« 【長文】転勤は喪失を獲得するチャンス | Main | ソニー創業物語に人間の関係性を考える »

2012.07.02

「別れ」と「復活」の狭間で考えたこと

「さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うための遠い約束」


そんな歌詞ではじまる歌があります。


けど、本当にシビアな別れに直面した時、人はこの歌詞を心から口ずさめるのでしょうか?


自分はどちらかというと無理な人間です。


別れの根底にある悲しみや辛さ、それを直面しないように頭を働かせようとする人間の叡智がこの歌詞にはすごく現れているような気がします。


けど、別れで感じる感覚の主体は、頭ではなくて身体です。頭でどう理屈をつけようとしたって、身体がさまざまなことを感じています。


ポジティブに考えようとすればするほど、身体が拒否しようとします。「自分に起こる全てのことは正しい」なんて言葉がそらぞらしく聞こえてきたりします。


「夢の居た場所に 未練残しても 心寒いだけさ」なんて歌われても、夢の居た場所をなつかしみますし、「ああしとけばよかったかなあ」と未練がたらたらと残ります。


でも、それが人間の本質じゃないでしょうかね。


6年ほど前、自分の中では大きな別れがありました。


しばらくは「夢の居た場所」に近寄れずにいました。


その場所に足を運ぶことは、当たり前が当たり前ではなかった現実を直面することになります。相手の存在感が自分の中でどれだけ大きかったかを、相手の存在がいない中で自覚することになります。


感情がさまざまに振られすぎて、それらの現実に直面するだけのエネルギーが枯渇していました。(同時期に、うちの猫も亡くなりましたしね)


時の経過、時の流れだけに身を任せる


自分は同じようなことに直面した時に、こう考えて生きてきました。


時間が経過すれば、「できごと」自体が形を変化させてきます。で、「できごと」に対しての自分の感情もちょっとだけ客観的になったりしてきますしね。


でも、そんな生き方が同じ状況にある仲間にとってのベストであるかどうか分かりません。というか、自分にとってベストかどうかさえ分かりません。


週末、「別れ」と「復活」とがありました。


まったく状況が異なる2つのケースですが、人間って「別れ」や「一時的な離別」ってできごとがないと「当たり前」を実感できない生き物なんだな、と思いました。


もしかすると、「別れ」で感じる寂しさの中には、当たり前を当たり前のこととして無自覚だった自分に対するちょっとだけ自罰的な感情が根底にあるんじゃないかな。


ってか、ありますね。


「復活」の人の存在に、どれだけ自分が救われているかを実感しました。頭では認めたくはないけど、身体は正直だ(笑)


「別れ」の人、今日から新天地で頑張れよ!

July 2, 2012 |

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 「別れ」と「復活」の狭間で考えたこと:

Comments

Post a comment