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2014.04.24

いてもたってもいられない

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多くの職業人をバックパッカーの世界へ誘った(?)『深夜特急』(沢木耕太郎著)を久しぶりにランダム読みしました。(旅にでると、選ぶ本が変わりますね 笑)


なめらかで美しい文章だな・・・20年前に初めて読んだ頃とまったく変わらない新鮮さですね。本質的な価値を持ち長く読み継がれる本のみが持つ存在感・・・。


「デリー(インド)からロンドン(イギリス)まで乗り合いバスで行けるかどうか?」


という仲間うちの話から、26歳のルポライターだった著者は旅にでるわけです。


私は、春のある日、仕事の依頼をすべて断わり、途中の仕事もすべて放棄し、まだ手をつけていなかった初めての本の印税をそっくりドルに替え、旅にでた。


せっかく軌道に乗りかけているのに、今がいちばん大事な時ではないか、と忠告してくれる人もいた。だが、ジャーナリズムに忘れ去られることなど少しも怖くなかった。


それより、私には未来を失うという「刑」の執行を猶予してもらうことの方がはるかに重要だった。


執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものは、それだった。


確かに、酔狂なことをしたかった。デリーからロンドンまで、乗り合いバスを乗り継いでいくという、およそ何の意味もなく、誰にも可能で、それでいて誰もしそうにないことをやりたかった。


しかし、それは自分や他人を納得させるための仮りの理由に過ぎなかったのかもしれない。(第2巻 P174〜175)


たしか、26歳の自分もこの辺に触発されて旅にでたわけです。


どこか社会というカタにはめられるような違和感。


なんとなく、特急電車に乗ってしまって途中下車できないような息苦しさ。


自分がすっとばしてきたそれぞれの駅には、「観たことない世界が広がっているのかもなぁ」と考えると、いてもたってもいられなくなったわけです。


「いてもたってもいられない」


たぶん、こんな思いがやってくるというのはGOのサインなわけです。


けど、「いてもたってもいられない」を抑圧するのが日常化してしまうと、このサインと受け取るアンテナが鈍ってしまうわけです。


できれば若い多感なうちから。


歳取っても、歳取ったなりに。


「いてもたってもいられない」を育てていきたいものだな、と久しぶりにこの本を読んで感じた次第です。

April 24, 2014 in 感じたこと, 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (4)

2014.04.23

「なぜか好きな国」を訪れてきました

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なぜか好きな国


というのがどうもあるようで。


で、「なぜ?」を突き詰めても理由なんか分からなくて。


魂というものが存在するなら、きっとその魂がその国を彷徨したがっている、ということなのでしょう。そこはきっと、マインドフリーな体感覚が全てな世界なわけです。


「春に旅に行こう」と決めてからいろいろな地域が候補にあがりました。


チベット、マチュピチュ、ウユニ湖、タシケント、ウルムチ、南インド、スリランカ、イエメン、パキスタン・・・


結局、「なぜか好きな国」を訪れることにしました。


バックパッカーをしていた1997年。この国に査証ギリギリ(確か有効期限28日)の期間滞在しました。


勤めていた会社を辞めて、今の会社を創業した2001年。「しばらくは海外にいけないだろうから今のうちに海外に・・・」と1カ国だけ選んだのはこの国でした。


で、今回が3回目。


生涯、100ヶ国は回りたいので(まだ半分くらい・・・)、同じ場所を訪れるのは生産的(?)ではないのですが、今回は自分の「なぜか好き」を信頼しました。


はじめてこの国を訪れた時、自分は27歳でした。


「やりたいことをしたい」と会社を辞めて旅にでてきたのはいいですが、お金がなくて、帰国してからの見通しがなくて、手に職もなくて、借金はあって・・・でした。


「なるようになる」と思っていながら、自分の人生で「なるようになった」実体験(特に社会人としての経験)がきっと希薄だったんでしょう。「なるようになる」という言葉の裏には、たぶんどこか強がりがありました。


17年ぶりに訪れた街で、自分の人生「なるようになったなあ〜」と思いました。


今の仕事、周囲の人間関係、読んでいる本、観ている映画、考えていること、影響を受けている人•・・・


今の自分は何一つも17年前の自分には想像ができなかったことばかり。


そう考えると、今から17年後の自分にはどのような人生が開けているかまったく分からないわけで・・・。


まさに、「なるようになる」しかないわけです。17年前の自分とバーチャルに対話することで、そんなことを肌で感じてきました。


人生に確証を求めたい


という欲求は誰にでもあると思います。「人生の予見可能性」が心の安定をもたらすということもほとんどの人にあることでしょう。


けど、全体世界は自分たち一人一人の想像を超えた世界を見せてくれるようです。人生に過剰な確証を求めるということは、そんな世界への窓を閉じてしまう行為じゃないでしょうかね。


これから自分の「なるようになる」がどのように「なるようになる」のだろうか?を想像するのは面白いものだな、と思ったミャンマーの旅でした。

April 23, 2014 in 人間の認知について, 旅をすることについて、旅をかたること, 訪れた場所のこと | | Comments (0)

2014.04.10

この怒りって感情はワタシの怒り??

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『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ


「なんでこんなこと言われなといけないの?」


誰かに口にされて怒りを覚えることって、誰でもあると思うのです。


けど、その「怒り」って感情をよーく見つめてみると、実は「ワタシの怒り」ではなくて「相手(口にした人間)の怒り」だったりすることってあると思うのです。


自分と他人との同一化


とかく、今の時代は「つながる」が一つのキーワードですから、他人と自分とがごちゃごちゃになりがち。


言葉のやりとりをしているうちに、「相手の怒り」が言葉と言霊を通じて自分に入ってきて、いつのまにか「ワタシの怒り」みたいに感じてしまうわけです。


だから、「他人の怒りを引き受けて怒ることでしんどくなる」なんてことが起きてくるわけです。


怒りを覚えたら、その感情を徹底的に観ること。「その怒りの主体は誰なのか?」を観察すること。


そうすることで、自分と他人との境界がひかれ、「他人の怒りを引き受けない」なーんて心の平安がもたらされることでしょう。


人間、エネルギーは有限。


他の人の怒りを引き受けてエネルギーを消費するのはもったいない、です。


インドの宗教的哲学者クリシュナムルティは、「感情を観察すること」の大切さを教えてくれます。


人は、自分の感情を観察するするよりも感情に任せて動いた方がラクチン。だから、自分の感情のみならず、他人の感情までを引き受けてアクションに精を出そうとするのでしょう。


感情が揺れた時に自分の心を観察できる冷静さが、叡智というものなのでしょう。

April 10, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.04.09

無邪気な自分にかえろう

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「無邪気さ」


「この人、スゴいなあ〜」と感じる人の共通項をあえて挙げると自分の場合はこれ。


タロットカードでいうと「0番」の「愚者」。


けど、本当に「愚者」では人生は歩めないわけで・・・


ある程度の社会性や生きる手段としての知識や教養は必要なわけです。


けど、あくまでもそれらは「どのような人生を送りたいか?」という目的に対する「手段」にすぎないかと。


手段と目的の混合はしないようにしないとですね。


赤ちゃんの「無邪気さ」には何かしらの意図があると思えないのを見ても分かるように、これって持とうとして持てるものじゃないと思うのです。


どこか自然と漂ってくる・・・いうなれば、人間の心の様相が世界に発信されたもの。


世の中は自分の味方だ、という安心感。


無くなっても必要ならば戻ってくる、という信頼感。


Doing(すること)ではなく、Being(在ること)で自分を見ていてくれる人がいる、という確信感。


こんな心の様相が、「無邪気さ」となって現れるのかと。


人は人間関係の中で「無邪気さ」をなくしていき、再び人間関係の中で「無邪気さ」を取り戻していくもの。


生育の過程で毀損した「無邪気さ」を取り戻す第一歩は、「無邪気な人」の近くにいることなんじゃないか、と思います。


空気の香りが知らない間に洋服にしみ込むように、じょじょに何かが変わっていくものじゃないでしょうかね。

April 9, 2014 in 人間の成長について, 感じたこと | | Comments (0)

2014.04.08

戸隠神社の五社参りにいきました

戸隠神社(長野県)の五社参りにいきました。

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結晶が見えるほど微細な雪が、風に吹かれて舞う大雪の中での参拝。

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残念ながら奥社にはいけませんでしたが、粉雪が舞う光景は「人間の穢れや罪が祓われる」ように見えました。


中社で御朱印をいただき、車に乗って戻ろうとすると、雪がぱたっと止んで雪空の中から太陽が・・・

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そして、市内に戻る頃にはすばらしく幻想的な光景になっていました。

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「天の岩戸が開く」というのは、このような世界に触れることで、自分の内なる岩戸が開くことをいうのかもしれませんね。


追記
今週末は『日本の神様カード』ミニ版の発売記念ワークショップで神道学博士の三橋先生の講座が渋谷(東京都)であります。私も冒頭、『日本の神様カード』誕生までのものがたり、についてお話しさせていただきます。

「神様とつながり、楽に生きる生き方とは in 東京」

よろしければお越しください。


April 8, 2014 in 感じたこと, 精神的なこと, 訪れた場所のこと | | Comments (0)

2014.04.04

イメージすることは力である

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古今東西、人間は言語化できないものをイメージの力で形にしてきた。


イメージができると、人は安定する。


姿が現れることによって、コントロール下に置けるから。


姿が現れることによって、自己同一化から脱却できるから。


姿が現れることによって、周囲との対話が可能になるから。


今の時代、市井の一個人は「イメージされたものに囲まれている」時代感を生きていて、自らが「イメージ化」する機会がなくなっている。


便利といえば便利、ラクといえばラク。


人間を悩ます死や病、老いや苦しみへの恐怖。みえないものへの怖れや自然への畏敬・・・イメージが不足するからいいようのない怖さが増長する、といえないでしょうかね。


イメージすることは、力です。生を地に足つけて生きていくための主体的な働きかけです。


「イメージの力」展 6月9日まで国立新美術館で開催です。世界各国のお面の展示コーナーはなかなか圧巻でした。


この展覧会のネーミングをした方のセンスはすばらしいですわ。

April 4, 2014 in 人間の認知について, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.04.03

知らないうちに反知性主義に毒されていないだろうか?

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『ヤンキー化する日本』斉藤環


「行動してみなければ分からない」


確かにそれは、そう。


机上で考えるのと、現場で行動するのは確実にギャップが存在する。行動してみなければ、確かにこの世はわからないことだらけ。


でも、そこに「反知性主義に毒された自分」がいないかを自覚することは大事なこと。


「反知性主義」とは、じっくりと考えたり、情報を徹底的に集めたり、人の話をきいたり、歴史を調べたり・・・これらを「意味なきこと」としてしまう姿勢ですね。


敵と味方の戦力の違いを無視して無謀な戦争に突入した我が国の歴史を顧みるまでもなく、反知性主義はいたるところに蔓延するもの。


おそらく、知性主義を働かせると「見たくない現実」にぶちあたってしまうからなのでしょう。


例えば新しくビジネスをたちあげるとします。


そこで必要なのは、「気合い」でも「行動」でもないんです。まずは、徹底的な「知性」。自分がやっていくことに関して、知る(調べる)ことですね。


とかく、「知る」は「行動」に比べて地味。で、頭を使うし、しんどい作業です。(特に、起業を立ち上げるタイプの人は行動重視の人が多いでしょうし・・・)


「行動」には、なんとなくの「忙しい感」を伴います。心身が「オレはやってる感」に包まれます。


一方、「知る」には、「オレはなにやってるんだろ感」だとか「行動しなきゃヤバい感」がもたげたりします。


このじっくりと知性に向き合ってられないってそわそわした感覚が、知らずのうちに身につけている「ヤンキー化」した部分なのでしょう。


誰の心にもヤンキーはいる。これが僕の基本的な考え方だ。素直にヤンキースタイルを生きる者もいれば、嫌悪とともにそれを“否認”する者もいるだろう。しかし僕の見るところ、現代はヤンキー文化のエッセンスが、かつてないほど広く拡散した時代だ、むしろ自明すぎて見えなくなっているとすら言える。(P8)


著者のこの言葉、納得ですね。

April 3, 2014 in 人間の認知について, 仕事のことについて, 感じたこと, 経営をするということ | | Comments (0)

2014.04.01

人間は都合よく記憶を書き換えている

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「人間は自分にとって都合のいいように妄想し、自分にとって都合のいい事実だけ信じる」


先週末に公開のこの映画。自分なりにあえて主題をまとめてしまうとこんな感じか。
白ゆき姫殺人事件 オフィシャルサイト


『白ゆき姫殺人事件』というタイトルのもつ語感が、なんかサスペンスチックで、映画の持つ魅力を引き出せていないのでは?というシロート考えはあるものの、現代人必見の映画です。


「あの時に、こんなことがあった」だとか


「あの時に、こんなこと言われた」だとか


「あの人にはあんなことをしてしてあげたのに」だとか


人間の過去の記憶(エピソード記憶)ってのは、たいがいは自分にとって都合のいいように書き換えられていていい加減なものなわけです。(こういう学術的研究もあるようですね)


けど、「ワタクシ」(私)をコントロールする司令塔の脳みそは、絶対的な万能感を持っている。


だから、「私が記憶していることは、間違いがないはずだ!だって、私自身のことじゃん!」とになるわけですね。


そういう人に、「エピソード記憶なんていい加減なものじゃん!」なんて言おうものならたいがいは、反発をされるわけです。


この映画は「人間のエピソード記憶なんていい加減なもの」というメッセージ(&具体例)を観る人に与えてくれます。


それぞれが、自分にとって都合のいいエピソード記憶同士のぶつかり会い


そこを理解してはじめて「自分の記憶も間違っているかもな?」という謙遜の精神や、「あいつのいっていることにも一理あるかもな?」という気持ちが他人に対して生まれてくるんじゃないでしょうかね?


「絶対」「間違いなく」「確実に」


が多用されるということは、おそらくエピソード記憶に固着しているってサインです。


ここから離れる勇気(固着は安心と安定をもたらしますから離れるのには勇気が必要ですね)と自在さを持つことは、他への共感への第一歩になるんでしょう。


「これって本当なんですかね?」


この映画でふいにでてくるこの一言、なかなか深いですよ。

April 1, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること, 観た映画、読んだ本、行ったイベント, 言葉について | | Comments (0)