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2014.02.28

シンクロがやってきた

「いつかこの方にはお会いしそうだな•••」


一昨日の朝、某新聞にでていたインタビュー記事。


お会いしたことない方だけど、なんか予感があったのでインタビューの内容をちょっとだけメモ。出版人で年齢は同じくらいの方。


で、昨日の午後。


ある打ち合わせで、同席をしていた方からこの方のお名前がでてくる。どうやらこの出版人と懇意にされているらしい。


で、話の流れで近々お会いできるような感じに。関係各位の打診はこれからなのだが、もしかすると「何かしらの企画をご一緒できるかも」という展開に。


「シンクロ」


こういうできごとを、そう呼ぶのでしょう。


けど、「シンクロ」って驚いたり、喜んだりする類いのものじゃなような気がしていて•••むしろ、ある条件が揃っていさえすれば「シンクロ」が起きることが普通な状態なんじゃないか、と。


「いつかこの人にお会いしそうだな」


と自分の心が動いたこと。たぶん、これは自分の意志ではないわけです。


直感、というと安っぽくなってしまいますが、きっと自分ではないどこからかもたらされたものなのでしょう。


そんな世界観の中では、「できごと」が向こうの方から自分を追っかけてやってきます。


「シンクロ」なんてビシバシと起きるでしょうし、いろいろなことがなぜかスムーズにすすんでいくわけです。


こちらから「できごと」を追いかけていく世界観とは対極ですから、エネルギーも少量で済みますし、なによりも障壁がどんどんとクリアーしていくのが心地よい。


たぶん、「できごと」を追っかけている感覚があるときは「シンクロ」なども無縁。それは、「直感」ではなく「エゴで考えた『直感』もどき」だから。


「もどき」はどこかスムーズさにかける、どこかつっかかりがある•••


「もどき」とそうでない世界とはたぶん形こそはにていても、対極にある世界なのでしょう。


シンクロに一喜一憂するのではなくて、「あー、やってきたか」って淡々とした世界観なのかな、と感じます。

February 28, 2014 in 人間の成長について, 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.27

「作り手の人格」を込める作業

夏までに、ある商品を市場に出します。


で、「この商品が使われそうなシチュエーションをたくさん考えるように」と現場に指示を出しています。


「たくさん」とは抽象的ですが、イメージとしては100通り。自分自身でも20通りくらいはすぐに考えつきましたが、なかなかハードルが高いですね。


実際は、100通りのつかわれ方を考えても、その通りに使っていただけるわけがありません。ユーザーは常に作り手の期待を裏切りますしね。


しかしながら、


「えっ、こんな使い方するの?考えもしなかったわ•••」


と、いい意味での裏切りをするのもユーザーであるわけです。


そんなところから、「どうせ分からないならまずは市場にだして反応をみればいいじゃん」という意見も生まれます。


原因と結果の因果関係がみえにくい複雑系の社会です。確かにそれも一理あるのでしょう。


ただ、あらゆるプロダクツは「作り手の何らかの意志」が込められています。さらに言うと「作り手の人格」のようなものも込められています。


この「作り手の人格」を込める作業。


それが、「商品が使われているシーンを徹底的に想像する」ということじゃないかと思うのです。


どんな業界の、どんな商品だって「作り手の意志」なきところに商品は存在しないわけです。


商品は時間と空間を越えて存在しつづけます。(むろん、いつかは形なくなりますが)


顔も名前も知らない方が商品を手に取って、作り手の人格を感じとるわけです。


そんなことを考えると、できる限り「作り手の人格」を込めて世の中に出したいと思うのです。

February 27, 2014 in 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.25

水筒を持つことで感じたこと

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「水筒を持っている人がやたらと多い」


インドのヨガ哲学『バガヴァッドギーター』の講座に毎週通っているのですが、ある時、気がつきました。


で、自分も真似して水筒を持ちはじめました。


毎朝、お茶をいれて持ち運ぶこと約1ヶ月・・・


ペットボトルを買うことに一抹の罪悪感が・・・(汗)


な、なんなんだこの罪悪感は・・・


プチベジタリアンの友達が「お肉を食べるとあちゃー、って思う」と口にしていたが、それに近い感覚なのかしら。


いろんな会合にでるたびに、「参加者の水筒率」が気になるのですが、企画によってだいぶ変わるものですね。


水筒をもって初めて見えた現実です。はい。

February 25, 2014 in 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.21

結果は大切なものなり、されど執着せず

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「契約さえとれれば、一日中寝てたっていいんだ」


住宅の歩合営業をしていた16年ほど前、上司によくいわれました。


たまたま、その頃に読んでいた本がでてきました。(ちなみに、著者の丸山景右さんはそんなことは書いていません)


「仕事は結果が全てである」


たしかにそれは事実。結果(売上や契約)がなければ給料だって出ないし、事務所の家賃だって払えない。


けど、いにしえから続く哲学や思想の多くは「行為の先にある結果の放擲(手放す)」を異口同音にいうわけです。そこに人間本来の自由、ひいては人のしあわせがあるといっているわけです。


編纂から2,000年以上経つヨガ哲学『バガヴァッド・ギーター』だって、中国の代表的な古典『老子』だって、自分には「行為の先にある結果に執着しない方がいい」と読めるわけです。


「仕事は結果が全てだ!」みたいなイケイケな会社に席を置かせていただいた人間が、何かの縁から会社を興して、そのうちにギーターや老子を手に取るようになった。


これは、「『行為と結果』について社長というちょっと難しい立場でお前なりに考えなさい」という使命を自分は与えられているのかもしれませんね。


今の自分は、


結果に執着するエネルギーを創造(行為)に向けること


たぶん、それだけで見えてくる現実ってだいぶ変わるんだな、と感じています。感覚的には、「結果は大切なものなり、されど執着せず」って感じでしょうかね。


追記
この頃は、飛び込み営業をよくやりました。


確か2,750軒訪問すると1軒契約できるってデータでしたね。


今思うと、優秀な営業マンはたんたんと訪問数だけこなしていた(=行為にエネルギーを集中させていた)ように思えたりします。もちろん、工夫や改良を重ねながらですけどね。


結果に執着をしてしまうと、工夫や改良ってところにいくエネルギーが分散されてしまうような気がしますね。

February 21, 2014 in 人間の成長について, 仕事のことについて, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.20

恐いものの恐さを知ること

Takuan

「恐いものの恐さを知ること、それが本当の勇気」


無鉄砲で、暴れん坊だった若き日の剣豪・宮本武蔵にあるお坊さん(沢庵和尚)が口にした言葉です(だいぶ私の言葉になっています)。


武蔵はそこから蔵にこもって読書を3年し、人格を磨いていく・・・


吉川英治さんの描く『宮本武蔵』、前半の一つの山場です。


「恐怖心」


凡そ、フツーに生活をしている人でこれと無縁な人はいないわけです。


お金があればあるで、社会的な立場があればあるで、仕事のスキルがあればあるで、子供が健全に育っていればいるで・・・


これと付き合っていかないといけないのはたぶん人類全体のカルマなんでしょう。


昨日はワークショップでした。2ヶ月に一度、経営者が10人ちょっと集まる会合で、早いもので参加してから丸4年が経ちました。


テーマは一切なくて、それぞれが話をしたいことを勝手に話すところから会は進展していきます。


将来の事業への不安、家族や社内の問題、事業継承の悩み、新規事業への迷い、「ありたい自分」と「現実の自分」とのギャップの葛藤・・・


自分らが「問題」として人に相談したくなることの多く(ってかほとんど)は、この「恐怖心」って問題にいきつきますね。4年間でたくさんのケースを見聞きできました。


自分たちは、全力をあげて恐怖から逃げようとします。


「今はこれに取り組む時期じゃない」だとかいってマインドをフルに駆使したり、


「オレはゼンゼン恐怖んなんかないぜ」と感情のスイッチをオフにしたり、


やたらと周囲に対して攻撃的になったり、


恐怖を感じないようにバタバタと忙しく新しい行動をしてみたり・・・


ホントに人は狡猾に自分を騙す(笑)


沢庵和尚の言うように、恐いものを恐いものの姿のまま、過大評価も過小評価もせずに見つめること


これがやりきれると、できごとそのものが姿を変えてしまうことがあるんですね。そんなケースもいくつも見させてもらいました。


「恐いものの恐さを形のままに知る」


ここは「一人一人が自分でなんとかする」のではなく、信頼できる師匠や仲間、家族との相互依存(いい意味での依存です)の中で向き合っていくことが必要なんでしょう。


寺子屋、青年団、サークル・・・形はなんでもいいと思います。


「恐いもの」を必要以上に大きく見せるための情報がたくさんある時代は、こうでもして自分を守っていかないとやられちゃいますからね。


ってか、自分がそんなサークルでもつくるかな。

February 20, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の成長について, 人間の認知について, 精神的なこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.19

着想したアイデァを丹念に育てよう

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頭の中か、腹の底か、身体のどこかか、エネルギーフィールドか・・・


どこにか分からないけど、アイデァが着想される瞬間があります。


「おっ、きた、きた!」という感覚。


と同時にくる「なんだこれ?」って感覚。


自分の場合、頭の上50センチくらいのところに何かしらの貯蔵庫のようなものがあって、そこから何かを引っぱり出すような感覚。


最初は燃え尽きる間際のお線香のようなものだから、取扱い注意しながら、「あなたは誰ですか?」と聞いて存在確認をしているような感じ。対話をしているような感じ。


けど、アイデァが一定の熟成を得るとアイデァ自身に人格のようなものが生まれてきて・・うまくいえないけど、アイデァが主体となってアイデァを創リ出していくって感じに。


けど、このあたりで問題が・・・


エゴ(ワタクシ)が生まれてくるんです。


「このアイデァを生み出したのはワタクシ」ってことで、エゴはアイデァがアイデァを創り出していく作業をじーっと見守ることができないわけです。


現場の仕事になんでもかんでも介入する社長みたいに(笑)「あーでもない」「こーでもない」といおうとするわけです。


で、はじめは純粋でピュアだったアイデァ君が、エゴまみれになっていくわけです。着想時のまま、育たないわけです。


アイデァってのは、たぶん大きな存在からの恩恵です。


「こいつは頑張っているから」なのか「この人は優秀だから」なのか「この人にこれをやらせて苦労させよう」なのかはよくわかりませんが、たぶん恩恵です。


で、どうも大きな存在は、「同じような時期に、多くの人に、同じような着想を宿らせる」という遊びをしているとしか思えない(笑)


だから「あのアイデァはオレだって考えていた」みたいなことが起こるわけです。


大きな存在は、アイデァを孵化させて形にしてくれることを望んでいるんでしょうから、着想云々で文句をいうんじゃねえって思いますけどね。


今日は一日研修会。


去年着想したアイデァが自己増殖してちょっとだけ形にまとまりましたので、仲間から忌憚なき意見をきいてこようかと思ってます。

February 19, 2014 in 仕事のことについて, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.18

記憶に残るギフトをいただきました

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ギフトで「世界のビール」をいただきました。


20本(20ヶ国)もあると、ラベルを通してバーチャルな空想旅行ができるようです。


スゴいのはサッカーのFIFAランキングでセレクトされていること。


ポルトガルやイタリア、ブラジルやスペインなどの「サッカー王国」から、日本や韓国といったワールドカッププチ常連国まで。


サッカーファンであれば、バーチャルなワールドカップの脳内開催ができるかもしれませんね。


「編集力」


成熟社会でモノを売っていくの不可欠なこの要素をまざまざと感じるギフトでした。


こういうセンスがよくて記憶に残るギフトを贈ることのできるアイデァと、それを生み出す心の余裕ってのはいつももっていたいな、と。


ありがとうございました。


追記
「世界のビール」プロレス編をつくってみました。だいぶ偏ってますが、昭和を彩った名レスラーばかりです。


アントニオ猪木(日本)
大木金太郎(韓国)
ダイナマイト・キッド(カナダ)
タイガー・ジェット・シン(インド)
アクラム・ペールワン(パキスタン)
ローラン・ボック(ドイツ)
ブラック・タイガー(イギリス)
ボブ・バックランド(アメリカ)
ウィリアム・ルスカ(オランダ)
サルマン・ハシミコフ(ロシア)
ブルーノ・サンマルチノ(イタリア)
アンドレ・ザ・ジャイアント(フランス)
ボボ・ブラジル(ブラジル)
エル・ソリタリオ(メキシコ)
ジプシー・ジョー(プエルトリコ)


「アメリカがなんでバックランド?」、「ボボブラジルはアメリカ出身じゃん」、「ルスカはレスラーかよ」だとか、かなり異論があるかと思いますが(笑)


気がむいたら加筆します。

February 18, 2014 | | Comments (4) | TrackBack (0)

2014.02.17

「嫌なヤツ」を考える

「嫌なヤツ」は自分の投影、だから「嫌なのだ」。


って考え方があります。


「嫌なヤツ」を見ることで、自分が抑圧している「嫌な自分」が直面化される。


だから、無視したり、バトルしたり、陰口言ったりして人は心の平静を保とうとする。つまり、自分の中で抑圧していることに更なるフタをする。


そんな考え方があります。


けど、これってどれだけマインドで考えたところで腑に落ちないと思うのです。


だって、「嫌だから嫌なんだ」ってマインドはもはや感情の領域。それを凌駕するマインドは存在しにくいわけです。


冬場に入る風呂の気持ちよさを理屈で説明できないように、「アイツは嫌」を理屈で説明、理解できるわけがないわけです。


たぶん、人間における「嫌なヤツ」問題は、自分のスピリットに働きかけないといけないわけです。


「世界は愛と調和に満ちている」と考えると、「嫌なヤツ」の存在ってのはどう考えても説明がつかないわけです。


愛とは無縁な気がするし、調和とはまったく逆・・


なんで愛と調和に満ちている世界にこういう人が存在するのか?


この説明のつかない矛盾。ここは、たぶん自分たちの「エゴ」の部分なわけです。


何かを期待したり、何かを求めたりとする自分たちマインド(「エゴ」)の部分なわけです。


「エゴ」は社会の推進力になりますし、人間の活力の源でもあります。


そんな一方で、「エゴ」は「イタい大人」の種子のようなもの。「エゴ」の種子は他人からの承認欲求をエサにしてどんどんど肥大化していく危険性があります。


ここはうまく付き合う必要がありますね。


「嫌なヤツ」は、自分の「エゴ」を客観的に見せてくれる存在


マインドではなく、スピリットでそんなイメージをしてみてはどうでしょうかね?


フツーは「自分のエゴの部分を見せてくれてありがとう!!」なんて聖人君子みたいなマネはなかなかできないでしょう。


けど、マインドが「アイツは嫌」と支配されてる時は「敵」と思ってたヤツが、スピリットに働きかけるとちょっとだけいとおしくなる(?)瞬間があるから不思議です。


そう、それは人生を生きていく上での同志みたいな感情かもしれませんね。

February 17, 2014 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.13

それ、もしかすると空手?に憧れて

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「それ、もしかすると空手?」


単身で四国に乗り込み、極真空手を広めていった芦原英幸氏(享年51歳)が道場破りをする時に放ったとされる名言です。


空手家に向かって「それって空手?」と言い放つのですから、これ以上ない皮肉ですね。


40〜50代の格闘技ファン(「元」も含む)に、「子供の頃に影響を受けた格闘家は誰?」という酔狂なアンケートをしたとすると、おそらくトップ3に芦原氏は入るんじゃないかしら?


「芦原英幸氏に影響を受けた」という人はいうまでもなく、「芦原英幸氏に影響を受けた人に影響を受けた」という人まで含めると格闘技界で氏のDNAから全く無縁な人はいないんじゃないか、とさえ思うわけです。


先週、芦原英幸氏ゆかりの土地を訪ねて四国にいきました。


自分自身のうちなる子供(インナーチャイルド)が喜んでいる感じがしました。そして、40を越えたおっちゃんである自分も狂喜乱舞でした(笑)


そう、われわれは子供の頃はもちろん、大人になってもどこかでヒーローを求めているんです。


理屈抜きに尊敬できたり、理屈抜きにリスペクトできたり、理屈抜きに「あの人はスゲエ」っていえる


無意識は、いくつになってもどこかでそんな人を求めているんです。


芦原英幸氏には「どうせ劇画の中で創られた存在じゃないか」だとか「劇画はフィクションだらけだ」という指摘をする人もいます。


たしかにそういうことは事実としてあったんでしょう。


けど、そんなのはどうでもいいことなんです。


フィクションとして誇張して描かれていようが、元となる存在が輝いていないとフィクションもフィクションたりえないですからね。


世の中に、「あの人は確かにスゴいけど、○○に問題がある」みたいに、どこか「尊敬する人」に完璧性を求める風潮ってありませんかね?


どこか「スゲエって人をスゲエって素直にいえない」風潮ってありませんかね?


自分は、「スゲエって人」がいない人生はどこか彩りにかけているような気がしてならないのです。無機質というか、孤独というか、いきがっているというか・・・


「スゲエ」があるから人は恐いものの恐さを知れるんです。「スゲエ」があるから自分自身に対する全能感と距離をおけるんです。「スゲエ」があるから増長するエゴにブレーキがかけられるです。


「スゲエ人」をスゲエと感じられる感性を


「スゲエ人」の良い部分に目を向けていくセンスを


どうか持ちたいものですね。人はいくつになっても「スゲエ人」と巡り会えるものでしょうし。


追記
芦原空手発祥の地である八幡浜。潮の香りがする漁村をイメージしていましたが、まったく違いましたね。旧道場の裏にある神社は、映画『史上最強のカラテ』にでてきた神社だ、と直感的に思いました。


あの場所で芦原、添野、山崎といった猛者が稽古をしていたと思うだけで感無量でした。この話で酒を飲める格闘技マニアって案外と多いと思うのだけど(笑)


February 13, 2014 in 尊敬する人、または師匠筋, 格闘技について | | Comments (8) | TrackBack (0)

2014.02.06

いまいる場所に在り続けることの覚悟

住宅会社で歩合の営業マンをしていた1998年頃の話。


「将来のビジョンをつくる」的な本をたまたま手に取りました。


そこには数々のワークシートがあって、それらをまとめると「将来のビジョン」が完成する、という本です。


「よし、やってみよう」とペンを手にとり着手したのですが、最初のページで手がとまりました。


なぜなら、こんな一文があったからです。


「将来のビジョンは今現在とは違うどこかにあるんじゃなくて、今日の生活や仕事にきちんと向き合った先にあります。


今、仕事をしている人は『最低でも5年は今の仕事を続ける』という覚悟を持った上で、このシートに向き合ってください。云々」(だいぶ自分の言葉で表現しています)


当時の自分、「これから先、仕事どうしよっかな?」と考えていました。


歩合だから生活は不安定だし、連日の飛び込み営業や夜訪(帰宅時間を狙って訪問すること)も「はたして、これが精神&肉体的にいつまでできるのか?」って思ってましたしね。


だから、『5年間は今の仕事を続ける』って覚悟なんか毛頭持てなかったわけです。


あれから16年が経過しました。


「自分がいまいる場所に在り続けることの覚悟」


16年前の自分にとっては耳が痛いんですが、いまの会社組織に足りないのはこんな意識じゃないでしょうかね?


「もっと他にいい場所があるんじゃないか?」って青い鳥症候群だったり、「ここに居続けないと生活が心配」という執着心だったり、「いやなことがあればいつ辞めてもいいや」って開き直りだったり・・・


「人は覚悟をしなくなってないか?」と思うのです。


人間、覚悟を決めた所で将来はどうなるかわからないわけです。覚悟をしても、転職や独立、旅人へ転身って道が開けてるかもしれないわけです。


けど、今、今日、この場所で「自分がいる場所に在ることの覚悟」が持てないのは残念なことだな、と思います。時間は有限ですし、モラトリアム的な生き方はクセになりますし。


覚悟は選択であり、決断です。


どこかに逃げ道を探す生き方はやめて、「いまいる場所に在ることの覚悟」をまずは決めろ


今思うと、「5年間は今の仕事を続ける覚悟」と書いた著者はこんなことをいいたかったのかもしれませんね。


誰の、どの本だったか忘れましたが、なかなか本質的なことを書いていたなと思うのです。

February 6, 2014 in 人間の美意識について, 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.05

経営学についてちょっと考える

「大企業の役員と対等に経営の話ができる」


会社を創ったころ(2001年)、そんなことを思って経営の勉強をしました。


ポーターの「競争戦略」、ドラッカーの「企業の強み分析」「ユーザーのギャップ分析」、コリンズの「ビジョン経営」、日本発の「暗黙知経営」、当時流行していた「ゲリラマーケティング」・・・


で、それらはそれなりに自分の血肉になりました。成果に直結するものも確かにありました。


けど、いつからか経営学の語るところの経営ってのはどこかに違和感があるように感じてきました。


それは、「経営理論が現場で使えるわけないじゃん」という現場主義的な意味ではなくて、もっと根底レベルでの違和感ですね。


「なぜ、うちの会社が存在しているのか?」


経営学的にいうと、それは「ニーズがある商品(サービス)を他社よりも低価格か高付加価値で提供しているから」ということになるのでしょう。


けど、「なにゆえ、その商品(サービス)を提供するようになったか?」ということを考えてみるとき、ほとんどの経営学では「人間が主体的に考えて商品(サービス)を考えた」というスタンスにたっています。


けど、それだけじゃないと思うのですよね。


で、たぶん経営学ではこの「それだけじゃない」という部分を追っかけることができないのです。こまかな事情はわからないですが、学問として成立しないのかもしれませんね。


経営の世界には、「たまたま」だとか「想像もしていなかったけど」だとかいうことがよくあります。


で、優秀な経営者であればあるほどこれらをうまく活用している。ってか、「それらのできごとをうまくマネジメントしてるんじゃね?」とすら思える人だっているわけです。


たぶん、ここは「人間に与えられし使命」と「経営者の志」って話のような気がするんです。


「志あるところに、経営者としての使命がやってくる」って世界観。


おもしろいのは、「志がなくても、使命がやってくる」こともあれば、「志は強いけど、使命がやってこない」ってこともあること。


ここらへんの差配は関心がありますが、とうていワタクシなどには分かるわけもなく・・・。


ということで、「大企業の役員と対等に話ができる」からスタートしましたが、MBA的な話にはもはや関心がほとんどなく・・・(笑)


でも、ここらへんのことを「あーだ、こーだ」というあたりに自分の使命があるんじゃないか、という予感もあったりもするわけです。

February 5, 2014 in 人間の成長について, 仕事のことについて, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.04

謙虚と自己否定との間

「自分を肯定せず、いじめるのが好き」


無意識にそういうスイッチが入る人、案外と多いと思うのです。


かくいう自分もたぶんその一人。


そんなだから30代の頃は、「まだまだ自分なんか・・・」って常に思っていて、何かに駆り立てられるように動いていたわけです。


「ユニクロやソフトバンクの社長から見たら自分なぞは仕事ができない人」ってのが口ぐせだったわけです。


たまに、人様から褒められたりすると「いやや、自分なんか・・」というスイッチがすぐに入るような人間だったわけです。


そんな自分が、「謙虚なワタシ」だと思っていたんですね。


けど、本当にそれが「謙虚」に基づくものなのか?とあるとき思ったわけです。


人間社会には、「自己評価が高くて傲慢」「自己評価が低くて謙虚」ってステレオタイプの人ばかりが存在しているわけじゃないわけです。


「自己評価が高いが、人として謙虚」


って人もいれば


「自己評価が低いが、人として傲慢」


なんて人もたくさんいるわけです。


たくさんのパターンがある中で、時に人は「『人として謙虚でありたい』という隠れ蓑(?)の元で、自己評価を低くして生きる」という生き方を選ぶようです。


自己評価を低くするのは、アドラー流心理学的にいうとそれが「今の自分にとって何かしらのメリット」があるから。


自己評価を低くすることで得られるメリットが、「いま、この場所で」存在するからなのだそうですね。


「謙虚は美徳だけど固着するものじゃない」


「謙虚」と「自己否定」とがごっちゃになった人には、こういうテキトーさが必要なのかもしれませんね。

February 4, 2014 in 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)