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2020.06.22

ライブの講座が復活

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2月の下旬に淡路島(兵庫県)で講座がありました。 

 

 

その辺りから世界は一変、3月からの講座が次々と休止・延期となってしまいました。 

 

 

去年は本の発売イベントもありましたから、1年で100回くらいは講座や勉強会をしたでしょうかね。それがなくなるわけですから、スケジュール激変です。 

 

 

土日は何らかの予定が入っていましたし、地方にいくことも多かったですから、「ああ、いままでなんだか忙しかったなあ・・・」としみじみと感じました。 

 

 

なんだか、急行列車からいきなり各駅停車(それもしょっちゅう駅でとまる夜行電車)に乗り換えたような気分といったらいいのでしょうかね。 

 

 

それから、約3か月。ようやくと、リアルな講座が復活のきざしを見せてきました。 

 

 

先週は、「スモールビジネスのためのグループコンサルティング」が4か月ぶりに再開し、今週はインドのヨーガ哲学の講座が再開します。 

 

 

来月早々には、地方都市でインド哲学と瞑想の講座を担当する予定です。感染には気を付けつつ、とはいえ過剰防衛にならないようにしつつ、ですね。 

 

 

ここしばらくの講座では、「ここ数か月の激動が自分にとってどんな意味合いがあったか?」をシェアしていきたいと思います。 

 

 

「意味なんてないよ、たんにウィルスが猛威をふるっただけだ」という考えもあるでしょう。 

 

 

でもわたしは、「人生に自分なりの意味づけをすると、地に足ついた生き方ができる」という信念(信仰?)を思っています。 

 

 

そう、ナチスの強制収容所から生還した心理学者・フランクル博士が名著『夜と霧』で提唱した生き方ですね。 

 

 

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ヴィクトール・エミール・フランクル(1905~1997) 

 

 

ナチスの強制収容所というこれ以上ない絶望。 

 

 

そんなの中でも「自分にとっての意味」を追求した人は、絶望に負けず、自分の人生を力強く生き抜いたという有名な話は、いまの時代だからこそ輝きを放つような気がします。 

 

 

そのうち、機会があれば『夜と霧』の読書会などもしていきたいですね。この話は、インド哲学とも共通するところがある深いテーマですし。人類普遍の真理が説かれている、といったらいいすぎでしょうかね。 

 

 

ともあれ、講座が再開しました。ご一緒するみなさん、よろしくお願いいたします。 

 

 


June 22, 2020 in 経営をするということ仕事のことについてイベント情報 | | Comments (0)

2020.06.18

これから先、世界はどう展開していくか?

 

 

「これから先、時代はどう展開していくか?」

 

 

起業家の仕事の一つは、これを考えることです。

 

 

たとえば、「新しい働き方としてリモートワークを導入する会社が増えた」という報道があるとします。

 

 

こうしたニュースをそのまま取り入れるのでは、たんなる情報の受け売り。それならば、インターネットを駆使する小学生や中学生にだっていっぱしの意見を語れるということことになりますよね。

 

 

経営の教科書に照らすならば、

 

 

・果たしてこの報道は本当なのだろうか??

 

・もし本当なら、リモートワークによって世界はどのような影響を受けるのだろうか?

 

・世界の変化は、自分の仕事にどのような影響を与えるのだろうか?

 

・仮に、自分の仕事に「悪い影響」があるとしたら、リスクヘッジ(危機回避)はできないだろうか?

 

 

くらいは起業家ならやって当然、といわれるでしょう。(ここでは、わたしができているかどうかは不問にします)

 

  

けど、「時代はどう展開していくか?」など考えなくても、目先の仕事は回すことはできます。

 

 

で、ただでさえ忙しいのに、「時代はどう展開していくか?」など考える時間やエネルギーはもったいないようにも感じます。

 

 

さらに、「時代はどう展開していくか?」など考えても、その通りになるかどうかなんてわかりません。(というか、預言者でもない限りたいがいは外れるでしょう)

 

 

だから、「やればいいのはわかるけど、ついつい後回しになってしまう」のがこの手の仕事ですね。

 

 

これ、「地震への備え」だとか「健康のための食生活の見直し」と一緒ですね。やればいいのはわかってるけど・・・ってやつです。

 

 

でも、この手の質問に嫌でも向き合わないといけない時があります。

それが、今のような「緊急時」ですね。

 

 

「これから先、世界はどのように展開していくか?」を自問することは、「未来に対して考える手掛かり」をつくること。

 

 

「緊急時」は、この「手掛かり」がとにもかくにも大事になります。

 

 

なぜなら、「手掛かり」がなければ、進む方向の予測がつかないからです。で、予測がつかないということは、激しい時代の流れに単純に身を任せることになるからです。

 

 

「平時」だったらそれでもいいのでしょう。

 

 

さざなみのような波に一喜一憂しながら、身を任せていても海水浴気分でいられるでしょう。たまに激しい波がやってくるのも、「おお、刺激的!」って感じかもしれません。

 

 

でも、「緊急時」は別です。激しい流れがいきなりやってくる。そして、自分やその周囲を一気に飲み込んでしまう危険性がありますからね。「平時」のマインドをとにかく捨て去らないといけない。

 

 

平時には優秀なリーダーの違いは分からない。けど、緊急時になると、それが明確になる。

 

 

歴史でよくみられるこの真理は、いまの時代にこそあてはまるのでしょう。

 

 

ここ最近、優秀な経営者がインタビューを受けている様子をみると、明らかに「緊急時」の顔になっているのがとても印象的ですわ。

 

June 18, 2020 in 経営をするということ仕事のことについて | | Comments (0)

2020.06.16

「誰々が◎◎と言っていた」の被害から身を守るために

 

 

誰かとコミュニケーションをしているとします。

 

 

で、その時に「誰々(そこにはいない第三者)があなたのことを◎◎と言っていた」という言葉がでてくるとします。

 

 

それが自分にとってネガティブなことだとすると、たいがいは心が揺れますよね。

 

 

「あの人はそう思っていたんだ・・・」と時には落ち込んだり、「あいつにそんなこと言える筋合いがあるのか?」と逆に攻撃をしたくなったりするかもしれません。

 

 

けど、残念なことにこの手のコミュニケーションばかり繰り返す人というのは一定数いるようです。心理学の世界でもちゃんと症状として名前がついていて、対策だとか注意ポイントだとかがまとまっているようですね。ここでは詳細を控えますけど。

 

 

私も過去にこの手の戯言に翻弄されひどい目にあったことがありましたから、以降は「誰々が◎◎と言っていた」という発言にはとても敏感です。

 

 

会話でこの言葉ができたら「へえ、そうなんだ。じゃあ本人に確認してみるわ」というように習慣づけておく。

 

 

これを口にすると「わたしは『あなたのために』意を決して話をしたのだから、直接話をされると・・・」って困った反応が多いですね。まあ、陰口を話しているのですから狼狽するのも当たり前なんですが(笑)

 

 

この切り替えしをしていくことで、この手の発言を繰り返す人は寄り付かなくなってくるようです。または、この手の発言をしないようになるみたいですね。

 

 

きっと、「誰々が◎◎と言っている」って発言は、自分の言葉にコントロールされやすい人間を選んで発言しているのでしょう。自分が変われば、世界が変わるわけです。

 

で、こうしたコミュニケーションには他にも別バージョンがあります。

 

 

そのうちのひとつが、「神さまが◎◎とおっしゃっているいる」だとか「天の啓示で〇〇が聞こえている」というやつですね。

 

 

わたしは見えない世界が好きですし、その存在を信じています。だから、「神さまのお言葉(託宣)」や「天からの啓示」なるものは確かにあると思います。

 

 

けど、1対1のコミュニケーションにおいてこの手の言葉が語られる。更に、その発言が自分にとってとてもネガティブな場合。これは、注意しないといけないと思います。

 

 

だってこれ、よくよく考えれば「誰々が◎◎と口にしていた」と同じ構造ですから。

 

 

人間関係だけの話であれば、前述したように「へえ、本人に確認してみるわ」とやれば発言の真偽のほどはだいたいクリアーになってきます。

 

 

でも、「神様」や「天」といった「大いなるもの」がでてきてしまうと、「確認してみるわ」というわけにはいきませんからね。

 

 

1対1のコミュニケーションになぜか第三者の発言が入ってくる・・・。これは、そもそもおかしな話なんですよね。二人で第三者の悪口をいうのであればわかりますけど(笑)

 

 

大切なのは、「第三者が入ってくる脈絡のなさ」だったり「なんぜここでその話?」って違和感にまずは意識的になること。それが、「誰々が〇〇と言っていた問題」の被害から身を守る処世術といえるでしょう。

 

 

この手の問題は、そこかしこで見聞きするのでまとめてみました。またいずれ。

 

 

June 16, 2020 in 人間関係に関すること言葉について | | Comments (0)

2020.06.10

「説得力」って必要でしょうかね?

 

「説得力ある文章の書き方を教えます」

 

 

そんなタイトルのメルマガが届きました。ほとんど読んでいなかったメルマガですが、たまたまこの言葉にひっかかったのでブログのネタにしてみます。

 

 

まず、「説得力ある文章の書き方」を指南するということは、そういうニーズがあるということなんでしょう。一体、どんな人が受講されるんでしょうね?

 

 

SNSやブログで情報を発信している人

・広告や宣伝の仕事をしていて、商品の魅力をつたえたい人

・いつか本を出版したいと思っている人

・そもそも、文章をまとめるのが苦手な人

 

 

・・・想像するに、こういう感じの方でしょうかね。

 

 

わたしの関心は、「説得力ある文章の書き方」とあえて「説得力」という言葉をつけていることにあります。そもそも、「文章の書き方」ではいけないんでしょうかね?(これだとお客さんはそんなにこない感じがしますけどw)

 

 

そんなにまでして「説得力」って欲しいなら、その根底にはいったい何があるのでしょうね。

 

 

たとえば、ある世界の専門家になろうと志をたてるとします。最初は同じようなことをしている人も多いでしょう。同じ道を歩いている人の多さに、「この道を歩いて大丈夫だろうか?」と思うかもしれません。

 

 

けど、何十年も同じ道を進んでいれば、一緒に歩く人はごく少数になってくるはずです。諦めた人、道を変えた人、残念ながら亡くなった人・・・それがどの道においてもみられる世界の摂理です。

 

 

で、たんたんと続けていれば、いつかは「その道の専門家」になっているはずです。

 

 

そんな人が発信する専門分野についての情報は、「説得力」なんてのはいやでもでてくるでしょう。

 

 

「説得力」なんてのは、長年にわたる研鑽や、困難をクリアーした経験。自分の中での葛藤を乗り越えた自信、やるべきことをやってきたという誇り・・・

 

 

こうしたものから「結果として生まれるもの」なのかと思います。そんな蓄積なしに「説得力」を獲得しようなんてのは、ちょっとおこがましい話なわけです。

 

 

「説得力ある文章」講座では、文章のテクニックや、人の感情をコントロールする技術みたいなものを学ぶのかもしれません。けどそんなのは所詮付け焼刃。

 

 

一時的にこうしたテクニックが使えることはあっても、何年も継続的に使えるようなものではないでしょうにね。過去に「人間の感情を刺激するような文章を書いて、マーケティングに活かす」って手法が流行りましたが、数年もたたずに衰退した様子をみても明らかでしょう。

 

 

こうした付け焼刃でつくられた「説得力」には、どこかに「他人をうまくコントロールしたい」「他人に思い通りに動いてもらいたい」という空気感が漂っています。

 

 

「そんな人を小ばかにした人のサービスや商品を買いたいか?」

 

 

自分のことにあてはめて冷静に考えれば、明らかなんでしょうけどね。わたしは少なくともごめんこうむり。

 

 

「説得力」なんて「青い鳥」を探すよりも、他にやることがあるはずですし。

 

 

 



 

June 10, 2020 in 経営をするということ人間の美意識について仕事のことについて | | Comments (0)

2020.06.09

「考え過ぎる」を考える



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悩んでいる友達がいるとします。

 

 

で、周囲の人がいろいろと話を聞く。で、「あーでもない」「こーでもない」といろいろな話がでてくる。「話を聞く側」からしたら「なんでそこまで考えてるんだろ?」なんてことはよくあること。

 

 

だから、「ちょっと考え過ぎじゃない?」なんてアドバイスがでてくる。

 

 

けど、「悩んでいる側」からしたら、悩みを解決するために考えているわけでしょうから、「考え過ぎじゃない?」なんてのは、そもそもナンセンスな話であるわけです。

 

 

で、場合によっては「わたしは考え過ぎなのかしら??」と次の思考がはじまっていくわけです。

 

 

けど、「考え過ぎかどうか?」ってのは、自分自身で見極めることは困難です。自分の思考の働きを、自分自身で見極める。そして、判断しようとするわけですからね。

 

 

「自分とは何か?」という哲学的な問いがないままでこの質問に突入すると、どんどんとドツボにはまっていくんじゃないか、とわたしは思います。

 

 

そもそも、「我流で思考を働かせてもあまりいい結果にならない」が世の常ではないでしょうかね。

 

 

仏教を説いたお釈迦様ですら、お答えにならなかった質問があったといわれています。

 

 

◉「世界は永遠であるのか?」

◉「生命と身体は同一か?」

◉「修業を完成した人は死後に存在するのか?」

 

 

などなど、「無記」といわれている質問ですね。

 

 

これって、われわれが考えても解決できないようなことにいらぬエネルギーを使わないということではないでしょうかね。

 

 

私はインド哲学や仏教が好きですが、こうした叡智にはそこかしこに「考えられることにフォーカスし、考えられないこととにエネルギーを消耗させない」という空気感が漂っています。それがとても優しいな、と。

 

 

「考えてもしょうがないこと」と「考えてどうにかなること」

 

 

この二つの見極めをすることが「考えすぎる」への一番はじめの対処でしょう。

 

 

インド哲学や仏教にはこうした知恵が満載ですが、どうも現代では「信じる、信じない」的な話になってしまうのが残念ですね。

 

 

June 9, 2020 in 人間が悩むということ | | Comments (0)

2020.06.04

サンスクリット語を習っているわけ




 

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数年前からサンスクリット語を学んでいます。

 

インドの聖典(神聖な教え)などで使われている言葉ですね。一説には、サラスヴァティ女神(仏教の世界観では、弁才天)がお創りになられた言葉ともいわれています。

 

 

お寺などで見る梵語はサンスクリット語のことですし、ヨガで唱えられるマントラはほぼほぼサンスクリット語ですね。日本語の「お世話」「護摩」「彼岸」「旦那」なんて言葉は、元をたどるとサンスクリット語が源という説もあるようです。

 

 

なぜこの言葉を学ぼうかと思ったかというと、とあるインド思想の先生の本がきっかけです。

 

 

この方が、「日本語に翻訳されたインド聖典を読むのは、動物を檻の外から眺めているようなもの」(大塚の意訳です)といった趣旨のことを語られていたんですね。

 

 

これ、なかなか感情を刺激する言葉ですよね。だって「日本語で翻訳されたインドの聖典では、そのもの実態に触ることさえもできない」とも読み取れますしね。

 

 

でも、サンスクリット語を学ぶのはなかなか敷居が高い話でもあります。「サンスクリットは難しいらしい」という話はそこかしこで聞いていましたからね。そんなこんなで数年の時間が経っていたわけです。

 

 

そんな自分に転機が訪れたのは、2016年に訪れたインド。リシケシというヨガの聖地で「サンスクリット語を教える先生の家」にたまたまお邪魔したことです。

 

 

昔でいう寺子屋のような場所に、毎日10人くらいの生徒がやってきます。で、先生がそれぞれのノートに書いたサンスクリット語を、生徒がひたすらに書写していました。

 

 

手本となるサンスクリット語の難易度には生徒によって差があるようでしたが、文法などのテクニカルな話はまったくなし。ひたすら書写するんですね。

 

 

1回の授業は3040分でしたでしょうか。終わると先生からチャイとお菓子をいただき、生徒はそれぞれの持ち場へと帰っていく。毎日、これの繰り返しです。

 

 

「へええ、これでサンスクリット語が学べるのか・・・」となんだか不思議な感覚にとらわれたものです。どうしても言葉を習うには、文法書などから入らないとって先入観がありましたから。

 

 

でも、そこで10年以上にわたって学んでいる方(現地在住の日本人の女性です)のこんな話を聞いて、「あ、自分もやってみたい」と思いました。

 

 

「ここで10年以上サンスクリット語を学んでいる。文法などは一切わからないけど、この言葉のもつ魅力にとりつかれている。たぶん、一生学ぶのをやめることはない。」

 

 

「分からないけど、魅力に取りつかれるような言葉ってどんなだろ・・・」結局、この言葉がきっかけとなって、帰国後すぐに教室に通いはじめたんですね。

 

 

サンスクリット語を学んだからといって、インド人と会話できるわけではありません。旅行やビジネスがしやすくなったりするわけでもない。そういう意味でいうと「現代で活かせるメリットは圧倒的に少ない言葉」です。

 

 

でも、この言葉がもつ魅力は確実にあるはずです。

 

 

「人間のものの見方をニュートラルにしていくような働き」といったらいいのでしょうかね。「ありのものをありのままに見ていく働き」といったらいいのでしょうか。「心を静まるべきところに静めていく働き」といったらいいのでしょうか。

 

 

遅々として文法などの勉強は進んでいませんが、「この言葉をやめることだけはないのだろうな・・・」という心境にまではようやくたどり着いたというわけです。

 

 

こんなスタートラインの心境に至るまで、4年ちょっと。インドの叡智というのは、ずいぶんと長いスパンでものを考えるようで。。

 

 

いつか、経営などの世界でサンスクリット語の智慧が活かせていけたらいいですね。その可能性は十二分にあると思っています。

 


June 4, 2020 in 人間の認知について言葉について訪れた場所のこと | | Comments (0)

2020.06.02

「正義」というしがらみ

Photo_20200602132801なぜ人はカルトに惹かれるのか

瓜生 崇 (著)

 

30年くらい前でしたでしょうかね、宗教団体にはまった友達がいました。

 

 

「久ぶりに会わない」と喫茶店に呼び出され、近況報告もそこそこに「人間には10の悪がある」だとか「それを消滅しないと大変なことになる」とはじまりました。

 

 

「申し訳ないのだがまったく興味がない」と話をすると、偉い人(?)がいきなりやってきて僕らのテーブルに座り始めました。で、友達が話したようなテーマを次々となげかけてきます。

 

 

その時に気づいたのですが、僕のテーブルの周りは会話を聞き耳たててチェックしている宗教団体の関係者に囲まれていたようです。まあ周到だこと。

 

 

まあ、この人(30代と思しき女性)の口の立つこと立つこと。何を言っても機械のように返されます。友達の顔もあるのでしばし付き合っていたのですが、あまりの強引さに嫌気がさし「俺はあんたの話を聞くためにここにきたんじゃないんだよ」といって喫茶店を去りました。

 

 

帰りに、「あなたは一生不幸な目に合うんだわ」と高笑いされましたが、あの人こそたくさんのパーパカルマ(悪業)を積み重ねてないでしょうかね(笑)

 

 

今思うと、あの女性の何かにとりつかれたような物の言いよう。私からみたら「思考停止した人」のように感じました。

 

 

宗教的な教えが素晴らしいのか、教祖やグル(先生)が魅力的なのかわかりませんが、こちらの事情も一切忖度することなく「この教えは素晴らしい」と連呼するさまは「洗脳されてしまって何も考えていない人」に見えました。

 

 

でも、彼女から私をみたらどう見えたんでしょうね??

 

 

おそらく、「思考停止した人」に見えていたんじゃないかなと思うのです。「(社会の価値観やしきたりに)洗脳されてしまって何も考えていない人」にこちらを見ていたんじゃないかな、と。

 

 

「あなたは思考停止してるよ」という「正義」と「正義」が水面下でバチバチ戦いあうわけですから、まあ、決裂もするわけです。

 

 

さて、世界は「正義」が花盛りです。「正義」は表向きには、活きる力と力強い軸を与えてくれますからね。会話の中でも、SNSでの発信でも「正義」はいたるところで見つけることができます。

 

 

でも、過度の「正義」は「思考停止した人」の存在を創りだすようです。

 

 

  • あの人には、この教えが必要だ。だけど、何も考えていない・・・
  • あの人には、この先生が必要だ。だけど、受け入れるだけの器量がない・・・
  • あの人には、この情報が必要だ。だけど、テレビばかり見ているから知らない・・・

 

 

で、おせっかい気質の人は「思考停止をした人を助けたい!」となるわけですね。

 

 

でも、人はそれぞれの分野で「思考」を一生懸命働かせているわけです。他人には「洗脳されている」だとか「はまっている」だとかいうようにみえても、その人なりの真摯な気持ちでむきあっているわけです。

 

 

それを、「思考停止したように見る」ことからくる人間関係の問題は、そこかしこに存在しているんだと思います。

 

 

最近発売された『なぜ人はカルトに惹かれるのか』(瓜生祟著・法蔵館発行)を読んで、そんなことをぼやーっと思いました。

 

 

新興宗教などにみられるカルト団体についての本はたくさんありますが、この本はとても秀逸です。

 

 

近い人がカルトにお困りの方はもちろん、自分自身の「脱正義のためのガイドブック」としてこの本は有益でしょう。

 

自分よがりの「正義」に頼って得られた自信など、しょせんはもろいものですしね。そんな「自分というカルト」に気づき、縛られないためのヒントが満載です。ぜひ関心あれば、一読ください。

 

 

 

June 2, 2020 in 人間関係に関すること人間の認知について観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)