« May 2013 | Main | July 2013 »

2013.06.28

自分の因子が引きつけられる

1

『めくれば始まる世界一周』栗原良平・栗原純子著 リベラル社


「旅にでて何がよかったか?好きになった女性に旅をした国のことを語れることだ」


若い頃、バックパッカーとして世界を旅した作家・沢木耕太郎さん(旅にでた当時はルポライター)がこの手のことを語っていました。


で、そんな沢木さんの書いた旅行記(『深夜特急』)に影響され多くの若者が人生を踏み外す(?)ことになるわけです。


沢木さんは「旅にでるなら26歳がいい」といってもいました。


確か、「これより若いと現実を受け止められない、これ以上歳をとるとリスクが生まれる」なんてことを書きながら、最後の最後では「自分が26歳で旅に出たからだ」なーんてオチでした。


けど、26歳だった自分はこの言葉を聞いて「沢木さんみたいに自分の言葉で旅を語れたらカッコいいなぁ〜」などと思ったわけです。


そこは体験が至上の世界。


どこの誰が何をいおうが、体験したもののみが語れる世界だ、などと思ったわけです。


会社を辞めた時に「会社を辞めて旅に出る?そんなの甘いよ」とある方からいわれましたが、「人生が甘いかどうか自分の人生を使って体験したい」などと反論していたわけです。


今考えると、クセのあるイヤな男ですね(笑)でも、真剣だったわけです。


さて、うちの社員の友達が上梓された旅関係の本を贈本いただきました。


一読して、「自分の中の旅因子を見つけられる本」だと思いました。


人間ってのは「因子」ってのが体内に存在していると思うのです。それは人それぞれに違っていて、おぎゃーと生まれた時から身体のどこかに存在していると思うのです。


で、本を読んだり、人の話を聞いたり、何かしらの体験をしたり・・・


こういう外的要因が「因子」と結びついた時に、「おっ、俺ってこういう人間だったんだ!」という気づきが生まれる。そこから、自分の道が形成されていくものだと思うのです。


それは偶然であり、必然であるような世界観。


自分は、沢木耕太郎さんの本をたまたま手にした、そしてその本に影響されて旅に出た


と思っていました。


けど、今思うと沢木耕太郎さんの本に自分の「因子」がひっぱられていったんじゃないか、などと感じるわけです。(むろん、旅に出たのはこの本以外にもいろんな要因がありますけどね)


かつて、ミャンマーのパガン遺跡を訪れた時に、「(自分の意志で)こんな素晴らしい場所にやってきた」と思っていました。


それだって、今思うとパガン遺跡に自分の「因子」がひっぱられていっただけだったんです。


因子が何かにひっぱられる感覚


強いて言うのなら、自分が旅をして感じた感覚の一つですね。


出版社は不況といわれながら、相変わらずの出版点数を出しています。


それは、「出版点数を増やす=一時的な売上があがる」という構造的な問題が内在しています。


まあ、それはそれでいいのですが、問題は「人の因子を引きつけるような本」が出版洪水の中に埋もれてしまうことです。


この本はそんな時代感の中で「旅因子」を引きつける本です。若い人は取扱い注意ですね(笑)


追記
この本の中でボリビアのウユニ湖&ティティカカ湖に惹かれました。自分のイメージでボリビアはゴルゴ13の世界ですね。

2

ゴルゴも読み方によってはテロリストの物語ではなく、人間の旅因子をチクチクと刺激する本なんですよ(笑)

June 28, 2013 in 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.27

チャレンジは誰か実現してくれる人を待っている

Ari_inokijpg

今日のブログは、格闘技に興味ない人はスルーしてください(と、はじめにおことわり 笑)


昨日、6月26日はアントニオ猪木VSモハメッドアリが日本武道館で戦って37年目の記念日です。(30回目の記念日にもブログ書いてますね 笑)


37年も前にプロボクシングの世界王者(それも、ボクシング史上最も偉大なチャンプの1人とされるアリ)をプロレスのリングにあげる発想の偉大さ。


で、驚くことに当時の猪木さんは経営者(新日本プロレスのは1972年に猪木さんにより設立されました)としては創業たかだか4年目の33歳。


テレビ局のバックアップがあったにせよ、17億円(!)なんてファイトマネーを払ってアリを招聘するのですから、もう博打なんてもんじゃないわけです。


日本武道館は超満員でも16.500人収容(でも、実際にそこまではどう考えても入らない。いわゆる主催者発表ですね)しかないですから、「リングサイドが30万」(いまの物価だったら100万くらいするのかな?)なんてむちゃくちゃなイベントだったわけです。


で、「大試合に凡戦をやらかす」という猪木さんらしく(笑)一部格闘技マニアは絶賛した試合だったのですが、世間の反応はよくなく、翌日の一般紙にまで「世紀の凡戦」だとか「リングサイドガラガラ」だとかいって叩かれたわけです。


こないだのブログで「仕事に(人が)選ばれる」と書きましたが、たぶん「チャレンジ」も人を選ぶんです。


いつかどこかで誰かの手によって実現される


チャレンジってものに人格(?)があれば、それをどこかでじっと待っているわけです。


って、考えると世の中には「達成されるのを待っている仕事」や「実現されるのを待っているチャレンジ」がそこかしこにあるような気がします。


ここは、「やることをやってお声がかかるのを待つ」みたいな世界感だと思います。


「猪木さんはそれはそれは偉大なレスラーだった」といっても信用してくれない人が年々増えていくのが寂しいのですが(苦笑)この手の情報発信はライフワーク(?)としてやっていくつもりです(笑)

June 27, 2013 in 格闘技について | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.06.26

伊勢にいきました

1

伊勢神宮にいきました。3年ぶりです。


今回、はじめて倭姫命(やまとひめのみこと)をお祀りする倭姫宮に参拝にいきました。


天照大神の御杖代として伊勢神宮内宮を創建したとされる神様ですね。


雨上がりの参道の神々しさと、木々の間からこぼれる光の美しさ。


社殿の控えめでいながらも力強いたたづまいは、外宮や内宮とは違った趣きがありましたね。


この凛とした感覚はこないだ訪れた出雲の神魂神社にも通じるものだな、と。


じっと待つことの強さ


というものを自分は感じましたね。いまみたいな性急な時代感を伊勢の神々はどのように見ているのだろう、と。


自分は、日本史学科を卒業したのですが、恥ずかしながら倭姫命=卑弥呼説があることを知りませんでした。


うん、ロマンのある話ですね。


大学時代、なんで近現代史なんか専攻したんだろ。いまそんなこと後悔してもしょうがないけど(笑)


各地を訪れるとちょっとだけそんな思いにかられます。

June 26, 2013 in 訪れた場所のこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.19

次の渡航計画が決まりません

定期的に海外に行かないと、身体の中に澱のようなものがたまっていくようです(笑)


家も、車も、装飾品も別に欲しくはないのですが、「海外にいく」という体験だけは生涯をかけて集めていきたい。


テレビを見た時に、「ああ、あそこじゃん!」ってのが一つでも増えると「面白い人生だなあ〜」とか思うのです。


食べたことないようものを食べて、知り合ったことないような人とであって、メディアで流布されている情報とのギャップを肌で感じて、自分の小ささに気がついて、あとはちょっと酒飲み話のネタにあるような体験があったりする・・・


これは、自分の価値観ですから押しつけも、共感を求めもしませんけどね。


ん・・・?でも、思います。


「若者よ、借金してでも海外にいけよ」とね(笑)


そんなこんなで、次の渡航計画を考えてます。


ブータン、マレーシア、トルコ、ウズベキスタン、シリア、イタリア、ミャンマー・・・いろいろとネタにあがるのですが、天気の問題だったり、政情の問題だったり、ご飯がまずいのは嫌だなとかあったりでなかなか決まらず・・・


どこにいこうかな状態です。


長い旅をしている人の利点は、「とりあえずどこかにいってから先は考えればいいや」って旅をできること。


自分はかつて三ノ宮から上海まで船にのって旅にでたのですが、上海でぼけっとしながら行き先を考えました。


たまたま、天津飯が食べたかったので天津に向かいましたけどね(けど、天津には天津飯がなかったです 笑)。で、ながれで北京にいって、モンゴル、シルクロードの方までいくことになったのです。


日々のなりゆきが自然と道を形つくる


思えば、これって旅だって仕事だって同じだな、と。


それと反して、今の自分のように期間限定で旅に出る人間は「失敗できないな」って思いがどうしても強く働くから、選択肢が保守的になっちゃうのだよね。


「今回、旅したところは最悪だったな」ってのも、それはそれでおもろいネタになるのは分かってはいるのだけど(笑)

June 19, 2013 in 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.14

国境を陸路で超えるということ

かつて、香港からイギリスまでヒッチハイクでいった芸能人がいました。


目的は完遂したのですが、ミャンマーとタイの間を飛行機をつかったことが後でバレて後で謝罪をしたように記憶してるんです。


けど、「タイとミャンマーとが陸路が開かれていない」なんてのは旅をしている人であれば当時は常識だったのです。(近隣では、タイとカンボジアの国境も陸路は無理でした)


ミャンマーとタイが陸路で行けるなら俺だって行きてえよ」と思った旅人は当時それなりにいたと思われますから、批判も強かったのでしょうかね。


「国境を陸路で越える」


他の人はどうだか分かりませんが、自分はここにちとセンチメンタリズムを感じる1人です。


沢木耕太郎さんも書いていたと思うのですが、自分はインドとネパールの国境が印象深いですね。


「インドは旅するのに大変」といわれてましたから、ネパールに向かう旅行者にはどことなく安堵感がある。一仕事終えた感、ってのがあるわけです。


逆に、ネパールからインドに向かう旅行者にはどこかしら緊張感がある。はじめてインドに向かう、というのはちょっとだけエネルギーが必要でしたからね。


その両者がすれ違う感じがなんともいえなくよかったですね。


これは、電車は飛行機では味わえないもの。


陸路での国境越えは長旅に出た人に対する最大のねぎらい


インドでそんなことを思ったものです。いま思えばちゃんちゃらおかしい話でもあるのですが(笑)


どこで見たのか忘れましたが、いまはミャンマーからタイを経由して、ヴェトナムまでいけるらしいですね。


ミャンマーとタイの国境は心動かされている今日このごろ。まだ、自分のどこかに旅の因子が存在しているようです。

June 14, 2013 in 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.13

仮想空間に存在している更新がとまったブログから考える

その昔、ある仕事を外部の編集者にお願いしたことがあります。


そこそこ大きな仕事だったのですが、期待したほどの成果ではなかったんですね。


でも、当時の自分はそんなことを当の本人に伝えるわけでもなく、粛々とギャラを払い•••それ以降、なんとなーくご縁が切れてしまいましたね。


以降、何の接点もありません。


せっかく一つの仕事をやったのに、すんごく仲良くなるでもなく、すごく衝突するわけでもなく、なんとなく自然消滅ってのはなんともいけませんね。


「敵も味方もできない仕事ってのは、本人に熱意が欠けている時に発生しやすい」


とこのときに思いました。今思えば、自分の側に「なんとなく適当にやってくださいよ」って意識がありましたしね。


まあ、そんな過去の話はどうでもよくて。


こないだ、机を片付けていたらその人の名刺がでてきたんです。で、HP(ブログ)にアクセスしたんですね。


一時期は頻繁に気合いをいれて更新をしていたようですが、仕事を辞めてしまったのか、ブログの優先順位が低くなったか分からないのですが、3年前くらいで更新が止まっているんですね


で、遡っていくつか過去のエントリーを読んでいたんです。


そんときに思ったのですが、この手の「書きかけのブログ」「更新が途中で止まってしまったブログ」ってずっと仮想空間上に置かれていくんでしょうかね?


自分は途中で止めたものが、未来永劫に仮想空間におかれて誰でもがアクセスできる状態にあるってのはどうも嫌だなあ。


理由や背景はいろいろとあるんでしょうけどね。


仮想空間には、この手のブログの残骸、はたまた新ビジネスの残骸、新しいプロジェクトの残骸がいたるところに残っていますね。


自分は、「過度のつながりに疲れた現代人はSNSからブログって形の情報発信に戻ってくる」との思いを強くする1人なのです。


ブログはマラソンのようなものでペースを保って書き続けることが大事、だと思うのです。マラソンのスタートダッシュで飛ばしすぎる子供のようなことでは長続きしないわけです。


これって、商売だって、習い事だって、勉強だって一緒ですわね。


更新なんてのは年に1度や2度だっていいと思います。長く何かを続ける練習って感覚でとりくむ人がふえるとおもろいですね。


こう書いてきて、「そいや、うちの会社にも更新が途中でとまっているブログがあったな•••」と思い出しました(笑)

June 13, 2013 in 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.12

「自分の生活感の感想」と自分の意見ってのは違うと思うんだよね

1_2

かつて、「ミクシィ」は一世を風靡しましたね。


新聞に載っていた野村総研の調査によると2300万人が使用経験あり、だとか。


この会社が上場した頃は「ミクシィは盤石なビジネスモデルだ」と自分は思ったものです。


だって、スイッチングコスト(マイミクって存在がいるので、ユーザーが他の同種サービスに変えにくい)が高いですし、日本語ってのが海外のSNS業者にとってはかなりの参入障壁になると思ったし。


ただ、結論からいうとここはフェースブックがキラ星のごとくやってきて市場を奪ってしまいましたね。


心理的なスイッチングコストはあるものの、ユーザーはツイッターやフェースブックを同時並行で使いはじめたわけです。


で、「日本語ゆえの優位性」ってのは海外IT事業者にとっては参入障壁にならなかったというわけです。


さて、ミクシィの社長が変わったようですね。


自分の感覚からいうと、ミクシィを復活させるって仕事はすんごく難しい仕事に思えるわけです。


少なくとも、自分の回りではミクシィ狂想曲(?)の頃のような感覚であのサイトに向かっている人は少なくなっている。で、970万人がすでに退会(あるいは幽霊会員)なんてデータをみると「難しいなあ」という思いを強くするわけです。


でも、今朝の新聞を読んでいて思ったのですがまだ1000万人がユーザーとして活動しているそうなんです。


1000万人って•••スゴい。それを聞くと、「へええ〜まだまだビジネスはいくらでも展開できるじゃん」とか思うわけです。


何が書きたいか。


自分らは自分をとりまく生活感から物事を判断しています。そこが、すべての認知のスタートになります。


けど、そんな生活感ってのは非常に小さなものであって大局的な観点からいうと虫けらみたいに小さかったりするわけです。


仕事をしていると「自分の生活感及びそのちょっと周辺」からしか物事を見ることができない人ってのがいます。


けど、自分の生活感なんてのは世の中のスタンダーとでは当然ないわけですし、そこに固着するのもバカげた話なのです。


「自分の生活感からだけの感想」ってのを「自分の意見」なんて思っている人は世の中にゴマンといるでしょう。


物事を考えるにあたり、「自分の生活感」からスタートするのは自然でしょう。けど、仕事の場合はそこからレイヤーをあげたり、範囲を広げていくことが必要なのです。


ここは、想像力だとか自分を打破する力とかの世界です。


ホワイトカラーがホワイトカラーの仕事をしているゆえんはこの辺につきると思うのだけどね。


という自分も、自分の生活感だけからミクシィって会社を見ていました(自分は幽霊会員で6年くらい日記を書いてません)が、今日の『日経MJ』みるとすごいリソースをもっている会社ですね。


日本人としては、海外発のフェースブックではなく、ぜひミクシィに頑張ってもらいたいものです。

June 12, 2013 in 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.11

人間はなんで所有したがるのだろう?

一般的に人間は所有したがる生き物です。


お金はいうに及ばず、家や車といった財産や恋愛相手。価値観や信念といったものにいたるまで、所有をしたがります。


で、時として「所有したものを守るために自分が存在する」なんて本末転倒なことが起きるわけです。


1996年の春、自分ははじめてつとめた会社を2年と11ヶ月で辞めました。


それだって当時としてはそれなりに悩んだわけです。


そこには、「せっかく勤めたのにもったいないじゃないか?」って意識が確実に存在していたのですが、それだって「会社員という立場の所有」の放棄だったわけです。


一度所有したもの


それを手放すというのはエネルギーやパワーが必要なわけです。


たぶんなのですが、所有は「変わらないものを求める人間の心理」に起因した行為なのだと思います。


自分らをとりまくものは「変化するもの」ばかりです。というか、「変化しないものなど存在するのか?」ってもともとが不安定な世界を自分らは生きています。


そんな中でお金やモノを所有することや信念を持つことは、「周囲のものを自分のコントロール化に置き、変化しないものに取り囲まれようとする営み」のような気がします。


そもそも、所有なんて行為は小難しいこと抜きに「欲しいから欲しい、以上」でいい世界だと思うのです。


けど、人間ってのは自分の事が一番よく分かりませんから「消費したり、信念を持ちたがる自分の気持ち」から「安定した、安心した自分を求めている気持ち」に気がつくことも大事かと。


だって、世の中は安定など全然していないし、無常ですしね。モノや信念の所有で永遠の安定がもたらされるなんてことは絶対にないわけですし。

June 11, 2013 in 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.10

仕事に選ばれるって感覚

1

仕事ってのは、どこかに隠れている。で、どこかのだれかがいつか実現することを心待ちに待っている。


こう書くとオカルトチック(?)ですが、自分らの仕事ってのは100%自分が主体的に切り開いてきたわけではないのです。


たぶん、仕事が主体で、人間の方が選ばれているんです。


仮に「仕事」に人格があるのであれば、「俺はこいつにやってもらおう」ということを、仕事の方が人間を選ぶわけです。


これは、人間の方からみると「仕事に選ばれる」という感覚ですね。


「仕事をしているうちに思いもよらない分野に力があるのがわかってきた」なんてのは、もしかすると仕事に選ばれているかもしれない。


「なぜかこの仕事に関しては寝食を忘れて集中できる」なんてのも、もしかすると仕事に選ばれているかもしれない。


この映画では、農薬を使わずに栽培することが不可能といわれたリンゴを長い年月をかけて自然栽培していく農家が主人公です。


収入をなくし、妻や娘にひもじい思いをさせ、周囲から白い目でみられ、祖先からの田畑を売り渡してまで自分の想いを実現しようとする主人公。


「人間が仕事を選ぶ」って観点からみると、次々とくる試練を乗り越えていく刻苦勉励、努力の物語です。


「仕事が人間を選ぶ」って観点からみると、次々とくる試練ってのは「自分を招いてくれている『仕事』って存在へ近づく」って物語にみえますね。


当然、「人間が仕事を選ぶ」だろうが「仕事が人間を選ぶ」だろうが、しんどいことはあるでしょうし、投げ出したくなる時もあるわけです。


けど、「仕事が人間を選ぶ」って意識のときは、思いがけない偶然や、思いがけない出会いなど、なぜか運に恵まれていると思うのです。


ここは、「運がいいから成功する」って世界観ではなく、「成功する人ってのは仕事に呼ばれている。だから運がいいはずである」という世界観だと思うのです。


自分は「仕事に呼ばれる」という感覚は持ってはいるのですが、残念ながら「どうしたら仕事に呼ばれるか?」を言語化する力はありません。


清廉潔癖に生きていても呼ばれない時は呼ばれないし、愚鈍にいきていても呼ばれる時は呼ばれるものだとは思います。そこには、何かしらの因果関係が存在するのかもわかりません。


こんな因果関係を考えていたら一生が終わるでしょうから(そもそも、自分が生きている間に因果関係など証明されないでしょうし)、「たぶんこのようにしたら仕事から呼ばれるかな」と自分なりに思うことをたんたんとやるに尽きるのでしょう。

June 10, 2013 in 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.07

猪木さんが出馬するらしいですね

1

「アントニオ猪木の一番の外国人ライバルは誰か?」


プロレスマニアというのは、この質問だけで一晩でも二晩でも酒を飲める人種です。


仮にファン投票したらこんな面々がでてくるでしょう。


ドリーファンクJr、ジョニー•パワーズ、スタン•ハンセン、カール・ゴッチ、ビル•ロビンソン、ブルーザー•ブロディ、アンドレ•ザ•ジャイアント、ルー•テーズ、ハルク•ホーガン、ボブ•バックランド•••


でも、自分がダントツでナンバーワンだと思うのは、タイガー•ジェット•シンだと思うのです。


プロレスってのが、「戦う物同士がお互いの力量を引き出すための格闘芸術」だとすると、全盛時代の猪木VSシンほど理想の好敵手はいないわけです。


シンは悪役ですから、サーベルをもってむちゃくちゃ暴れるわけです。で、自分らガキは会場でシンがやってくると全速力で逃げるくらい怖い存在だったわけです。(アンドレもそうでした)


そんな自分らは、リング上の猪木さんに自己投影をして、シンを叩きのめす姿に感動したのです。同様に、シンにやられる猪木さんに心底悔しさを覚えたわけです。(シンは単なる悪役でなくてかなりの実力者でしたからね)


晩年は、「猪木VSシン」もマンネリ化して、それを察知した(?)のかシンと並ぶ悪役レスラーのブッチャーを猪木さんが招聘するのですが、スタイルがまったく噛み合ないのです。その時にはじめてシンの存在の大きさを感じたものです。


さて、その猪木さん。維新の会から立候補するらしいですね。


政治のことはなるべく語らない、というのをポリシーにしていますからここで自分の考えを述べるのはやめときます。


けど、「維新伝心 ジェットシン」って言葉はちと昭和のプロレスファンにはさみしいな、と感じました。


猪木信者ってのは、猪木さんのこの手の言動には慣れてる生き物ですけどね(笑)

June 7, 2013 in 格闘技について | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.06.06

人間の教育について

正しいことを教えても、自分なりの勝手な解釈の域をでない人ってのはいます。(「正しい」の定義はここではまず置いておきます)


この手の人は、自分自身の枠を壊す(広げていく)のではなく、事実の方をねじまげていきがちです。それも、多くの場合が条件反射的にですね。


一方で、トンチンカンなことを教えても、自分で軌道修正していく力が備わっている人ってのもいます。


この手の人は、事実をねじまげるのではなく、いちどは事実をうけとります。その上で自分なりに咀嚼して、解釈していきます。で、解釈に合わないことは自分なりに探索をしにいきます。本を読んだり、人の話を聞いたリですね。


「いい上司や先輩に恵まれれば自分を伸ばせるのに•••」と考える職業人はたくさんいるでしょうが(自分もそう思ったことがありますし)、そんなのはたぶん幻想なのです。


結局のところ、受け取り手の心の問題ですからね。


以上、自分の考え方です。


おそらくなのですが、大人の教育にとって必要なのは「自己解釈の溶解」なのだと思います。


学校教育は「自己解釈の形成」に重きが置かれていました。「私は○○です」という価値観やアイデンティティの確立が優先されました。


で、自分らは教育や生活を通じて幾多の価値観を生み出してきました。それはそれは、自分らが生み出した財産あり、生きてきて実践ですぐに役立つ武器となりました。


けど、その価値観やアイデンティティってのはすごく限られた情報や人間関係の中で築かれたものでしかないわけです。


で、時に人間はそんな脆弱なものを大切に大切にしているわけです。そこから、いまの自分をつくろうつくろうとしているわけです。


結局のところ、大人になった人間が伸びる伸びないは「ガキの頃につくった自分の解釈」を自分で破壊ができるか否かって部分に帰結するのだと思います。


では、なぜそれができないか?


単純に言うと、自我崩壊の恐れでしょう。


自分らは「自分はこう考える」を武器にして生きてきましたから、それが揺らぐと過度の恐れを抱いてしまうだけの話なのですね。


自分なりの価値観を持ってどっしりとしているけど、それに固執していなくて、自由自在な自分


って感じでいれたら教育なんてものを意識しなくても、自分は成長していくんだと思います。


逆に、自分にどうしても自分のつくってきた自我に固着したいって人は、そういう生き方もあるでしょう。ここは生き方の選択の問題です。


けだし、固着は次の固着を生みますし、年齢を重ねるたびに固着は自我にこびりつきます。


自分はイタい大人への第一歩は自我への過度の固着だと思ってますから絶対に選択はしたくないです。なので、縁ある方にはここを強く訴えたいな、と。


自分が人に行える「教育」ってのは、たぶんこれくらいしかないのですよ。そもそも、人が人を教育するってのも幻想でしょうしね。

June 6, 2013 in 人間の美意識について, 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.05

将来への不安への対処法

「仕事が決まらず、将来が不安だ」


と20代後半の方から相談を受けました。


正社員希望なのですが、なかなか働き口がなくて現在はアルバイトで生計をたてているようです。


自分も20代後半は無職(旅をしていたので「夢職」かな?)だったので、漠然とした将来への不安はなんとなくわかるつもり。


いまも閉塞感はあるでしょうが、自分が働いていなかった頃も山一証券や北海道拓殖銀行の破綻があって、「すわっ、大変だ」って時代感がありましたからね。(ちなみに私当、この頃ラーメン屋のアルバイト面接で落とされた過去があります 笑)


当時の自分は、「不安だけど、ポジティブにいこう」と思って現実を打開しようとしていたんですね。「将来何が起こるかなんて分からないことを悩んでいてもしょうがない」って自分を鼓舞するようなやりかたですね。


が、人間ってのは常に思考よりも身体が優性な生き物ですから、「思考で不安を押さえようとすればするほど、身体が感じる不安がつのる」ということがおきてくるわけです。


で、さらに不安がつのるというスパイラルを描いていくわけです。


このメカニズムに気がつかないと、神経症へとまっしぐらになる危険性もあるわけです。


「じゃあ、どうすんの?」という話なのですが、恐らく不安な時は不安をそのまま感じきるのがベストだと思うのです。


人によっては、みぞおちがつまるような感覚や、胸のあたりが波打つような感じを覚えるかもしれませんが、これをひたすら感じきる。


逃げずに感じきる、それがたぶんベストなのです。


で、このときのポイントは「思考を働かせない」ということ。


自分らの思考ってのは、言語をベースに組み立てられます。その、言語ってのは人それぞれが勝手きままに解釈をしています。


「言葉は客観にして中立」みたいなイメージがありますが(辞書、なんてものも存在しますしね)実はきわめて個性的、属人的な世界のものです。


例えば、「仕事」という言葉。


ひとそれぞれが触れて来た情報や教育、親の仕事をする姿や実際の就職活動、仕事をしてきた経験の中でこの言葉に意味を付与してきているのです。


そこには、誰1人として同じ意味付けはなされていないのです。自分の口にする「仕事」と、このブログを読んでいただいている方の「仕事」は確実に違うはずなのです。


と考えると、「言葉をつかって思考を巡らす」ということは、自分自身が言葉に付随させてきた解釈や認知をも自然のうちにとりこむことになります。


で、これらこそが不安の種である場合が多かったりするようです。


たいがい不安に教われている人ってのは「将来が○○になるに違いない」だとか「あの人は○○と思うに違いない」とか勝手な解釈で袋小路に陥ってるだけですからね。


「思考(言葉)を介在させないで、自分の不安と向き合う」


今回、相談いただいた彼にはややこしくなるのでこの手の話はしていないのですが、こうしたアンビバレントな世界の先に「不安への対応」ってのはあるのだと思います。


まあでも、これをできれば禅でいうところの「さとり」の境地なんだろうけどね。けど、生きていく中でこうした境地にはちょっとでも近づいてはいきたいものです。

June 5, 2013 in 人間が悩むということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.04

やれるけど、やらない

やれるけど、やらない


オーナー社長であれば、会社の経費を比較的自由に使えます。親族が役人になって働いてもいないのに給料を出すこともできます(もちろん、違反です)


社員の給料から天引きした社会保険料を資金繰りに使うことも理屈上は可能になったりもします。


出社時間だって自由にできるし、休みたい時には休める。


意のままにならない人間を(意のままにならない、という理由だけで)配置転換することもできるでしょうし、シンパ(?)だけで近くを固めて派閥(もしくはそれに類するもの)をつくることもできる•••


その他、やろうと思えばできることはいろいろとあります。


けど、権力(社長という仕事は一つの権力です)を持たされた人間は「本当にその権力を持つにふさわしいかどうか?」を試されるような気がするんです。


だから、「やれるけど、やらない」という美意識が必要になってくるのです。でないと、裸の王様になってしまいますしね。行き着く先は•••イタい大人です。


人間は都合よく自分の認知を書き換えるのが得意な生き物ですから、美意識をずっと持ち続けるのは案外と大変です。どんどんと解釈が拡大されたり、緩和されたり、合理化していきますからね。


だから、ここは時間戦略。時間をかけて習慣化していく必要があるのでしょう。


仕事の美意識ってのは、たぶん「損得」「効率」「快楽」とは一種対極にある世界観なのです。


逆をいうと、「損得」「効率」「快楽」がでてくる局面では仕事の美意識が試されているということになるのかな、とも。


いうはやすく、行うは難し••• だからこそ、くどいですが時間戦略なのでしょう。

June 4, 2013 in 人間の美意識について, 経営をするということ | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.06.03

映画「くちづけ」は必見です

1

映画「くちづけ」公式サイト


「人の人生を根底から変えてしまうエネルギー」


一部の本や映画にはそういう力がありますね。


でも、それらの作品ってのは、単体としては存在しえないわけです。


作品を読んだり、鑑賞をする私たち人間•••個々人の中にある「何かしらの因子」と作品との関係性の中ではじめて存在するわけです。


で、因子と作品とがタイミングよく結びついた時にはじめて、スゴいエネルギーを放出するわけです。「自分にも何かできないか?」って具体的な行動が生まれるわけです。


そう考えると、本や映画に触れるというのは、「自分の因子を探す作業」という側面があるかもしれませんね。


さて、この映画。番宣も見ずに行ったのでどんな映画か待ったく分からずでした。


ポスターを見て「父親から巣立っていく娘さんの話かな?」くらいにしか思わず、橋本愛さんがでてるし、空き時間があったので「まあ行ってみるか」という感じで。ライトなヒューマンドラマだろうな、って感覚でした。


映画の舞台が知的障がい者の自立支援を目的としたグループホームであること、主人公の娘さんが知的障がい者である、という前情報もありませんでした。


それはそれは、ヒューマンドラマであり、社会派ドラマであり、ラブロマンスであり、父と娘のドラマであり•••


観る人のどこかしらの因子に突き刺さるだろうな、という映画でした。


日本語には、「筆舌に尽くしがたい」という言葉と、「百聞は一見にしかず」という言葉があります。


自分なぞでは文章にすればするほどこの映画の魅力から遠ざかってしまうと思いますので、DVDの発売などを待たず、とにかく映画館にいくことをおススメします。


自分にとっては「自分の因子がどこにあるか?」を久しぶりに分からせてくれる映画でしたし、具体的に何かしらの行動を起こそうと思いました。


あと、子供の頃に近くにいた人のことを思い出しました。この映画を観ていなければ永遠に記憶に出てこなかった人ですね。

June 3, 2013 in 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0) | TrackBack (0)