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2014.05.26

「不幸な自分」と遊ばない

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映画『晴天の霹靂』(5月24日公開)


自分の中にいる「不幸な自分」


「もっと生まれた環境がよければ、もっとマシな人生を歩けたのに」、だとか・・・


「もっと身体が強ければ、精力的に活動できたのに」、だとか・・・


「もっと学ぶ環境にあれば、苦労しなくてすんだのに」、だとか。


「不幸な自分」ってのは、(何らかの意図の基に)自分が造り出しているんじゃないでしょうかね?


「不幸な自分」と遊ぶのは、「できごとがうまく行かなくてもしょうがない自分」、「努力しなくてもいい自分」を無意識のうちに創っちゃうということ。


マンガ『ドラえもん』に出てくる勉強もスポーツもダメな主人公「のび太」。


彼が自分の出生した頃にタイムトラベルして、「どれだけ親から期待されて生まれてきたか?」を知ってから一生懸命に勉強するシーンがあります。


たぶんこのシーンって、「『不幸な自分』と遊ぶスイッチがオフになった瞬間なんじゃないのかな」とこの映画を観て思いました。


「不幸な自分」と遊ぶも遊ばないも、自らの選択のうちにあるということなのでしょう。


我々はかくも崇高なテーマ、を子供の頃みていたマンガで突きつけられていたのかもしれません。

May 26, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の認知について, 感じたこと, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.05.23

「人ごと」にもちっと市民権を

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AさんがBさんに悩みごとを相談しているワンシーン。


自分の悩みやそれに付随する怒りや寂しさといった感情をしゃべるAさん。そして、それを聞くBさん。


Bさんの反応は真摯にして冷静、かつ沈着。


それを観たAさんが「ちょっと、もっと私の立場に立ってよ」と怒り出す・・・。


ヒプノセラピー(催眠療法)を習っていた頃、こんな事例で「Aさん、Bさんについてどう思うか?」と問われたことをふと思い出す。


「Aさんの感情が動いたように、Bさんが怒ったり悲しんだりする」


これによって、Aさんに一種のカタルシスが起こるのは容易に想像できる。「Bさんがは自分と同じ立場になってくれている」と受け入れられた感覚は、時に悩んでいるバカバカしさに気がつくようなパワーにもなるかもしれない。


けど、仮に「Aさんの話を聞いてもBさんの感情が動かない」なんて場合。


・・・それでも感情移入をするフリ(?)をするのが二人の人間関係にとっていいことなんでしょうかね?


ってか、悩み事の相談って案外とこのパターンの方が多いいのじゃないかしら?(家族、親族などスゴーく近しい関係はのぞきます)


「人ごと」


この言葉の持つ語感ってどこか冷たくて、つけはなす感じがしますけど、自分はもうちょっと「人ごと」って言葉にいい意味での市民権(?)を与えたいのです。


人間が悩むと、どうしても「自分と悩みの同一化」が起こります。自分の中のどこかに悩みがあって、それがどんどんと肥大化してくる感覚に襲われます。


けど、ほんらい「自分」と「悩み」ってのは別物


「悩み」という感情が何かの反応として体内に起こっただけで、「自分」ってのはそれにおかされるものではないはずです。


自分の悩みなんだけど、どこか「人ごと」


たぶんそんな立ち位置が、「自分」と「悩み」を分離させ、「悩みに巻き込まれない自分」をつくるんじゃないか、と。そこから解決の扉が開くんじゃないか、と。


「人ごと」だから冷静に、「人ごと」だから高いレイヤーで考えられるなんてことは、この世にゴマンとあるでしょうしね。


追記
世の中には、「解決を求めていない『悩み』」なんてのもあって・・・。自分も含めた多くの男性諸氏は、ここに「解決」ってスタンスでつっこむ性質がどうもあるようで。


こうした「悩み」の場合は、時には自分を役者にして(?)でも一緒になって怒ったり悲しんだりすることでカタルシスのお手伝いをするのがいいのかもしれませんね。


「解決したい悩み」と「単に共感してもらいたい悩み」と見極める叡智を多くの男性諸氏に(笑)

May 23, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0)

2014.05.22

「酒をたくさん飲める自分でいたい」というイメージ

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3月に「右足ふくらはぎ」が、4月に「左ふくらはぎ」が相次いで肉離れに。


今回は内出血して足がパンパンに腫れる始末で、運動も外出しての酒も控え目にしてようやく回復の兆しがみえてきました。


1年半前に「ぎっくり腰」をやって5日間動けなかった時からの一連の流れ・・・


これらのできごとは、自分に何を突きつけているのかしら?


今回、なんとなく酒を控えめにしてみました。「病気でもないのに1週間断酒」などをいう挙行(?)は十数年以上ぶり。


すると・・・


「『酒をたくさん飲める自分』ってイメージでいたい自分」がどこかにいることに気がつきました(笑)


自分は大学の時に「酒を大量に飲めるようになりたい」と心底思いました。格闘技やプロレスにかぶれてましたから、そんなのが男らしいなどと思ったわけです(苦笑。そいや、昔のレスラーには酒豪伝説がたくさんありました)。


で、飲めない酒を飲んで、街で修業して・・・それが、ある瞬間(まさに、ある寒い夕方の一瞬でした!)からいきなり酒が好きになりました。その瞬間から、量が飲めるようになりました。あれから25年あまり・・・


「20歳の頃につくられた、『自分はこうありたい』ってセルフイメージ像」


そんなものに知らず知らずのうちに固着していた40過ぎの自分・・・


根拠のない関連づけかもしれないけど、今回の肉離れが「そんな固着したくだらないものから自由になりなさい」と言っているようで・・・。


心理学者のユングが提唱した「中年期に訪れる深刻な意識の変容」(ミッドライフクライシス)ってやつかしらね?


とまれ、「酒をたくさん飲める」ってセルフイメージから離れるようにしていこうか、と。親愛なる酒飲み仲間の諸君、酒は辞めないのでご安心(?)を(笑)


ただ、酒量はいままでより減るかもね。

May 22, 2014 in 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0)

2014.05.21

ミャンマーで「これからどうしたらいいか?」を思ってみた

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「自分はこれからどうしたらいいのだろう?」


こないだ訪れたミャンマー旅行の最終日。2時間ほど時間があったのでこんな質問をしてパゴダで瞑想してみる。


「ってか、めちゃ抽象的な質問だよな・・・」


と自己突っ込みをいれながら座ること数分・・・。なぜか、次々と知っている人の顔が頭をよぎる。


創業時からお世話になっているお客さんやコンサルタント。うちの社員やお世話になった著者の方々。
海外のお取引先やプライベートでの友達・・・


「ん?なんだこれ?」

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せっかく(?)なので持っていた文庫本に出てきた方の名前を次々と書いていく。書けば書くほどどんどんと知っている人が思い出されて、およそ90分で380人近くが頭をよぎる。


で、途中から気がつく。


「! この人たちは、初めてミャンマーに来た時にはご縁がなかった人ばかりじゃん」と。


はじめてミャンマーを訪れたのは無職(夢職?)中の1997年。時間だけはふんだんにあったから好きな所に旅をしてたんだけど、将来に対する展望がまったく描けなかった頃。借金もあったしね。


「なんとかなるよ」って自分自身に言い聞かせている言葉が、本心なのか強がりなのかがよく分からないフワフワしている・・・今思えばそんな感覚。


けど、17年後の自分はその時には想像もできなかった人との出会いがあったわけで・・・で、その方との出会いが自分自身を創ってきたわけで、今やっている仕事や役割を創ってきたわけで・・・


その数の多さと多彩さにそれはそれは驚きだったわけです。


人と人との出会いは、たぶん「大いなる存在(サムシンググレート)の領域」。


自分にもたらされた「出会い」に「どのようにレスポンスをし、どのように行動につなげていくか?」・・・


たぶん、人間にはここまでしかコントロールが許されていないんじゃないかしら?


そんなことを考えると、「自分はこれからをどうしたらいいか?」なんて思うことが分不相応なように思えてきて、バカバカしく思えてきて・・・


明日からの出会いに「ちゃんとレスポンスし、ちゃんと行動してけばいいんじゃねえか」と思ったわけなのです。「それが自分のできる全てじゃないか」と思ったわけなのです。


そんな感覚が肚に落ちると、ちょっとだけ世界に対してオープンな心持ちになれた気がしたわけです。世界を信用しよう、って感じになれた気がしたわけです。


で、そんな心持ちに新しいに「出会い」は宿るんじゃないか、とも。

May 21, 2014 in 感じたこと, 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (0)

2014.05.20

人生は短く、訪れたい場所は多い〜福岡&熊本に行きました

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↑日本三大下り宮・草部吉見神社(熊本県)

↓登母祖ストーンサークル(熊本県)
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「新しい土地を訪れれば訪れるほど、知らないことの多さに驚く」


週末は『日本の神様カード』のワークショップで著者の大野百合子さんと福岡、熊本を訪れました。まさに、「知らないことの多さに驚く」日々。


一生をかけて「知らないこと」をつぶしていくのが実り多き人生なのか?


それとも、「知らないこと」を「知らないことは知らない」として、そのままにしておくのが実り多き人生なのか?


うーん、前者はエキサイティングだが貪欲すぎて疲れそう。後者は、「足るを知り」「与えられた環境で咲く」感が満載だけど、どどこかつまらなそう。


このへんの選択は、その人間の持って生まれた天命や資質にかかわってくるのだろうなあ。


自分は元旅人だったこともありまして、生涯「知らないことを体験していく人生」を選択したいな、と思うわけです。


「知らないこと」をどんどんと知っていくと、次から次へと「知らないこと」がやってくるのは経験として分かっているわけです。


それは時に、時間とお金と体力の有限さを前に「どう考えても足りねえよ」って絶望的な感覚に追い込まれることもあるわけです。


それでも、そこに突っ込んでいかずにはおられない己の資質・・・


平均年齢の半分を超える齢になって「知らないこと」の多さに一抹の焦りを感じ、「あと、何年生きられるのか?」と考えた時に、「きちんと勉強しとけよ、歳取って後悔するからな」と予備校時代の先生の言葉が頭をよぎる


まあ、あの時の自分はそれを言葉の深い意味で受け入れられなかったんだから仕方ない(笑)


「人生は短く、訪れたい場所は多い」


インドのヨガ哲学も日本の神話も「貪欲」はいましめていますが、ことここに関しては貪欲スイッチをオンにしていこうと思いました。


福岡、熊本でお世話になりました皆様。講座にご参加いただいた皆様。担当いただいた大野百合子さん、大変ありがとうございました。

May 20, 2014 in 感じたこと, 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (0)

2014.05.07

「岩戸」が開いて、愛が広がっていく

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「愛することってどういうことかよくわからない」


セラピーの現場にはこういう相談がよく寄せられるそうですね。


自分自身がセラピーを習ったり受けたりした経験から、これを分析的なアプローチで解決するのはどうも難しいと思うのです。


「過ぎた過去にとらわれ、そのとらわれに固執し、その固執からくる心地よさ」


注意しないとそんな心地よさを感じてしまう危険性があると思うのです。


過去は書き換えが可能なのですから、自分の愛のボトルが残り僅かになっているのであれば、埋めるために動いた方がいいと思うのです。生きていくということは、そんな主体的な意志を世の中に向けることだと思うのです。


では、「愛」について悩む方にどう具体的な道を示すか?


たぶん、なくした物はなくした場所で取り戻すしかないわけです。


「愛」ある場所に身を置いて、「『愛』とはこんなものかな?」と身体で感じていくしかないわけです。


そんな場所に身を置いた時に感じる気恥ずかしさ、そんな場所に身を置いた時に感じる違和感、そんな場所に身を置いた時に感じる疎外感・・・


そんな感情を抱きながらでも、「いつかなにか感じたらいいな」的に身体で感じていくしかないわけです。


GW中に行われたフラワーエッセンスの世界大会「国際フラワーエッセンスコンファレンス」は、まさに愛と調和に満ちたイベントでした。


どれだけスゴかったかというと、普段「愛」などとブログに書かない自分が「愛」をテーマにしているほど素晴らしかった(笑)


『古事記』に天の岩戸からアマテラス様が出られて、世界に光が戻ったというお話しがあります。


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アイデァを出した神様(オモイカネノカミ)、アイデァが正しいか占った神様(フトダマノミコト)、力強く岩戸を押しあけた神様(アメノタジカラオノカミ)、鏡を用意された神様(イシコリドメノミコト)、岩戸の前で踊った神様(アメノウズメノミコト)・・・


さまざまな神様の協力で、世界に光が戻ったというこのお話し。


これって、「周囲の力を借りて人間の愛が広がっていく物語」と読めないでしょうかね?


人は一人では愛の岩戸を開けることができないわけで、さまざまな方の協力が必要だ、とおそらく古の叡智は語っているのでしょう。


世界各国から集まったさまざまなゲストスピーカー、イベントを実行された関係各位、参加された多くの方々とのふれあう中で、多くの方の「岩戸」が開いたんじゃないでしょうかね。


12年ぶりの貴重なイベントに立ち会えた運命に感謝。お会いしたみなさま、お疲れさまでした!

May 7, 2014 in 感じたこと, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.05.01

ミャンマーの「パワースポット」を訪れて

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ミャンマー人であれば誰でも知る聖人・ボーミンガウが瞑想修業(1938〜52年の間らしいです)されたポッパ山を訪れました。

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17年前にミャンマーを旅した時にはすぐ近くの街までいったのですが、「交通費(たぶん、往復で1000円くらい。。)がもったいない」のと「移動が面倒(バスで2時間くらい)」だったので、今回初めていくことができました。


「パワースポット」


いつのまにか誕生し、いつのまにか生活に入り込んでいるこの言葉。


自分はこの言葉が持つ「操的なエネルギー」(?)がどうも好きではないのですが、「世の中には他とは違う空間が存在する」という宣伝の役割(?)は果たしてくれていますね。


このポッパ山、まさに「普通とは違う空間」でした。


断崖絶壁の頂上に創られた仏塔。そこに至るまでの修業場の数々、精霊と共存して生きているミャンマー人の世界観・・・


「よくぞ、こんなところにこんな場所を創ったな。スゲエなあ」


そんな人間の想念が重なると、その場所には何かしらのフィールドができるんでしょう。で、その「何かしらのフィールド」が次にこの場所を訪れた人の新たな想念を生む・・・。


人間には、「この場所はどこか違う」を感じるセンサーみたいなのがどこかにあるもの。


それを、「パワースポット」なる英語とも日本語ともいえない言葉でひとくくりにするセンス。人間が感じられる微細な感覚をどこかぶったぎってる語感。


そんなところが気に入らないんだな、と思いました。


ってか、せっかく聖地を訪れたのだからもっとまともなことを考えてこいよ、という感じなのですが(笑)


でも、手あかのついた紋切り型の言葉を使おうとしないことで研ぎすまされていく感覚ってものがあると思います。

May 1, 2014 in 旅をすることについて、旅をかたること, 訪れた場所のこと | | Comments (0)