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2012.05.31

実はもっとすごいものに触れていたのかもしれない

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月に2度ばかり、『日本書紀』の公開講座にいっています。(講座参加の経緯はこちら


この講座の先生は自分が浪人していた時の日本史の先生。


格闘技とアイドルの本ぐらいしか読まなかった自分に、「学ぶことの楽しさ」や「学ぶことの大事さ」の入り口をみせてくれた先生です。


24年ぶりに授業を受けたのですが、話し口調、板書のやり方、時折ふとでる毒舌(?)など自分の記憶のママ。


自分が師事している経営コンサルタントとこの先生とが何となく似ていることに気がついて「ああ、俺ってたぶんこのような人に共鳴するんだな」と思わぬ自己発見でした。


で、古墳がどーだらだとか、出雲の国の伝承だとか、天智天皇や持統天皇といった受験で習ったような勉強をしているわけです。


で、思ったこと。


浪人時代、確かに自分はこの先生に刺激を受けた。「すごい」と思った。


けど、この先生は「実は、もっともっとすごい」存在だったのでは? ということ。


若い頃、お世話になった先生や先輩、同輩や後輩で「この人はすごい!」って思った方が何人もいます。


でも、社会人になって二つに別れました。


一つは、「あの頃の自分にはすごく映ったけど・・今思うとどなんだろ?」というケース。


も一つは、「あの頃の自分には分からなかったけど、実はもっともっとすごかった!」というケース。


この先生はまさに後者です。


浪人時代って、「大学を通るためだけの勉強をする時間」、のはず。


「灰色の時代」って感じで表現されることがあるし、「我慢・禁欲」みたいなキーワードもなんとなくしっくりとくる感じがする時代。


けど、そんな時期に「もっともっとすごかった!」なんて先生がいたのですから僥倖です。


人間万事塞翁が馬、てやつでしょうかね。とまれ、今後いろいろと学んでいこうと思います。

May 31, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.30

身体は覚えている

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「今の自分とギャップがあるワ・タ・シ」


ある遊びのイベントに参加する(! 自分も幹事だ)にあたり、昔の写真の提供依頼がありました。


で、十年以上ぶりに昔の写真をあさりました。


生まれたころ、喘息で身体が弱かったころ、ゲーム少年だったころ、算盤を頑張ってたころ、野球や格闘技をやったころ、なにも考えてなかったころ、浪人していたころ、若手社員だったころ、旅してたころ、会社を創業したころ・・


いろんな時代の写真がありました。


見たくないような写真もいろいろとありましたが、すべてが自分の創りあげてきた「ネタ」の数々と考えるとちょっとだけ感慨深いものがあります。長く生きてきたんだなあ、と。


で、写真をみていて感じました。


身体は何かを覚えている、と。


昔の記憶の多くは、潜在意識の中に入るか忘却してしまうかで自分らは忘れてしまっています。


でも、身体は何かをきっと覚えています。


それは、言語化できない世界。というか、言語化する必要もない世界。


きっと自分らは考えている以上に豊穣なものに囲まれている


仮に身体と語り合うことができるなら、人はそんなことを腹の底から思うのかもしれませんね。

May 30, 2012 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2012.05.29

感想こそ人間関係の第一歩

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売れている、というので読んでみました。


著者もタイトルもミーハーチックでちょっと買うのに抵抗がいりました(汗)


ビジネスの第一線で活躍している人の本って、昔はよく読みました。でも、最近はほとんどなくなりました。


時代の風雪に耐えていない仕事本って、どこかに著者の独りよがり(著者の個別解がさも一般解のごとく書いてる)だとか、操作性があったり(著者のサービスを売りたい、ブランドをつくりたい)だとかがあることが多い。


そんなところで何回も幻滅した経験からなのでしょう、きっと。


なので、この本もあまり期待せずに読みましたが、ここはよかったです。


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僕は自分が喋ったり、書いたり、出演したりしたものに対し、とにかく誰かに感想を言ってもらいたい。他人はどう思ったのか、やはり気になる。(略)ところが、お礼は言っても、感想を言う人はほどんといない。(略)


こういう時、人はなぜ、何も言わないのだろう?失礼だと思うからだろうか?そうではない。本人に感想を言うためには、身を挺したり、自分を切り刻んだりしなければ、ちゃんとした意見にならないからだ。


多くの人にとって、それはリスクであり、なるべく避けようとする心理が働く。面倒臭いと思うのだろう。


何も、無理に持ち上げなくてもいい。「面白かったけど、あそこはちょっと言い過ぎですよ」とたしなめてくれても構わない。そうした一言が、自己嫌悪でジリジリしている僕を、どれだけ救ってくれるかわからない。(略)


僕が感想を言う時、必ず決めていることがある。まずは褒める。どこかいい部分を必死に探して、きちんと褒める。それから、気づいたことがあれば、いくつか指摘する。


相手が感想をしっかりと伝えてくれた時、僕は「この人とは付き合えるな」とか、「大事にしよう」と思う。それがモチベーションになり、次の仕事へとつながるのだ。感想はそれを言うこと自体に大きな意味がある。(P46〜47)


感想=自己開示ですから、感想を口にするということは自分も気をつけているつもり。


「これを口にしたら嫌がるかな?」って意識があるとしたら、ほとんどが投影(単に、「自分がいわれたら嫌だ」ということ)なので、いくばくかの配慮(まずはいい点を探す、などですね)をした上できちんと口にした方がいいです。


感想。人はそれを、「仕事や付き合いに対する真剣度」と受け取るのでしょう。

May 29, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.28

自分の中の女性性が刺激された?

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男の自分の中にも「女性性」ってものが存在します。


包容する力、女性的な優しさ、慈愛の気持ち、柔らかさ、配慮・・って形で表現されるものですね。


一方で、女性の中にも「男性性」ってものが存在します。


リーダーシップ、責任感、力づよさ、父性的な優しさ、我慢づよさ・・近い人を守っていくような力ですね。


この映画、1時間半くらいまでは「つまらないなあ」と観てました。


なんだか、資生堂の「TSUBAKI」の宣伝か、『セックスアンドザシティ』の日本版リメイクを観ている感じ。


「バブル時代?」って感じの設定も違和感あるし、「いくらなんでもそんなヤツはいねえだろう」って登場人物もちょっと微妙。「いるよねえ、あんな人」ってガールズトークのネタにしかならない映画じゃねえか、と観てました。


けど、どこかで琴線が触れたとみえ、最後は泣けてきました。でも、それがなぜだかわからない不思議な映画です。


朝起きて、思いました。


この映画は「観る人の女性性を刺激する映画だ」と。


自分の琴線が触れた部分、その辺りがきっと自分の中に存在する「女性性」なんでしょう。


「女性はブルーとピンクでできている」


うーん、至極名言。


自分の中の「ブルーな部分とピンクな部分」、自分の中の「男性性と女性性」がバランスよく統合されている


きっとそんな人が性別かかわらず「ステキな人」ってやつの共通項なのかな、と。

May 28, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.25

社会人3年目の自分の相談事に何を語るか?

自分の社会人3年目は石川県金沢市で営業をしていました。


「このままこの会社でやっていこう!」という覚悟があるのかもいまいち分からず、さりとて「これをやりたい!」ってことがあるようなないような。


仕事で受注を取れば嬉しいし、決して多くはないけど給料も賞与ももらえる。


東京や福岡には仲のいい同僚もいるし、たまに営業部長の話を聞くとテンションがあがったりもする。


けど、「30歳までに自分の道を決めないと」みたいな刷り込みがあったりして、いくばくかの焦りもある。


柄にもなく税理士になろう、と勉強をはじめたけど挫折。とりあえず本を読もう、といろんな本を読んだけど、何がどう役にたっているか分からない。


気になった文章をノートに書き写してたけど、「こんなことして何になるんだろな・・」なんて思ったりもする。


いろんな可能性があるような気もするし、実は可能性を発揮するチャンスがあったのは就職活動の時じゃなかったかな、とも思ったりもする。


会社の近くに広告代理店の電通の支社(出張所?)があったが、そこに出入りする同世代の電通マンがなんとなくいい仕事をしているように思えたりする。


教職の資格があったので、免許をとる選択肢もあったが勉強するのは面倒。いまさら知識の詰め込みなんかしたくないし、いざ教壇にたっても「大学でたての自分が何を教えられるんだ?」って感覚はすでに教育実習で経験済み。


さて。


今の自分が当時の自分から相談事を受けた、と仮定してみましょう。


仮に、土曜日の夕方に池袋界隈の居酒屋(お店は勝手に想像してください 笑)でホッピーを飲みながらの設定にしましょう。


「自分は何を語るか?」って考えてみても気の利いた言葉の一つもいえない自分に気がつきます。


「頭で考えててもなるようにしかならない」だとか「頑張ってればチャンスは順番待ちじゃね」と自分の経験から口にはできる。


けど、それが社会人3年の自分に理解できるかどうかは分からない。というか、当時の自分はもっと具体的な答えを求めるでしょうね。


「これからどうしようか?」を悩む時、人間は「問いかけ」とセットで答えを探しがちです。


けど、「答え」なんかどこにもない「問いかけ」ってのは世の中にたくさん存在しています。


「自らがつくった問いかけに答えを探そうとする姿勢」


それが自分らの生き方を窮屈に、しんどく、面倒にさせているのかもしれません。結果的に自分の可能性を狭めているのかもしれません。


ってか、きっとそうです。


理解できるか?25歳の自分。

May 25, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.24

「俺ってスゴいでしょ」を考えてみる

「俺ってスゴいでしょ!」


これが過剰な人に出会うとします。


まあ、「スゴくはないです」なんて口にはできないことがほとんどでしょうから、最初は「スゴい」を真に受けるとします。


けど、この手のことは、どんどんとエスカレートしていくものです。


人間には「自分の存在を認められたい」、「人から評価されたい」って承認欲求がありますからね。


承認欲求の難しいところは、「周囲の人が満たす性質の欲求」であるところにあります。


「本人の自己評価」と、「他人の本人評価」とが一緒だったらまあいいのでしょう。


けど、人間は自己評価が高い生き物ですから(たぶん、たいがいは2〜4割増くらいじゃないのかしら?)ここが一緒であることはほとんどないのではないでしょうかね。


だから、自分の承認欲求がむくむくと頭をもたげてきた時に、やんわりと、控えめに、足袋を履いて他人様のお宅へ訪問するように「スゴいでしょ!」を表現するのがいい。


そんな「スゴいでしょ!」には案外と周囲は優しいのが人の世だと思います。


きっと、いい人間関係の根底には「お互いの承認欲求の満たし合い」の精神が無意識のうちに流れていると思いますし。


追記
自分は「俺ってスゴいでしょ!」を本人が口にするのはあまりなんとも思わないんですよね。自分にもそういう部分はあるでしょうし。この辺は保育園の園児がそのまま大きくなったのが大人の姿、ってイメージをもっていますし。


けど、第三者を操作して「あの人はスゴい」って言わせようとする人には距離をおきたいです。


この手の人には、「スゴいですね!」と笑顔で対応しながら心の中ではバイバイです。

May 24, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.23

「ネタ帳」の意味を無理くり解説すると

「ブログのタイトルにある『ネタ帳』って本当にあるんですか?」


とある方に聞かれました。


答えからいうと「ネタ帳」なるものは、今はありません。


昔は新聞記者が持つようなメモ帳を常に持っていたのですが、整理しきれないのと、書いた文字が判別できないことがある(汗)のでいつからか止めています。


実はこのブログのタイトルの「ネタ帳」っていうのはそうした「ハード」に向けられた言葉ではなく、「ソフト」を意識してつけた名前です(たぶん)。


「自分の一生涯でどれだけのネタが集められたか?」


自分はきっと、そこら辺に価値の中心を置いて生きています。


そこは、「よかったこと・悪かったこと」、「楽しかったこと・つまらなかったこと」、「スムーズにいったこと・苦労したこと」・・そんな区別のない世界です。


嫌なできごとがあっても、10年もたったら「ネタ」です。多くのことがらは、「あの時、こんなことが大変だったよなあ」って客観的に話ができるように性質が変化しています。


住宅会社に勤めていた時はしんどい毎日でした。


毎日、朝8:00から夜の12:00まで働き、月の休みは1、2日でした。ほぼ毎日が飛び込み営業でしたし、慣れない図面も書きました。


家が売れないと月給はアルバイト以下でしたし、(おそらく)人を蹴落とすのに一生懸命な先輩社員もいました。


けど、今思うとそこは「ネタ」の宝庫でした。


むろん、自分に起こるできごとの全てに「ネタ」とレッテルを貼って無反省になったり、当事者意識をなくすのはよくありません。


けど、「どうしても嫌なこと」「どうしてもしんどいこと」からのループから抜けられない時に「ネタ」という概念を導入(?)すると自分を取り巻く世界の見え方が長く、高くなったりします。


豊穣な「ネタ」の数々がその人の人間性をつくりあげていく


これは自分の信念。


このブログのタイトルを無理やり解説するとこんな思いが根底にあったりします。

May 23, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.22

太陽的なものと、月的なものと

金環日食、想像以上に素晴らしかったです。


太陽的なものと、月的なものとの融合


はたまた、交感神経的なものと、副交感神経的なものとの融合。動的なものと、静的なものとの融合。


そんなことを感じた朝でした。


「今の社会ってバランス欠いていない?」といわれているようでもありました。


それにしても、皆が太陽をながめる朝ってのはいいものですね。

May 22, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.21

見えないから見えてくるもの

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目が慣れないほどの真っ暗闇


五感の一つである視覚情報を完全に遮断されると、どうやら人間は見えないものがみえてくるようです。


部屋の空気感、水の流れる音、土の触感とその香り、足の裏で地面に立つ感覚、言葉を通して感じられる周囲の人の感情、生活音の豊かさ・・・


で、視覚情報が豊かであるがゆえに、好き嫌いの先入観ができたり、空想や想像をする余地をなくしていたり、考えなくてもいいことに頭をわずらわせるのかもしれません。


視覚障害者のサポートのもと、光を遮断したスペースでグループになって様々なシーンを体験する「ダイアログ・イン・ザ•ダーク」に参加しました。


真っ暗闇は人間にとっては恐怖の最たるものでしょう。


けど、その真っ暗闇の中で他人とコミュニケーションを取っていく事で、なんともいいようのない心地よさを感じていく。初めて出会った人なのに、すごく仲のいい人に感じられる。


そんな「心地よさ」って、本来は視覚情報が遮断されていなくても感じられるものですし、実際に感じているものなのでしょう。


けど、あまりにそれらが当たり前すぎて、「心地よさ」を感じていることすらも麻痺してしまっている。


あとは、お互いが「心地よさ」を感じていくための配慮がどうしても欠けてしまう。


「言わなくても分かる」なんて世界は「心地よい人間関係をつくる」上では、きっと幻想なのでしょう。


仲間の経営者が「休日のジムを休んでも行った方がいい!」と大絶賛していたので、本当にそうしましたが、学びのおおい体験でした。


何かに触れて、すぐ行動が変わる。


何かに触れて、すぐ考え方が変わる。


そんなことって世の中にそうそうあるものじゃないだろうけど、ここは多くの人がそんな価値を享受できる場所なのかもしれません。

May 21, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.18

自分の「種」を旅からふりかえる

「なぜ、旅にでようかと思ったんですか?」とたまに聞かれます。


たいがいは、「海外で出会ったバックパカーがかっこよかったから」と答えます。(当時は、そんな美意識だったのですね 笑)


1995年の秋、中国は上海の浦江飯店という安宿の一室。5日間休みをとり、上海から南京まで訪れた旅の最終日。


同部屋(8人くらいいました)の旅人同士の会話(たしか、パキスタンからイランに抜ける話でした)を聞いて「オレも自分の言葉で海外のことを語れたらかっこいいなあ〜」と思ったのがきっかけです。


けど、これって旅にでようと思った「瞬間」だけをブツ切りにしただけの話です。


人は、「瞬間」を語る事でできごとの原因や理由を説明しがちですが、その根底にはさまざまな「種」が存在していることが多いのではないでしょうかね?


浪人時代の1988年、予備校生の先生が「兵庫の三宮から上海まで2泊で行ける船がある」と授業で話していました。


鑑真号といって安く海外を旅できる船だ、と。「へええ、大学に受かったら乗ってみたいな」と思いました。


たぶん、この話は自分が旅にでることになった「種」です。(ちなみに、1997年の旅はこの鑑真号スタートででチベットやインドに旅立ちました)


大学時代に沢木耕太郎さんの『深夜特急』を2巻(全6巻)だけ読みました。


「香港からロンドンまで乗り合いバスを乗り継いで行く」という話で、多くのバックパッカーを旅人へと誘った名著です。


これもきっと、自分が旅に出ることになった「種」です。(今思うとこの手の本とは無縁だった大学時代に、この本を手にとった事自体が不思議です)


おそらく、これ以外にもいろんな「種」があったんでしょうね。


人間は自分が影響を受けてきた「種」には案外と無自覚なもの。


同様に、自分が周囲に与えてきた「種」にも案外と無自覚なものではないでしょうかね。


さまざまな「種」が自分の知らない所で時空を超えて存在しているなんて、ちとおもろい話だと思います。

May 18, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.17

オリエンテーションを充実させる

新しい仕事をスタートさせる時、


「何をやりたいか?」「どのようにしたいか?」「コストはどれくらいかけられるか?」といった周囲へのオリエンテーションが充実しているか否かで仕事の完成度は違ってきますね。


むろん、オリエンテーションの時点では「具体的なイメージがない」だとか「まだ意思決定ができかねているけどなんとなくやりたい」だとか「細かい部分は着手してみないとわからないのでとりあえず勧めたい」みたいなことは日常茶飯事。


新しいことをやるわけですからね。


けど、そんな気持ちや感情、想いも含めてオリエンテーションを行うことが重要なのでしょう。


で、できればその仕事の背景(「なぜ行うか?」)まで意志統一ができれば理想ですね。


と考えていくと、「無茶振りの仕事」といわれているものの多くは「オリエンテーションが不満足な仕事」と同義語かもしれませんね。


創業時からお世話になっている社長さんとの会話をしていた時、そんなことを思いましたです。

May 17, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.16

「何かの種」って考え方

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週末にデザインフェスタに足を運びました。


イラスト、雑貨、服飾、模型・・いろんなジャンルで感性豊かな商品が溢れていました。


とある一人の出展者と会話をしていたら、「○○さんの作風の影響を受けてこの作品を創作した」との話になりました。


なんと驚き、うちの会社で出版している商品でした。


本や映画やプロダクツ、誰かの言葉や言動は、触れた人にさまざまな影響を与えるときがあります。


で、その影響を受けた人が、何かしらの行動を起こしたりします。


で、その行動そのものがきっかけとなって、他の人に影響を与えたり、新たな行動が生まれたり、別の展開やステージが開けてきたりします。


で、それらが次の影響や、行動や、展開を生み出したりします。


これがどんどんと広がっていくと、それぞれの因果関係がよくわからなくなっていきます。というか、因果関係なんて考える事自体がナンセンスだったりします。


けど、根本をたどるときっとどこかにたどりつくんでしょう。


それはきっと、「種」のようなもの。


他人様がつくった「種」にインスパイアされて生きるだけではなく、自分の人生にどれだけの「種」をつくれるか?


人間が生きていく存在証明(?)ってこんなところにあるんじゃないかな、と。

May 16, 2012 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2012.05.15

安心の交換

「ご安心ください」


会社の経理の女性からのメールに、よくこの一文があるのに気がつきました。


で、自分も真似をするようにしました。


「あとは任せてください」、「なんとかしますから大丈夫です」、「あとはこちらで対応しますから問題ないです」・・・


バリエーションはさまざまですけど、意識してメールにしたり言葉にしたりするようにしてみると、「いい人間関係って『安心の交換』が根底にある」と思うようになりました。


マズローの欲求五段階説を出すまでもなく、「安心」や「安全」は人間の根本欲求です。


しかしながら、昨今は「安全」が脅かされている(ように見える)ような情報も多い。


原発だって、地震だって、食べ物だって、年金だって、社会保険(社会保険の個人&会社負担増のニュースにはさすがに驚きました)だって、「安全」かどうかがいまいちよくわからない。だから、「安心」ができない。


そんな時に、近い人との仕事の中で「安心」を感じられることは、仕事のアウトプット以上に大切なことなのでしょう。


「安心を与える」って「この件に関しては、もう頭を煩わせる事はないですよ」って意志表明ともいえますからね。


いまみたいな時代感の中では、なによりの他人への配慮なのでしょう。

May 15, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (1)

2012.05.14

想定外の素晴らしさ

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映画『ロボット』


「どうせB級の域を超えないインド映画でしょう」


そんな先入観はこっぱみじんに打ち砕かれました。


この手の、「想定外に素晴らしいもの」との出会いが映画や本、旅や芸術に触れる醍醐味なのでしょう。


1997年の夏、カトマンズ(ネパール)でインド映画をはじめて観ました。


コテコテの勧善懲悪、脈絡なく挿入されるダンス、素人感満載のカット割りと役者の表情、映画に派手に一喜一憂する観客(一緒に映画に行ったチベット人は号泣してました)がとても新鮮でした。


この映画はストーリー展開の意外さはないものの、もっとレイヤーの高い次元の話で「新鮮な映画を観たなあ」と。


制作者が「オレってこんなことできるんだよね、すごいでしょ」ではなく、「これをこうしたらおもしれーし、すげーよなあ」と楽しみながらつくっている感がしました。


あくまでも、自分の主観的な「感じ」ですけど。


仕事も遊びもこうした「感じ」で行えればいいですね。


追記
この週末にもう一本映画にいきました。


こちらは想定外に「えっ??」って映画でした。監督も出演者もかつて素晴らしい名作をつくった人だっただけにガッカリ。


期待水準が高すぎたか?


けど、いい映画は確率論ですからね。素晴らしい映画との出会いが近づいた、と考えましょう。


それにしても、ないよな。。

May 14, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.11

妖怪ストリートにいきました

出張で京都と大阪の県境まで行ったので、「妖怪ストリート」まで足を運んできました。


町おこしで地元の商店街が展開している活動のようです。

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平日の昼間だったので人通りは少なかったですけど、定期的にお祭りが行われるということです。


展示スペースに「妖怪とは辛い現実を笑い飛ばす強さから生まれた」と京極夏彦さんの一文がありました。


しんどい現実を、「しんどい!」と悶々として考えるよりも、「どーしようもないや」って笑い飛ばす方が現実の方から動いていくなんてことはよくあること。


妖怪は、しんどい現実を共同幻想として笑い飛ばす古の叡智なのでしょう。


現代に生きる自分ら、もっともっとこうした智慧を活用してもいいのかもしれないですね。

May 11, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.09

エキサイティングな本に出会いました

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「極真空手の黒帯は、一般男性の10倍の戦闘能力がある」「極真空手の本部道場では、稽古が終わると汗の水たまりができる」・・・


「史上最強の空手」って話が喧伝されていたから、自分と同世代の格闘技好きは「極真空手」って一つのブランドイメージが形成されていると思うんです。


世界各国に支部を出し、数多くの有名空手家、格闘家が輩出されましたが、1994年に創始者である大山倍達氏がなくなってから大分裂を起こします。


その真実に迫った500ページ以上もある本です。


まるで、『三国志』を読んでいるような感覚でした。


「自らの私欲のために他人に策を弄する人」「先のことを考えず目先のことだけで動く人」「嫉妬という感情から行動しているような人」「騒動の渦中にあっても軸がぶれない人」・・・


自分がその昔に憧れていた選手が実名ででるのですから、ある意味でエキサイティングですし、ある意味で子供の頃からの幻想を打破されます。


こうした騒動の渦中にあると、人間の本質がよりクリアーになるのは古今東西どこでも同じなのでしょう。


一時期の格闘技ブームは去りましたけど、格闘技の歴史を事実からアプローチしようとする本がジャンルとして確立されてきましたね。


優秀な著者や編集者であれば掘り起こせそうなテーマはまだまだ沢山あるでしょうし、昭和の格闘ファンとしては楽しみです。

May 9, 2012 | | Comments (5) | TrackBack (0)

2012.05.08

意識的にならないと体験は広がらない

タイトルは、当たり前といえば当たり前な言葉ですね。


「この人は意識的に体験を広げているなあ」と自分が心底思っている人が発した言葉だっただけに、すんごく説得力がありました。


「体験」ってのは生きていさえすれば積み重なります。一日生きれば一日分の体験が積み重なります。ぼけーっとしていても、なにかしらの体験を人間はしているわけです。


そこに、どのように「自分の意識」を混入していくかで体験の深みや広がりは変化をしていくのでしょう。


そして、「自分の意識」をどのベクトルに向けていくかで体験の受け取り方が変わってくるのでしょう。


で、結果的には体験の深み、広がり、受け取り方はその人の人生をつくっていくのでしょう。


「体験に意識的になる」


人生の半分(平均寿命の半分ちょっと)を生きてきて幾ばくかの焦り(時間が少ない)とともに、最近「まじ、意識的になろっ」と感じることです。

May 8, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.05.07

宴のあと

カレンダー通りに休みましたので、よく飲みましたし、よく動きました。


映画も観たし、本もそれなりに読みました。結婚式の二次会幹事もしたし、埼玉の実家にも足を運べました。


連休の最終日、夕方からワインを買って自宅で独り酒していました。

いろんな予定が続いて、常に誰かが近くにいって、おもしろおかしな時間を過ごす日々が続くと、1人の時間ってのがちょっとだけ物悲しくなったりします。


宴のあと、って感覚でしょうかね。過ごした時間が濃密であればあるほど、その反動は大きい。


便利なことに、この手の寂寥感を埋める手段やツールが、今の社会にはいっぱい揃っています。


けど、その手のものからたまには一定の距離を置いて、自分の寂寥感ときちんと付き合うってところに、「人間の存在感」の土台となるものがあるような気もするのです。


そんなこんなで連休はおしまいです。それぞれの場面でご一緒したみなさん、お疲れさまでした!

May 7, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)