したいと思います。


「誰にも知られず頑張った」だとか「誰も理解されなかったしんどさ」なんてことがすぐさま賞与や給料に反映されることはそう多くはないかもしれません。


けど、未来に対して「徳」を貯金していると思えば、「嫌だったできごと」「しんどかったできごと」も見え方が変わってくると思うんですけど、どうでしょうね。


自分も今年は頑張りました。「嫌だったこと」「しんどかったこと」はすべてまとめて「将来の徳」になっていくんだと考えると、来年以降に何が起こるかがちょっと楽しみでもあったりします。

December 22, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.21

怒りについて

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知り合いから勧められてローマの哲学者•セネカの『怒りについて』を読みました。


2,000年もの前に書かれた本ですが、「怒り」という破壊的な情念についての分析は今の時代でもまったく色あせないテーマです。



「ストレスが溜まる」と僕らはごく普通に口にしますが、心の奥底を除くとその根底には「未解消な怒りの存在」があったりします。


「周囲が思い通りにならない苛立たしさ」だとか「予定通りに物事が進まないもどかしさ」だとか「受け取れると思っていたことが受け取れない無念さ」だとか•••


それらが、「怒り」となって心のあるスペースに存在しはじめます。


で、その「怒り」をうまく消化してしまえばいいのでしょうが、「怒り」の絶対的な熱量(?)が高かったり、消化する技術がなかったりすると「未解消な怒り」となって僕らの心に沈殿するようです。


で、「怒り」そのものが、感情の主体であるはずの人間をコントロールし始める、ということが起きたりしてしまいます。


セネカはこういいます。


「怒りとは、不正に対して復讐することの欲望である。」「害を加えたか、害を加えようと欲した者を害することへの心の激情である」(P91)


で、「まるで永遠に生きるために生まれたかのように、怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させて、何が楽しいのか。気高い喜びに費やすことが許されている日を他人の苦痛と呵責へ移して、何が楽しいのか。君の財産には損失の余地はなく、むだにできる時間はない」(P261)とまとめます。


この本には「怒り」に支配された生き方をしないための、工夫や考え方がちりばめられています。


「他人のものを眺めると、誰でも自分のものが気に入らなくなる。(中略)とにかく人間のずうずうしさは限度を知らない。たとえどれほど多くをもらっていても、もっともらえるはずだった、というのが不正の理由になるほどである。」(P246)


「あなたの最大のあやまちは何だと尋ねるのか。間違った評価計算をしていることだ。あなたはあげたものを高く、もらったものを安く値踏みしている。」(P247)


「怒り」の根底にある、「欲」と「高い自己評価」。


「怒り」って情念から自分自身を遠ざけるためには、「怒り」から冷静に時間を置くことと、自分自身の「欲」や「高い自己評価」に思いを馳せるだけの心のスペースを保っておくことなのかもしれないな、と。


「怒りの特性は頑固さ」(P104)なので、「頑固な自分が必要以上にでてきた時は『怒り』のサイン」なのかもしれないな、と。


人間の知性ってのは素晴らしい。そんなことを感じさせる一冊です。

December 21, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.20

元巨人•江川卓さんについて

昭和55年の夏のこと。


国語の授業で「手紙を書く」という時間がありました。


誰でも好きな人に手紙を書きましょう、って先生がテーマを与えてくれました。

同級生が「田舎のおじいちゃんおちゃん」や「引越をした友達」などを選ぶなか、僕は当時プロ野球に入団したばかりの江川卓さんをなぜか選びました。


当時、小学生の私ですら江川選手はイメージが悪い選手でした。前の年の巨人に入団した経緯が問題となっているらしい、とは知っていました。


けど、あんなに素晴らしい選手が必要以上のヤジを受けることに一抹の判官びいきのようなものもあったのでしょう。「作新学院の頃から見てます!」と熱い手紙を送りました。


数週間後。


同級生は次々と手紙の返事が来ていますが、僕には当然のことながら手紙はきません。


先生は、「江川は忙しいから返事を書く時間がないんだろう」とフォローのような、先生らしいような、差し障りのないような言葉をかけてくれました。


小学生ながらにも「返事なんてくるわけないよな」と思いつつも、若干の期待をしながらポストをのぞく日々が続いたある日、ポストに一枚のハガキが届いていました。


「いつも応援ありがとう 江川卓」の文字とサインでした。


普通のハガキに印刷されたサインに手書きのメッセージ。これ以上ないってほどシンプルな手紙でしたが、小躍りして喜びました。


嬉しかった、って感情もそうですが、「テレビに出てる江川がこのハガキを触ったんだな」と思うと不思議な感覚だったのを覚えています。


さて、ここ最近の巨人軍のゴタゴタの渦中で江川選手の名前があがりました。「江川だとお客さんが集まる」という話があったとか、なかったとか•••


事実は分かりませんし、詮索する立場でもありません。


けど、もしかりに江川ヘッドコーチになったら少なくとも僕は球場に足を運ぶようになるでしょうね。どんな野球をするのか見てみたいですし、ユニフォームを着た姿を想像するだけで感動ものです。


あの手紙が影響してるのかどうかわかりませんけどね。けど、鳥肌がたつほどすごい選手だったのは間違いがないです。


ちなみに、江川選手からの手紙に感銘を受けて(?)、以後何人もの野球選手に手紙を出しました。


当時、絶大なる人気を誇る選手などもいたのですが、ほとんどが反応なし。


「悪役レスラーほどプライベートでは優しい」というプロレス界の都市伝説(?)のようなものがかつてありましたが、野球選手も同様なのかもしれないですね。

December 20, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.19

神宮の駅伝

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1.4キロのコースを、5人で、3時間かけて走るというこの企画。


自分は5周走ったので、7キロ走ったことになります。


1人でたんたんと走るよりもペースのつかみ方が難しいかもしれないですね。あとは、迷惑かけられんって意識も若干働くのでちと必要以上に頑張りすぎたりするかも。


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二次会は神楽坂のおなじみの中華、三次会は近くのカラオケ。


先週から夜の予定が続いていたので、最後はさすがにグロッキーでした。ってか、カラオケ1曲もいれてないし(笑)


ご一緒したみなさん、お疲れさまでした。

December 19, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.15

曖昧なコミュニケーションをなくしていく

「職場に○○って問題があって、皆が困っている」


という話があったとします。


報告を受ける側が「皆」って言葉をどのようにとらえるかで、この話は全く見え方が変わってきます。

「『皆』の総意を代表して意見をしてきているんだ」ととらえれば(他の事実を集めた上で)具体的な問題解決へ進む必要があるかもしれません。


一方で、「『皆』って言っているけど、『自分が困っている』ってことを遠回しに言ってるんでしょ」ととらえれば、具体的な問題解決は念頭に置きつつ、この手の曖昧なコミュニケーションに対して本人に直面化をさせないといけないかもしれません。


昨日のブログにも書きましたが、僕らは「欲求を自己防衛しながら満たそうとする」癖(?)があります。


で、困るのはこの癖が多くの場合に無意識に出てしまうこと。「個人の欲求」が「皆の欲求」みたいにいつのまにか形が変わっていくことも、今の社会ではそうそうめづらしいことではないのかもしれません。


「欲求を自己防衛した上でそれぞれがコミュニケーションを図る」わけですから、どこかに不全感がでてきたりします。不信や疑念が生まれる土壌になったりします。


この手の問題に関しては、報告を受ける側が「曖昧なコミュニケーションに対して疑問を投げ続けること」なのでしょう。


「『皆』っていうけど、具体的に誰と誰と誰?」って具合にですね。


むろん、報告を受ける側の立場の人も「自分の曖昧なコミュニケーション」をできるだけしないようにと意識を向けることも大事なのはいうまでもありません。

December 15, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.14

欲求を自己防衛しながら満たそうとする

昨日は研修会でした。9時間、さまざまなテーマがでて、いい意味で頭が混乱しました。その中でたまたま出てきた話からちと考えてみます。


僕らには「快感を追い求めたい」って欲求と、「不快を避けたい」って欲求と


大きく分けて2つの欲求があります。


僕らの周囲に、「不快」はたくさんあります。「周囲の騒音がうるさい」だとか「部下が指示通り動かない」だとかですね。


この欲求が大きくなると僕らは「不快を避けよう」と動きます。当事者に働きかけたり、注意を促したりします。


けど、ここで自己防衛が働くことがあります。


当事者にダイレクトに働きかけることは、自分が嫌な思いをすることがあるためです。だから、自分が傷つかない形で欲求を通そうとします。


例えば、「自分の欲求を口にしないで、社会倫理を持ち出して『不快を避け』る」自己防衛。


尊敬する社長さんが研修の席でこんな話をしていました。


今までは職場に遅刻が多いので『社会人なんだから遅刻するな』って話をしていた。それでも遅刻は減らなかった。ある時から「遅刻すると自分が頭にくるんだから遅刻するな」といったら遅刻がほぼ無くなった、と。


うーん、この手の話はよくあることだな、と。


もひとつの例として、「自分以外の人を全面に出して『不快を避け』てもらう」自己防衛。


「この問題は部長が出てもらわないとお客さんが納得しないです」って話が職場にはよくありますよね。


確かに役職者が出なければ物事が解決しないケースもあるでしょう。


けど、なんでもかんでも上司や先輩を動かすことで問題を解決(=不快から逃避)しようとしているのなら根底に自己防衛を疑った方がいいかもしれませんね。


自らが前面にたたずに欲求を満たす、ってのができたら最高なんでしょうけどね。どうやら、人の世はそんなに甘くできていないようですし。


とかく、これらの問題は一見するとスジが通っているように見えます。逆に言うと、スジが通っているからこそ、自己防衛って意識が無意識に「スジ」を活用しようとするのかもしれませんね。


我が家で生活している2匹の猫は、朝5時過ぎから活動を始めます。


「お腹が減った」という「不快」を避けようと一生懸命に私を起こしにかかります。


どちらも「もう一方の猫を動かして食事をもらうように」なんて動きはしません。また、仮に口がきけたとしても「飼い主はご飯をあげるものだ」と社会規範を持ち出したりはせず、一生懸命に欲求を伝えようと動くことでしょう。


自分自身の根底に、さまざまな欲求がある。けど、自らが傷つきたくないからさまざまな形で自己防衛しながら、欲求の解消を図るように動く。


少なくとも僕にはこういう要素はありますね。


日常の中で欲求がムクムクと頭をもたげてきた時に、自分がこのことに意識的になれるかなれないかが重要なのかと。


どうやら、「自分の欲求」を「欲求」と認識した上で、きちっと当事者に伝えることが重要なようですね。


自分は比較的やっているつもりでしたが、さまざまな形での自己防衛はまだまだあるのだな、と思いました。

December 14, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.13

選択されなかった未来

「芸能人のマネージャーにならないか?」と知り合いに声をかけられたことがあります。


電気工事のアルバイトをしながら旅をしていた28歳の頃です。


長旅に行く以外には「これをやりたい!」と明確なビジョンもなかったので、六本木の喫茶店で事務所の方とお会いすることにしました。

「テレビやイベントなどでその芸能人をどのようにしたら使ってもらえるか?」を考え、行動に移すのが仕事、と確か聞きました。


その芸能人は僕が高校生の頃にブレークしたアイドルでした。当時は、アイドルなのか女優なのか歌手なのか、過渡期にいた感を僕は持っていました。


「彼女の芸能人としての方向性を決めるのは大塚さんの仕事になります」的なことも言われました。


「面白いな」とは思いました。周囲でそのような仕事をやっている人は誰もいなかったからですね。一度、飛び込んでみてもいいかな、とも思いました。


けど、一方でその事務所の方にちょっと違和感を感じていました。携帯電話がどんどんとかかってきて、前にいる自分におかまいなしにしゃべるし、仕事の話がどうも抽象的で観念的•••。


30分くらいお話しして、翌日、丁重にお断りしました。


今思うと、「芸能人のマネージャーになる」って未来が向こうからやってきた瞬間でした。


で、僕はこの未来に対して「NO」の選択をしました。とりあえずやってみる、という判断もなくですね。


未来は向こうから僕らにやってきます。


「何が」「いつ」「どういう形で」やってくるのかは(たぶん)選択はできません。


「善行を積めばいいことがやってくる」といった「因果応報」がベースにあるようでもあり、「人間が生まれながらに与えられた使命」に基づいて未来がやってくるようでもあり•••、この辺は僕にはよくわかりません。


けど、未来は向こうからやってくるのはどうやら間違いがないようです。


「こちらから未来を追いかける」って主体的に(?)思いたいですが、そんな意志とは無関係に未来は僕らに未来をつきつけてくるように僕は思います。


それに対して僕らができることは、「やってきた未来」を取り逃がさないように「未来への感度」を高めていくことと、「その未来を選択するかしないか」の判断を自己責任で行うこと、かと。


で、自己責任で行った判断に対して後からとやかく考えないことも重要か、と。


ちなみに、あの時にマネージャーの話があった芸能人はその後、女優としていまでも活躍をしています。僕とは一瞬だけ人生がシンクロしかけたと思うと、ちょっとだけ応援をしたくなったりもします。

December 13, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.12

コミュニケーションの入り口を「イエス」にする

人からモノを頼まれるとする。できるかできないか分からないことだったとする。


人から何かに誘われるとする。「面倒くさいな」って意識がちょっともたげたりする。


人間は自然の一部って考えると、「頼まれる」だとか「誘われる」ってことは、未来が向こうから自分に向かってきているということだと僕は思います。

「頼まれごと」や「誘いごと」に条件反射的に「No」を突きつけてしまえば、自分自身の安寧(?)はその時点で保つことはできるでしょう。けど反対に、未来に対しての扉が開かれる機会を逃している可能性もあるのじゃないかな、と僕は思います。


人間は、自由意志で未来を切り開いているよりも、周囲や環境によって未来を切り開かれている方が多いでしょうしね。(100%周囲や環境によって未来は決定される、という考えもあるみたいですね)


なので、「頼まれごと」「誘いごと」に対してのコミュニケーションの入り口はとりあえず「イエス」から入るようにした方がいい。


「イエス」のスイッチをいれた上で、時間的に、能力的にどうしてもダメなことであったり、「どう考えても気分が乗らない」ってことであれば自分なりのいい方で「No」を言えばいいんじゃないかな、と。


「頼まれごと」や「誘いごと」に「No」を入り口にしたコミュニケーションを続けてれば、次第に同様の「頼まれごと」や「誘いごと」は減っていくでしょう。


これって「ラクチン」なようでもあり、「未来への可能性を自ら閉ざす」ってことでもあるんじゃないかな、って思ったりします。

December 12, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.09

初対面は苦手です

不特定多数の人が集まる研修会にいくとします。


30人くらい入る会場で、すでに半分以上の席が埋まっている。で、どこかに席をとるとします。


隣には同じ年くらいの受講生が座っています。名前も、仕事も、研修にきた目的も、どこから来たのかも何もかもがわからない人です。


こういう時どうしますか?

僕は、「挨拶だけでもした方がいいのかな?」とか迷います。隣に座ったのも何かの縁でしょうし、一日だとか二日だとか同じ時間を共有するわけですからね。


けど、「それも迷惑かな」とか思ったりもします。「迷惑」と口に出していわれることはないでしょうけど、勝手にそう思ってしまったりもします。


そんなですから、知らない人が大勢集まるパーティーは苦手です。「何回か会話をしたことがあるけど、知り合いってほどじゃない」と道でばったり出会った時に、「声かけようかかけまいか」なんて悩む(?)こともあります。


こういう時のぎこちなさ、こういうときの体の違和感、こういうときのいたたまれなさ、みたいな感覚はあまりいいものではないです。


けど、こうした感情って大人であれば大なり小なりみな持っているんじゃないか、と。


そもそも動物である人間が「新しいもの」「新しいこと」「新しい人」に「自分にとって敵なのか味方なのか?」「自分の安全が脅かされないか?」と無意識に警戒心をいただくのは当然でしょうし。


「初めて出会うこの人は自分の敵じゃないしな」


そんな意識のスイッチをいれて、ごくごく自然と振る舞うのがいいのかな、と。「挨拶した方がいいのかな、しない方がいいのかな」って考えること自体が警戒心の現れでしょうし。


警戒心がなさすぎで他人のスペースにどんどんと入っていくのも問題ありでしょうし、警戒心がありすぎで新しいチャンスを自ら閉じてしまうのも残念なこと。


大事なのはほどほど、ってやつでしょうね。


とかく人間は、年齢を重ねるごとに周囲への警戒心が強くなっていく傾向があるみたいなのでそこは注意できればいいな、と思います。警戒心は自己防衛の一つの形、ですからね。

December 9, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.08

「絶対に」だとか「〜に違いありません」を考える

報告を受けている時、「絶対に」だとか「〜に違いありません」という言葉が出てくるときがあります。


この手の言葉は聞こえがいいですね。仕事に対しての絶対的な自信が感じられるようにも聞こえますし、責任感があるようにも聞こえる。


•••と思っていたのは数年前まで。


今は、これらの言葉が出てきたら、「絶対に?」だとか「〜に違いありません?」となるべく突っ込みをいれるようにします。


この質問をすると、「根拠が全くなかったり」「過去の出来事から類推していただけだったり」「誰かが言っていたことを鵜呑みにしていただけだったり」ということがままあります。


こちらが質問をする意図は、「絶対に」や「〜に違いありません」の根拠を聞きたい、ということ。きちんとした根拠がある「絶対に」であればまだいいんですけど、根拠なき意見はビジネスの現場ではさまざまなトラブルの元ですしね。


そもそも、人間の営みに「絶対」というものは存在しないわけです。


「この問題の原因は『絶対に』○○だ」ととらえていても、違う情報が入ったり、見方を変えたり、時間が経過したりしたら「絶対に」といえなくなってしまうこともごくごく普通にあるわけです。


問題に対して「これが原因だ」と仮説をたてるのはいいでしょう。けど、「仮説」と「絶対に」との間には大きな溝があることを知っておくことは重要です。


なぜか? 


「絶対に」って思っていたことと「現実」との間にギャップがあった時に、「現実」をねじ曲げてしまう力が働くからです。「絶対に」を正統化する「現実」を無意識に集める力が働くからです。


僕は「見立て」という言葉を使うようにしています。これは、僕が尊敬する先生がよく会話の中で使っていた言葉ですね。それを、拝借しました。


「仮説」と「絶対に」との間、という感じでしょうかね。「自分の『見立て』ではこの問題の原因は○○だ」って使い方をします。


言葉の持つイメージはみなそれぞれでしょう。


僕は「見立て」って言葉に「間違っていたら変えられる自由さ」だとか「自分以外の意見も受け入れるような柔軟さ」だとか「まだ自分が知らない情報がどこかにあるのでは、という謙虚さ」があるような気がしています。


たった一つの言葉ですけど、この言葉を多用するようになってから周囲からの報告の内容が変化してきたのですから驚きですね。


最近は「絶対に」が少なくなってきましたし、発言をしながら「あっ、これって単なる思い込みで根拠がないですね」と自分自信で気がつく人がでてきましたし。


それって人間の進歩としては大きいことだと僕は思います。自分をちょっとだけ客観視できることになった訳ですからね。

December 8, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.07

「意見」と「個人」とを分けて考える

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」


フランスの哲学者•ヴォルテールの「表現の自由」に対する言葉のようですね。僕が大学の授業で習ったことで記憶している数少ないこと(?)の一つです。


「意見」と「個人」とは、まったく別ものです。当然といえば当然ですよね。

ここをごっちゃにしてしまうと、ちょっと話が通じなかっただけで、「あの人は分かってくれない」だとか「まったく話が通じない人だ」って全否定になってしまったりします。


はたまた、自分の意見に反論をされただけで、「自分自身が根底から否定されたような感覚」になってしまうこともあったりします。


当然、人間ですから「むかっとする意見を口にする主体」としての個人に嫌悪感を抱く気持ちもでるでしょうし、「すわっ、自分が否定された」と自己防御センサーが働くこともあるでしょう。


重要なのは、その気持ちをどのようにリセットできるか、だと思います。


嫌悪感や自己防御の気持ちは自分自身を無自覚にコントロールしていってしまうので、少なくしていった方が日々楽に生きていけるでしょうし。


かくいう自分も、「好き放題いいやがって」だとか「それって自分への攻撃?」とかで嫌悪感や自己防衛モードが働くときはあります。


そんなときは「個人と意見は別物だしな」って考えることで自分自身の感情をリセットするようにしていました。


けど、嫌悪感や自己防衛て感情ってのはパワーが強いので頭(知識)で制御してもダメなことがあるんですね。


一度制御された嫌悪感、怒りの感情が、ジムでレッスンを受けている時に突然感情がでてきて「レッスン終わったら電話してやろう」って思ったこともありますし。


これに対する最善の策は、「自分の感情を素直に出すこと」なのでしょう。


「今の意見、『好き放題言ってるよな』って思うんだけど、どうだろ?」って具合にですね。


「波風がたつなあ」と思う気持ちもでなくはないですし、僕らには遠慮って気持ちが働くのでなかなか難しいかもしれませんが、「意見」と「個人」とは別物って考えれば別段、個人否定をしているわけじゃないですからね。


僕らは社会性を身につけるために、という名目(?)でいくつもの感情を抑圧して年齢を重ねてきました。


で、今の時代はその行き場のない感情をコントロールすることを、一人一人が突きつけられているように思えてなりません。


心理学だとかの学問ではどう考えるのか分かりませんが、僕の実感では感情コントロールのための第一歩は、「意見」と「個人」とを分けて考えることからか、と。

December 7, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.06

横浜マラソン

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10キロの部を走りました。


どれくらいのペースで走ったらいいか予測、想像もつかないほど練習していませんでしたが、「おっ、思うより走れるじゃん」ってのが感想。


さすがに8年もスポーツクラブ行ってたら知らない間に体力がついていたんでしょうね。

終わった後、一緒に参加したメンバーとスポーツクラブでレッスンを1本(60分)受けて、その後、宴会になだれ込みよく飲みました。


今年はもう一本、3時間を5人で走る駅伝に出る予定。


ちょっとこれから意識的に練習をしていこうと思いますが、「走るために体重を落とす」ではなく「走っていたら体重が落ちてきた」なんてのが実感できたら素晴らしいですね。

December 6, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.05

問題には寄り添ってみる

ここに何かしらの問題があるとします。


人間関係でも、仕事でも、お金でも何でもいい、「解決するのが難しいな」って問題があるとします。


多くの場合、僕らの脳みそは「何とか問題を解決させないとな」って働きます。もしくは、問題を問題としてスルーする。時間の経過にゆだねてしまうわけですね。


「問題だと思ってたことが時間が経つにつれて問題でなくなった」


という経験は大なり小なり誰にでもあると思います。だから、「問題が起きた時にそのままにしておくのがベスト」という判断もでてきたりします。


けど、「寝ても覚めても気にかかるようなレベルの問題」を僕らは「そのままに」しておくのが難しい。


どうしても解決の方に向かわないと気持ちの納まりが悪いんでしょうね。


「問題」を「問題」として持っておくのは、ある一定の器量(のようなもの)が必要だと僕は思いますし、「白が黒か」って判断をするのがごくごく普通みたいな時代感もあったりしますし。


何かしらの問題に対して「寄り添う」とか「ありのままにみつめる」というアプローチを教えてもらったのは、何年も前のこと。


禅の世界でも、神道の世界でも、インド哲学の世界でも、こんなことがいわれているようですね。


問題を問題としてたんたんとみつめ、それに寄り添う。で、何らかの動きが出てきたら、その結果に対しては「いい」とか「悪い」の判断をしない。


ただただ、たんたんと寄り添う、たんたんと見つめる、のだそうです。


「それって学問や哲学の世界の話であってビジネスの現場じゃ役立たないよ」と突っ込みが入るかもしれませんが、僕は実体験としてそうは思わないです。


寄り添ったり、たんたんと見つめていれば、何かしらの変化が起こるのが世の中の流れですしね。その変化から起こるできごとにたんたんと対応していけば、次の展開がみえてくるのかな、と。


そんな大きな流れのようなものと比較すると、一個人が問題に対して「頑張って解決しようとする」なんてのは、ものすごくちっぽけで、ものすごく利己的で、ものすごく近視眼的だったり、場当たり的であったりするのかな、と。


最近、なぜかこの手の話を見聞きすることが多くなってきたので「寄り添う」とか「たんたんと」という世界はものすごく深い世界だというのは承知でこんなことを書かせていただきました。

December 5, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.02

アントニオ猪木VSストロング小林

巌流島決戦といわれた「アントニオ猪木VSストロング小林」(昭和49年3月)のビデオを20年ぶりに見ました。


いやややや、凄い試合ですね。


派手な技の攻防はありませんが、プロレスが持つ醍醐味、魅力をこれほどまでに凝縮させた試合もそうそうないかもしれませんね。

見ていて思いました。


昔はプロレスや格闘技を体をつかって見ていなかったかな、と。それが、「語るためのプロレス」「評論するための格闘技」みたいに変化してきて、ファンがプロレスや格闘技を頭で見るようになってしまったのでは、と。


むろん、それはそれでありでしょう。


けど、それに飽きてしまったファンも多いのかな、と。興奮や感動を感じなくなったファンも増えたのかな、と。


お世話になっている神道学の大学教授が「お祭りを解説することはできない」とおっしゃってましたが、本来は格闘技やプロレスだって体で感じるものであって、頭を使って解説する対象ではないのでしょう。


昭和のプロレスには体で感じさせる何か、があったんでしょうね。

December 2, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.12.01

遠慮をなくしていく

住宅の仕事をしていた29歳のとき。とある会議でのできごと。


支店長から「会社の悪いことがあったら『遠慮なく』言ってくれ」と話があったので、「『うちの奴らはダメだ』って電話をメンバーがいる前で社外にしないで欲しい」と言ったことがあります。


これでも、「遠慮をして」思ってることの20%くらいしか口にしてないんですけどね。

で、支店長の反応。


「じゃあ、こっちだって言うけど、お前らそれだけの成績を残してんの?」と。それから、「遠慮ない」説教(?)が始まりました。


こんな例を出すまでもなく、「遠慮」はどこにでも蔓延してます。


これが日本人特有の感性なのかどうか分かりませんが、「あいまいな表現を好む」だとか「本音をいわない」みたいな日本文化論があることを考えると、あながち外れてもいないのでしょう。


「遠慮」って言葉の辞書を調べると、「人に対して、行動や言葉を慎み控えること」「遠い将来の出来事を視野にいれて、考えをめぐらすこと」とあります。


冒頭のケースでいうと、支店長は「行動や言葉を慎み控えないで発言してくれ」という意味で「遠慮」という言葉を使い、僕は「思ってることはいろいろとあるけど、全部口にしたらまずいだろうな」と「遠慮」した上で思ってることの20%しか口にしなかった


おそらくこんな背景でしょう。


当時の僕のように「遠慮」をして、思っていることを口にできない(していない)職業人はたくさんいると思います。


けど、「遠慮」ばかりだと人間は「思っていること」と「口にしていること」との間に矛盾が生じてきます。で、その矛盾がイライラや葛藤、ストレスになったりします。周囲からは「何か隠してるんだろうな」っ感じでみられることになったりします。


なんでもかんでも「遠慮をなくす」って訳にも当然いかないでしょうが、「遠慮の部分を少なくしていく」ということはちょっと自由に生きるために大事かもしれません。


•••と、こういう話をすると「あなたは社長だからそういえるんでしょう」という突っ込みが入ることが少なくありません。


確かに、僕らは「社長って形の立場」で「遠慮をなくす」ってコミュニケーションのスタイルをとることができなくもないかもしれません。


けど、多くの社長は社員さんに対して「何らかの遠慮」をしているのが常か、と。


かくいう自分も、「こんなことを本人に言ってやる気をそがれても面倒だしな」だとか「本人もも悪気があってやってるわけじゃないからな」だとかいった形の「遠慮」があったりします。


問題は顕在化してるけど、何らかの「遠慮」で本人に口にするまでに半年とか一年かかる案件もあったりします。


で、自分の頭では「遠慮」を「配慮」って言葉に置き換えたりしています。「今は口にするタイミングではない」とかいう具合にですね。


•••けどこれって、昨日のブログで書いた自己防衛??


最近思うのですが、多くの場合、「遠慮」も自己防衛であることが多いのかな、と。


自己をオープンにしている人(自己防衛していない人)は「遠慮」が少ないですからね。こういう人を、「失礼な人」と見る人もいるでしょうし、「自由な人」と見る人もいるでしょう。


今の僕はどちらかというと、後者です。


対人関係でどんどんと「遠慮」をなくしていくようにしていこうかな、と思います。それが、人とオープンに付き合う、ということにつながるのでしょうし。

December 1, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)