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2012.07.31

東北にいってきました

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田沢湖畔の御座石神社 神々しい神社でした。なんとか20分ねばって携帯でこの写真をとりました。

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乳頭温泉 部屋にコンセントがないのにはまいりました。いままで入った中で一番小さい混浴でした。とにかく、お風呂を風が抜ける感じが素晴らしかった。まさに日本の秘湯ですね。

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遠野 座敷わらしがいてもおかしくない雰囲気でした。昔のお金持ちは考え方のスケールが大きかったんでしょうね。

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カッパ淵 「カッパは見ても誰にも話してはいけない」とガイドさんに注意を促されました。けど、「あそこの写真に写っているおじいさんがカッパを見た最後の人だ」とも言っていました。これって矛盾してないか?

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陸前高田 奇跡の松 海岸すぐそばで近くの建物が軒並み壊滅している中、とにかく奇跡ですね。陸前高田の震災被害の尋常さは今行っても感じられました。

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気仙沼 海沿いのガソリンスタンドの時計が2:46で止まっていました。

July 31, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.28

ネガティブな言葉が勇気をくれる

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たぶん、自分は前向きでポジティブな気質を持っています。


けど、「前向きになろう」だとか「ポジティブになろう」とか自分を鼓舞(?)するようなことはありません。


そこには、ダブルバインドが生まれますし、そもそも「ネガティブがダメだ」だと思っていない自分もいる。


光があたれば闇ができるように、ポジティブとネガティブは表裏一体ですしね。「ポジティブ=善」ってことが人の中で臨界点を迎えると、どこかに無理だとか無茶だとかが生じてくるでしょうし。


この本、ずいぶんと前に読んだのですがとてもいいです。


● 成功者の言葉しか世の中には残らないから「やればできる」が格言になる(陸上競技選手・為末大)


● 売れているのが良いもんなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ(河本ヒロト)


● ネガティブの反動でしか生きていくしかない人種もいるのよ(マツコ・でラックス)


● もともと、「自分なんてない」と思ってますから。本当に「自分」なんてあるのかな?ないんじゃなかな。(有吉弘行)


後ろ向きだとかネガティブだとかってのは、たぶん人間に勇気を与えるんですね。


それは、人間の本質がポジティブではなく、実はこっちの方にあるからなんでしょう。


安直なポジティブシンキングはたぶん人間を幸せにしません。そんなものと適度な距離を置くセンスを持ちたいです。

July 28, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.27

独立するために何をしたらいいですか?

「独立をするために何をしたらいいですか?」


こんなブログを書いているので、たまに見ず知らずの方からこの手のメールをいただきます。


たいがいは、「残念ながら自分にはよくわかりません」とお答えします。


だって、「独立」ってのは一般解では答えられないですからね。


本人のスキルやキャラクター、強みと弱み、いままでの経験や囲まれている人間関係、開業資金の有無といった個別の事情はそれぞれ違うでしょうから、ここは「個別解」でしか答えられません。


数回のメールのやりとりでそんな背景まで知るのは難しいですから、「よくわかりません」としかお答えできないんですよね。


で、そんな思いをメールすると「ありがとうございました」とツレナイ(?)メールがきたりします。


うーん、何かの答えを求めているんでしょうかね・・・。


と、偉そうなことをいいますが自分も会社をつくる前はこの手の質問を周囲にしましたし、リクルートがやっていた「独立診断」みたいなものを受けたこともあります。


でも、結局はグルグルするだけで何も分からなかったですね。


たぶん、「独立するために何をしたらいいか?」って答えは、おそらく自分の内部にしかなくて外部には存在しえないのだけは確かなようです。


「独立するために何をしたらいいか?」と考えている人は、「自分自身が世の中から問われていること」を探すといいんじゃないかしらね?


「なぜかよく依頼されること」「なぜかよく直面するタイプの課題」「なぜかよくしてくれる周囲の人間関係」・・・これらから「一体、自分は何を問われているのか?」と考えるのがいいと思いますけどね。


あえて言語化すると、成功(って言葉はキライですが)する独立ってのは、「独立するために何をしたらいいか?」ってアプローチではなく、「自分は何を問われているか?」を経営者自身が無意識でつむいでいるんだと思います。


独立する前の葛藤や不安感って自分はほとんどなかったんですよね。


ここは最近気がついた結果論なのですが、「独立するために何をしたらいいか?」ってアプローチで独立してたら不安しまくりだったと思います。

July 27, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.26

「本音を話さない」ってルールに支配されるとき

「自分は本音をオープンにしない」


ってコミュニケーションのスタイルがあります。


本音をオープンにすることで自分の自我に接近されるのが嫌なのか、それとも自分が抱えている闇のようなものが顕在化するのが嫌なのか・・


ちょっと顔を知っている程度の人間関係だったらこのコミュニケーションスタイルでもいいと思うんです。浅く、ライトな付き合いですね。


けど、一緒に仕事をしたり、何かを作り上げたりしていく人間関係の中でこれはちょっと困りますね。


なぜなら、この手の人はコミュニケーションをする相手が自分のエリアに入ってくる事を必要以上に恐れ、拒否しますからね。


「人のプライバシーに干渉しすぎる」という具合に認知のゆがみが発動しますので、「本音をオープンにする」って人と良好な人間関係がつくりづらくなります。(たいがいは、「本音をオープン」系の人が大嫌いなことが多いようですね)


更には、この手のコミュニケーションスタイルを取る人は、同じような仲間をつくろうとする傾向が強いようです。


「本音をオープンにしない連合」(?)ってやつですね。で、軽い上辺だけのコミュニケーションでなんとなくのつながりを持とうとする。


そのコミュニケーションスタイルを守っていれば、人間関係で自分が悩んだり傷ついたり、自分のエリアに入ってこられることは極力少なくなりますからね。


組織には、この手の人が増えていって「本音を話さない」ってルールになぜか支配される時があります。


で、「本音」がなきままコミュニケーションがとられます。


なので、「周囲が『あの人の本音だ』と思っていたことが、実は本音ではない」ってことがままでてきます。


さらには、「本音を話さない」って自分の感情を他の人に投影するから「社長だって部長だって課長だって本音でモノを話していないじゃないか」って解釈が勝手にはじまっていきやすい。


ここまでいったら、コミュニケーションもクソもないですね。この問題が臨界点に至る(で、組織が一時的に崩れる)までじっと待つしかないでしょう。


少なくとも、近くで働いている人間とは「本音の裏読み」をしながら仕事をするようなことはしたくないですけどね。


この間、仲間の会社でちょっとした社内の問題があったようなのですが、話から察するにたぶん問題の構造はこんなところにあるんじゃないかと。


当事者にとっては大変に頭の痛い問題ですが、長く会社をやっているとこの手のことはそうそうめづらしくないですからね。


一つのできごととして感情を入れずに処理するのが賢明か、と。臨界点に至る局面では、いろんなことが起きますし、そこでは自分の力を信じるしかないですからね。

July 26, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.25

昨日は休みをもらい江ノ島へ

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その昔、「私の身体はワインでできている」って女優がいたけど、昨日の自分は間違いなくビールでできていたな。


それにしてもよく飲んだし、よく食べた。起きたら体重が2.5キロ増えてるし(笑)


海水浴なんてしばらくご無沙汰でしたが、企画してもらってありがとね。ご一緒したみなさんお疲れさま!

July 25, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.24

立場や男らしさ、というとらわれ

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ローマ法王の死去に伴い、図らずとも新法王に選ばれてしまった主人公。


大観衆を前に演説をしないといけないが、あまりのプレッシャーにローマの街に逃亡してしまうというストーリー。


俳優の佐野史郎さんが解説にこう書いてました。


「逃げるが勝ち」という諺を聞かなくなって久しい。絶対な正義や真実のためには己を偽ってでも戦い、勇気を持って前進することが美徳だとでもいうからか?真の勇気とは何かをこの作品は教えてくれる。(映画フライヤーより)


大舞台や大きな問題を前に逃げ出したい、というのは「危険を回避する」という人間の本能です。で、この本能と抗うために人は理性で押さえ込もうとします。


「立場があるから」だとか、「男だから」だとかですね。で、大舞台や問題に直面する勇気を搾りだす。


確かに、この手の理性がうまく働く時はある。


けど、あまりにもここの理性が強すぎると、このこと自体に「とらわれ」になってしまうケースも多いんじゃないでしょうかね。


立場や、ジェンダーが自分自身を縛り付ける、って感じでしょうかね。「男らしさ」ってことを必要以上に守ろうとして経営判断を誤ったケースなんてのは、経営の本でよく見聞きしますしね。


この主人公は、大舞台を前に逃亡しました。で、ひたすら逃げました。問題を先送りしまくりました。多くの信者を不安にさせました。


「立場を分かってない」といえば確かにそう、「男らしくない」といえば確かにそう。


けど、そんな「とらわれ」を振り切って、自分の本心をさらけだすことに人間の本当の勇気って存在するんでしょうね。


この映画、大舞台や問題を前に尻込みしている時に見るといい映画かもしれませんね。ローマ法王に推挙される人ですら、かくも悩むのですからね。


ひとつ、名作「ローマの休日」のごとき淡く切ない恋物語と思って観に行くと失敗しますのでご留意を。

July 24, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.23

美しい祈り

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「ビルマ(ミャンマー)を観光しても軍事政権にお金が落ちるだけなので、観光は自粛してください」


軍事政権から軟禁状態に置かれていたアウンサンスーチーさんがこんな声明を出した1997年当時、何の問題意識もなかった自分はビルマを1ヶ月旅していました。


この年は「ミャンマー(ビルマ)観光年」。観光客の誘致に軍事政権が一生懸命だったんですね。


数年前までは、首都・ラングーン(ヤンゴン)のスーチー宅前で定期的に演説会が開かれていたようですが、当時は近くの道路が封鎖されてスーチーさんの家に近づく事は一切できませんでした。


街中でスーチーさんの話をするのも一切タブー。市役所の前には戦車が止まっているし、いたるところにミリタリーはいるし、軍事政権ってものを肌で感じました。


国民的な人気があったスーチーさんが民主化を進めてしまわないだろうか、という猜疑心が軍事政権をして十数年に渡りスーチーさん軟禁という選択肢をとらせたようですね。


この映画、この軟禁状態にあったスーチーさんと、その家族をとりまくストーリーです。「私人としての自分と、公人としての自分との葛藤」が描かれています。


政治家スーチーさんに関して、自分はよく分かりません。


その昔、スーチーさんにインタビューしたというジャーナリストと話をした時に「スーチーさんには政治的な信条がほとんどなかった」みたいな話をきいたこともあるので、もしかしたら人気優先の政治家なのかもしれません。


けど、自分はこの人が好きなんですね。キリリとした表情に女性としての強さを感じるし、さりとて慈愛の心をもっていそうな雰囲気がある。


けど、一番の要因はスーチーさんの「祈りの姿」がさまになるから。


ミャンマーは敬虔な仏教国です。お坊さんや、国民に対してスーチーさんはたびたび手を合わせて祈りをささげます。この「祈りの姿」がこれほどまでにさまになる女性、政治家は他にいませんね。


この映画、音楽と映像はよかったですが、ストーリーとしてはいまひとつ物足りなさを感じました。


しかしながら、もっともベストなタイミングで「祈りの姿」がでてきます。


「祈り」って言語不要な世界ですよね。


「祈り」が美しくみえるのは、言語ばかりが飛び交っている(=言語で何とかできると思っている)今の政治や社会に対しての対比からでしょうかね。


「アウンサンスーチーって名前は知っているけど、何をしている人かよく分からない」って人にはぜひ足を運んでいただきたい映画ですね。

July 23, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.21

自分の人生に影響を与えた10人

一人は、大学時代の二つ上の部活動の先輩です。


部に入って2週間ほどたったある日、「今日、部が終わったら付き合え」といわれ渋谷のパブに連れて行かれました。


で、「明日からこの店で働け」と。時給や待遇の話、自分の意向確認は・・確かなかった(笑)


「えええ、無茶苦茶じゃん」と思ったのですが、たぶんその手の無茶苦茶な世界観(?)が自分は好きだったんですね。無茶苦茶、が人間をつくり出すくらいのことを思っていた。


で、「明日から頑張ります!」とウィスキー(確か、バランタインファイネストでした)をロックであおり、1時間ほどで一本空けてべろんべろんに酔っぱらい、お店の前で「気合いが入ってない」とボコボコに殴られました。


そのまま、世田谷にあった先輩のお宅にいって、「教師ビンビン物語」ってテレビ番組をぶっ倒れそうになりながら見て、「田原俊彦がどれだけスゴいか」って話を朝まで聞きました。


まあ、無茶苦茶です(笑)


けど、お金の使い方について学んだのも(「学生ローン」というものを教えていただきましたね)、「運動やるのはいいが頭の中まで筋肉になるな」ということを学んだのもこの先輩の影響。


「組織の中でリーダーってどう存在するのか」っていうことを学んだのも、「言葉にできない気持ちや感情を言葉にしたい」と自分が思うようになったのもこの先輩の影響です。(とにかく、場の空気感を言葉にするセンスは素晴らしかったです)


この先輩にお会いできたことは、生涯の誇りですし、自分の一部はその先輩の創造したものといっても過言ではないかもしれませんね。


かれこれ、6〜7年くらいはお会いしていないのですが、「先輩だったらどう考えるのだろうかな?」とか「先輩だったら今の自分に何をいうのだろうかな?」と考える事がいまでもたまにあるんですね。


今年は時間をとって先輩の所にいきたいな、と思うのですが遠慮せずにズバッとしたことをいわれるんだろうなと思うと尻込みする自分もいたりして・・(笑)

July 21, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.20

年号は人間の節

「お前のブログには年号がやたらとでてくる」とある席で言われました


たとえば、この日記


確かにそうですね。


歴史が好きなのでものごとを時系列でとらえるクセがついているのかもしれないですし、どこかに普通の人とは違う性質(?)があるのかもしれません。


けど、年号(及びその時に何歳だったか?)ってのは、人と人とが時代感を共有する上で大切なファクターだと思うんですね。


たぶん、バブル崩壊後の1993年に社会人になった自分と、バブル絶頂期の1990年に社会時になった人とのメンタリティはわずか3年ですがだいぶちがいます。


同様に、景気が本格的に悪化していた1997〜98年頃に社会人になった人と、私の「社会人になった時」ってメンタリティはもっともっと違うでしょう。


入学や就職などの環境が大きく変化した時や、大きな事件が起きたときに「あの時に何歳だったのか?」ってのは、相手の背景を理解する一つの補助線であるとも思ったりします。


「人に年齢を聞いてはいけない」ってのは社会マナーですけどね。


こないだ酒を飲んだ人は、「平成のはじまりを3歳で迎えたのでまったく覚えてない」といっててちょっとした時代感ショックを感じました(笑)


ちなみに、当時の自分は19歳浪人生。早朝、高田馬場のコンビにでこのニュースを耳にしました。受験まであと1ヶ月、予備校ばかりの毎日でした。

July 20, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.19

事業は自社の強みを基礎とする

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稀少な人材を最大の機会と最大の成果に集中し、少数の適切なことを卓越性をもって行うこと(P173)


ドラッカー博士はこういっています。


「卓越性」とは「強み」のこと。この「強み」を基礎として事業を運営することが大切、とはドラッカー博士がよく口にされているキーワードです。


「営業が強い」「デザイン能力が高い」「大手会社とパイプがある」「キャッシュが豊富にある」「伝統がある」「ブランド力がある」「外注をマネジメントする力がある」「財務が強い」・・・


これらの「強み」を理解し、これらの「強み」を基礎として事業を展開するのが大事ということですね。


けど、案外とわからないのが「自社の強み」だったりします。


「自社の強み」だと思っていることが、お客さんからみたら「強みでもなんでもないよ」「単なる自己満足じゃん」ということはよくあります。


「かつては強みだったけど、経営環境が変わって強みでもなんでもなくなった」ということもよくあります。


逆に、「どう考えてもここがこの会社の強みなんだけど、当の本人がまったく無自覚」ということもあります。


誰も「これがあなたの会社の強みです」といってくれないですからね。


ドラッカー博士の本は読むたびに、定期的に「自社の強み」を考えることの必要性を考えさせられます。


商品やサービスがコモデティ化して、企業が「自社の強み」を打ち出しにくくなっているという経営環境はたしかにあります。


経営者の夢や思いが優先になりすぎると、時には「自社の弱み」を基礎として事業を組み立ててしまうこともあったりします。


「自社の強み」を基礎におくよりも、「自社の弱み」を改善したくなったりもします。その方が効果的な事業活動が展開できるような気がしたりもします。


こうした状況、感情を乗り越えて「自社の強み」を考えられるからこそ、経営者ってのは「事業をする人」として他人から承認される存在たりえるのだと思いますけどね。

July 19, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.18

facebookやらないんですか?

「facebookやってるの?」


と、よくいわれるようになりました。


今朝も、お世話になっている社長さんがfacebookのサイトを業者に頼んでつくってもらったのを見せてもらいました。


で、そこには仲間(って呼び方でいいんでしたっけ?フレンド??)ということで自分も知っているお知り合いがいっぱいいました。


「ひょええー、あの人もこの人もやってるの!」


なんでしょう、この感覚。


周囲に取り残されていくような、仲間に加われないような、時代に置いていかれていくような・・・仲が良い、と思っていた友達の誕生日会に呼ばれないような感じ(笑)?


けど、自分は決めているんです。流行っているモノには安易にとびつかない、と。


本だって、映画だって、趣味だって、SNSだって・・流行ってるものは自分自身のコモデティ化の温床になります。まずはここから距離を置きたい。ここから自分の個性をつくっていきたいんです。


たかだかfacebok、されどfacebookです。


でも一方で、この考え方に固着するつもりはないです。


いつかそのうち、facebookが仕事の主流になってくるかもしれません。facebookなくては仕事や人間関係が何も進まない時代になってくるかもしれません。(逆をいえば、今はまだまだそんな時代ではないと自分は思っています)


そんな時代がやってきたら前言を撤回し、すぐさまfacebookをやって、周囲には「facebokやってないの?」くらいのことを口にしていると思いますけどね(笑)


常に、こうした思考の自由度だけは持っていたいですね。


ということで、何度も誘ってくれた君、すまんのう(笑)

July 18, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.17

祖父が残してくれたもの

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母方の祖父は1994年に88歳で亡くなりました。


一代で会社を築き、一代でつぶしたと聞きました。


自分が物心ついたときは好々爺でしたが、その昔は仕事も遊びもかなりはちゃめちゃだったと聞きました。


自分が、2001年に創業した場所は東京の五反田でした。


自分にとっては縁もゆかりもない場所でしたが、大学時代の先輩が経営していた会社の事務所を又借りしてたまたまこの地でスタートしました。


しばらくして、自分が創業した場所と、祖父が会社をやっていた場所とが、わずか数分しか離れていなかったということを母親から聞かされました。


それにしても偶然にしてはできすぎてるよな・・・。


今思います。


たぶん、「祖父がやり残したこと」や「祖父の無念」は時空を超えて今の自分に受け継がれています。


で、おそらくなんですがその受け継がれたものをベースに自分は仕事や人生を送っています。


昨日はお墓参りにいってから、池袋にセールに行って、うなぎを食べました。


「先祖の満たされなかった思い」と対話するのも、たまにはいいものですね。今週もきばっていきましょう!

July 17, 2012 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2012.07.16

死んだ自分は、来世をどう選ぶのだろう?

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もし仮に、人に生まれ変わりがあるのだとしたら。


前世での記憶を消して生まれ変わりますか?それとも、前世での記憶をそのままにして生まれ変わりますか?


そんなテーマをつきつけてくれます。


前世での記憶をそのままに生まれ変わるのなら、死別した家族や仲間に物理的に会う事は可能です。けど、向こうは生まれ変わった自分の存在を理解できないわけで・・・


ここで生まれるジレンマは相当のものでしょう。果たしてそれが、幸せかどうかはわかりませんね。


まあ、大いなる存在はそこまでの選択を人間には求めていないとは思いますが。


ユートピアでも、幻想的でもない死後の世界をこの作品は提示してくれていますけど、これって自分の死生観(と書くと大げさですが・・)に近いです。


たぶん、人間って「死んだかどうかよく分からない」って感じで来世までの時間を過ごすんじゃないかしら?根拠も、確証も、実体験もない上での感覚ですけどね。


この映画、誤解を恐れずにいえば「死が怖くなくなる映画」ですね。


人間は「死(及び、それに類するもの)への恐怖」から衝動的にいろんな行動を起こす生き物ですが、こうした「死への恐怖が薄らぐもの」に接する事は悪くないと思いますよ。


逆説的に言えば、それが「死への恐怖という衝動」から自分を解放し、今の人生を光り輝かすことになるのでしょうし。


死後の世界にごくごく普通に居酒屋やバーがあって、スポーツクラブがあって、仲間がいて、旅行に行ける、などと考えるのはぜーんぜんロジカルじゃないことは百も承知。


けど、考えても分からないことはこう考えた方がよくね?って自分は思うんですよね。


死後を舞台設定にした映画ですが、悲しくての涙はほぼゼロの映画です。笑いと、感動と、父と娘の葛藤と開放、仲間との「再会」と・・・とにもかくにも素晴らしい映画です。

July 16, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.15

待ちに待った映画の公開でした

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「映像がキレイ!」と付き合って間もないカップルが二人でいくと確実に気まずい雰囲気になる映画です(笑)


欲望の赴くままに生きている人、って周囲から嫌われがちですよね。


けど、これって我々の中に「欲望の赴くままに生きたい自分」ってのがきっといるからなんですよね。


理性で抑圧された部分がチクチクと刺激されるから嫌われるんですよね、たぶん。


沢尻エリカ的なもの(?)って強い、弱いは別にして人間は誰でも持っているんでしょう。


「自分の女優人生をつかって、そんな人間の本質を表現した」と見るか、「やぶれかぶれになった」と見るかは人それぞれでしょうがね。


自分は何かしらのテーマ性を感じましたよ。言語化できないですけどね。公開日に見た価値はありました。


けど、万人に薦める気にもなれないな。沢尻エリカの七変化を見ているだけでいいや、って覚悟(?)がある人にはぜひオススメです。

July 15, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.13

社長って社員の生活を守らないといけない?

「社員の生活を守らないといけないから社長って大変でしょう」


今の仕事をしていると、何気ない会話の中でこういわれることがあります。


この、「守らないといけないから」って言葉には「負担として重荷になるもの」ってイメージがどこかにありません?


ってか、そんな文脈で語られることが多いです。


けど、違和感があるんですよ、なんかこの言葉にね。


「独立している一個人を誰か(会社や経営者)が守る」ってどこかおせっかい意識が強いような気がするし、「社員の生活を守っている」なんて仮に社長が思っていても辞めていく人は辞めていく。


そもそも「『何かを守ること』を目標にする」ってのも本末転倒のような気がする。会社の目的って「社会やクライアントに何かを提供すること」じゃないかな、と。


「会社の売上をあげるのは社員」


これは、営業担当がどうこうという話ではなく、会社存続のための売上をあげていくのは一人一人の社員です。まずはここを押さえたいです。


これがないと、人件費ってものに対する見方がぶれてくる。人件費は「管理すべきコスト」になっていったり、「経営の重荷」としてとらえられたりする。


結果、社員を「守らないといけない存在」みたいな意識でみたりするようになる。


本来、「売上をあげていく存在」の社員が「守らないといけない存在」になっていくのですからおかしな話です。


「社員が売上を上げていく存在」と思えないのは、「仕事と給料があっていない」だとか、「仕事に対して手がけている人数が多すぎる」だとかいう具合に何かアンバランスが生じているからなのでしょう。


当然、この辺のアンバランスを調整するのは経営の大事なところ。特に、経営環境が大きく変化した今みたいな時代には、当然手を加えるべき部分です。


けど、ひとたびアンバランス感を調整したのであれば、「社員が売上をつくる」ということに全幅の信頼を置きたいところです。


「人に全幅の信頼を置く」ということはなかなか大変なことですけが、社長にそんな意識がないと逆に信頼は置かれないのでしょう。


この辺の相互の信頼感が、組織に所属する安心感みたいなものにつながるんでしょうね。


この「安心感」さえつくれれば、「生活を守る云々」はどうでもいいことなんですよ、きっと。一人一人はそこまで子供じゃないんだしさ。

July 13, 2012 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2012.07.12

「未来の俺」との対話

「うーん、なんともいえないけど止めておこう」だとか「とりあえず、やってみよう!」だとか、直感みたいなものが降りてくる瞬間があります。


これってどこからくると思います?


基本的に自分は、「頭で考えたことが雨雲のように天にのぼり。あるタイミングで一気に降ってくる」と考えています。


だから、直感を得るためには頭で考えないといけない、論理を極めないといけないと。熟考と論理の先にあるもの、それが直感だと。


その後、「守護霊(のようなもの)がガイドしている」と考えたこともありました。


神様か祖先か分かりませんが、自分をとりまく大いなる存在が自分を導いてもらっている、という感覚ですね。大いなる存在の声に耳を傾けること、それが直感だと。


この2つの感覚に最近はもうひとつ追加されました。


「もしかして、未来の自分がいまの自分に何かを伝えようとしてるんじゃないか?」と。


人間、「あのとき、ああしていればよかったなあ」なんてことはいくらでもありますね。で、たぶんそうした思いは時間と空間を超えてどこかにつながっています。


例えば、30年後の自分が感じる「あのとき、ああしていればよかったなあ」なんて後悔の思い。これらが、時間と空間を超えて今の自分につながろうとしている、と考えるのはナンセンスかしら?


問題や困難に直面した時、自分らはどうしても一人で抱え込みがりになります。


特に男性は自分も含めて相談事が苦手ですしね。


そんな時は「未来の俺、何か教えてくれ!」と頭に思い浮かべて酒でも飲んで寝ればいいと思います。


自分以上に自分の人生に責任を持つ人はいないのですから、それなりの態度で「未来の俺」は接してくれると思います。ってか、「未来の俺」なのですからそれなりの態度では困るわけです(笑)


「未来の俺」とコミュニケートすることは、「自分は一人である」って孤独感にさいなまれることからの解放にもつながります。


この手の話はダメなひとはまったくダメでしょうが、「自分はこんな考え方をするようになってからちょっと思考の枠が広がりました」とお伝えしたく。

July 12, 2012 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2012.07.11

あの時ってこんな気持ちだったかなあ

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人間は、忘れる生き物です。


物忘れしますし、恩だって義理だって感謝だって忘れてしまいやすい。


喜怒哀楽の感情だって時間の経過とともに形を変えて解釈しだすし、都合の悪いことは無意識に押し込めようとさえする。さもなければ、忘却の彼方においやる。


けど、思い出す生き物でもあります。


本を読んだり、映画を観て何かを思い出す。頑張っている人、素直な人の姿に何かを思い出す。仲間のアドバイスに何かを思い出す。ある日、ふと気がついて何かを思い出す。


「忘れる」と「思い出す」と、このふたつの中でふらふらしているのが人間です。


昨日は、友人カップルが結婚し披露宴に参加しました。


陳腐な表現ですみませんが、いい披露宴でした。最後はクルーズで締めるなんておしゃれですね。


それにしても参加者にとっての結婚式って究極の「思い出す」ためのイベントですね。


「自分が結婚した時ってこんな気持ちだったかなあ」だとか


「親や兄弟は元気かなあ」だとか


「自分の結婚式では○○さんには世話になったなあ、最近ご無沙汰してるなあ」だとか


「人間は関係性の中で生きているんだなあ」だとか・・・


「歳取ると結婚式で涙してしまう」なんて話をよく聞きますが、きっと「思い出す」ことが量、質ともに増えるからなんでしょう。


そう、昨日の結婚式が素晴らしかったのは、新郎と新婦、そして二人をとりまく関係性に「何かを思い出す」ってシーンが多かったからだと思いますよ。


少なくとも自分はそうでした。


末長らくお幸せに!ってか、今日くらいはコメント残しなさい(笑)

July 11, 2012 | | Comments (7) | TrackBack (0)

2012.07.10

「無邪気な自分」はどこにいる?

人間誰しも、「無邪気な自分」(フリーチャイルド)ってのが自分の中にいます。


けど、社会規範や一般常識、「社長たるものこうあらねばならない」って思い込みなどが、フリーチャイルドをどんどんと押し込んでいく。


で、気がつくと「無邪気な自分」の存在そのものがイメージすらできなくなっていく。どうあがいても、無邪気にふるまえない自分がいたりする。


皆がみなそうじゃないでしょうが、戦後の日本社会の構造そのものが「一個人の無邪気さの排除による経済国家の樹立」にあったと思うので影響を受けている人は多いか、と。


無邪気さを押さえることで、未来永劫うまくいくならいいんでしょう。


けど、人間っていつの段階から「無邪気な自分」を必死になって取り戻さないと幸せになれなような気がするんですね、たぶん。


「男は愛嬌、女は度胸が大事」って23歳の時にお取引先の部長さんに聞いたことがあります。


「ん?逆じゃない?」と思ったのですが、今はこの言葉の意味がよくわかります。


愛嬌=無邪気、なんでしょう。おそらく、この部長は「愛嬌がある男の人生は開けていく」といいたかったんだと思います。


今日、長らく縁があった無邪気で、愛嬌のある人間が新天地に飛び出します。


ここ数年で自分の中の無邪気さをいくぶんでも取り戻せたとしたら、一部は彼の功績です。


「無邪気な自分」は他人の無邪気さに触れることによってしか取り戻せないと思うんでね。


新天地でも自分らしく! 


追記 今日は結婚式。参加されるみなさん、盛り上がっていきましょう!

July 10, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.09

思いが伝わる瞬間

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「あっ、この人にこの思いが伝わっていたんだな」


って瞬間ってありますよね。


人間ってたいがいはストレートに自分の感情を表現できない生きもの。


だから、あいまいに気持ちを伝えたり、「いつかわかってくれる」と自分を慰めてみたり、本心とは逆の態度や言動をとってみたり、感情をストレートにではなく誇張して表現してみたり、「いい加減に分かれよ」と態度で伝えてみたり・・・


それでも、伝わる時は伝わる。


けど、伝わっていても相手側がその感情を表現できなかったり、伝えるチャンスがなかったり、そもそも伝えることの大事さを相手側が感じていなかったり・・・


男女間の恋愛に限らず、こうしたすれ違いっていたるところで発生しているんでしょうね。


さて、書けば書くほど、本心とはかけ離れていく感じがするので短くまとめます。


君はサイコーです!


あの場面で、あんなことができる人間性。一人の人間としてうらやましく感じました。


想像もしてなかった、サイコーの幕引きでした。


昨日で寂しい、残念だって思いも一区切り。


というか、見事に君の力量と全人格が一つの区切りをつかせてくれました。


いままでほんとにありがとう。


July 9, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.07.07

イタリアのお取引先と会食

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イタリアのお取引先が来日されましたので、食事にいきました。


このお取引先、世界を回りながら仕事をしているようで日本に来る前はブラジルにいたそうです。


そういえば、自分も彼とあったのはアメリカだったり、ドイツだったりと海外ばかり。


何をたべにいこうかすんごい迷いました。自宅にワインセラーを持っているほどの方ですし、ニューヨークで招待してもらったイタリア料理も素晴らしかったので。


で、考えたあげくに銀座のおばんざい屋に。


日本のソウルフードの素晴らしさが届いてたらいいですね。そう、イタリアになんとしてでもいこうと思いました。


July 7, 2012 | | Comments (2) | TrackBack (0)

2012.07.06

ソニー創業物語に人間の関係性を考える

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ソニー設立をテーマにした舞台です。


驚いたのが、ベルリン発の舞台なんですね。だから、ソニー発足の父、盛田&井深さんを外国人が演じ、セリフは英語です。


ソニー設立当初の有名な話。


ソニーがアメリカ進出を目指した。ある、大手会社からトランジスタラジオの発注が10万台入った。しかしながら、条件がひとつ。ソニーブランドで販売するのではなく、発注元のブランド名で販売すること・・・これをソニーは断固として拒否し、契約は破算になった。


この手の、ソニー設立時のエピソードが随所に盛り込まれています。


「人は関係性の中でつくられる」-この舞台の感想。


自分らはさまざまな関係性を他者ともちます。で、その関係性そのものが自分をどこかへ導きます。それは、盛田さんが井深さんに、井深さんが盛田さんに影響を及ぼしたように。


自分は主体的な意志を持っている、と人は頭では思っています。


けど、その「主体的な意志」だっておそらくは他者との関係性の中から生まれた可能性が大きい。


この認識に立つと、おそらく他の人への「お陰さま」の意識が生まれる。自分の主体的な意志をつくるのは関係性の中でのそれぞれの相互協力のもとだから。


逆に言うと、他者との関係性の中で「お陰さま」がないのは、関係性に対して信頼を置いていないから。そして、たぶん自己が強すぎるから。


けど、たかが一人の人間の自己なんてそんなにすごいものか??


関係性に対しての信頼が薄いと人は不安になる。だから、自己を強くしようとする。その結果、関係性に対しての信頼がさらに薄くなる。なので、さらに自己を強くしようとする。


周囲との関係性が薄くなった中で自己を強くしても限界があると思うだけどね。


ソニーにかかわらず、世界的な大企業となった企業には「関係性」を抜きに語れないケースがいっぱいあります。


松下電器の松下幸之助&高橋荒太郎、本田技研の本田宗一郎&藤沢武夫・・・


それぞれ、関係性に対しての信頼が困難な仕事に対するエネルギーを与えたのだと思いますよ。


最近、いくつかの「別れ」の中でエネルギーがだいぶ消耗しました。けど、自分には信頼が置ける関係性があるのでいつしかリカバリーできるかと。


ご心配かけてすみません。

July 6, 2012 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2012.07.02

「別れ」と「復活」の狭間で考えたこと

「さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うための遠い約束」


そんな歌詞ではじまる歌があります。


けど、本当にシビアな別れに直面した時、人はこの歌詞を心から口ずさめるのでしょうか?


自分はどちらかというと無理な人間です。


別れの根底にある悲しみや辛さ、それを直面しないように頭を働かせようとする人間の叡智がこの歌詞にはすごく現れているような気がします。


けど、別れで感じる感覚の主体は、頭ではなくて身体です。頭でどう理屈をつけようとしたって、身体がさまざまなことを感じています。


ポジティブに考えようとすればするほど、身体が拒否しようとします。「自分に起こる全てのことは正しい」なんて言葉がそらぞらしく聞こえてきたりします。


「夢の居た場所に 未練残しても 心寒いだけさ」なんて歌われても、夢の居た場所をなつかしみますし、「ああしとけばよかったかなあ」と未練がたらたらと残ります。


でも、それが人間の本質じゃないでしょうかね。


6年ほど前、自分の中では大きな別れがありました。


しばらくは「夢の居た場所」に近寄れずにいました。


その場所に足を運ぶことは、当たり前が当たり前ではなかった現実を直面することになります。相手の存在感が自分の中でどれだけ大きかったかを、相手の存在がいない中で自覚することになります。


感情がさまざまに振られすぎて、それらの現実に直面するだけのエネルギーが枯渇していました。(同時期に、うちの猫も亡くなりましたしね)


時の経過、時の流れだけに身を任せる


自分は同じようなことに直面した時に、こう考えて生きてきました。


時間が経過すれば、「できごと」自体が形を変化させてきます。で、「できごと」に対しての自分の感情もちょっとだけ客観的になったりしてきますしね。


でも、そんな生き方が同じ状況にある仲間にとってのベストであるかどうか分かりません。というか、自分にとってベストかどうかさえ分かりません。


週末、「別れ」と「復活」とがありました。


まったく状況が異なる2つのケースですが、人間って「別れ」や「一時的な離別」ってできごとがないと「当たり前」を実感できない生き物なんだな、と思いました。


もしかすると、「別れ」で感じる寂しさの中には、当たり前を当たり前のこととして無自覚だった自分に対するちょっとだけ自罰的な感情が根底にあるんじゃないかな。


ってか、ありますね。


「復活」の人の存在に、どれだけ自分が救われているかを実感しました。頭では認めたくはないけど、身体は正直だ(笑)


「別れ」の人、今日から新天地で頑張れよ!

July 2, 2012 | | Comments (0) | TrackBack (0)