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2020.06.04

サンスクリット語を習っているわけ




 

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数年前からサンスクリット語を学んでいます。

 

インドの聖典(神聖な教え)などで使われている言葉ですね。一説には、サラスヴァティ女神(仏教の世界観では、弁才天)がお創りになられた言葉ともいわれています。

 

 

お寺などで見る梵語はサンスクリット語のことですし、ヨガで唱えられるマントラはほぼほぼサンスクリット語ですね。日本語の「お世話」「護摩」「彼岸」「旦那」なんて言葉は、元をたどるとサンスクリット語が源という説もあるようです。

 

 

なぜこの言葉を学ぼうかと思ったかというと、とあるインド思想の先生の本がきっかけです。

 

 

この方が、「日本語に翻訳されたインド聖典を読むのは、動物を檻の外から眺めているようなもの」(大塚の意訳です)といった趣旨のことを語られていたんですね。

 

 

これ、なかなか感情を刺激する言葉ですよね。だって「日本語で翻訳されたインドの聖典では、そのもの実態に触ることさえもできない」とも読み取れますしね。

 

 

でも、サンスクリット語を学ぶのはなかなか敷居が高い話でもあります。「サンスクリットは難しいらしい」という話はそこかしこで聞いていましたからね。そんなこんなで数年の時間が経っていたわけです。

 

 

そんな自分に転機が訪れたのは、2016年に訪れたインド。リシケシというヨガの聖地で「サンスクリット語を教える先生の家」にたまたまお邪魔したことです。

 

 

昔でいう寺子屋のような場所に、毎日10人くらいの生徒がやってきます。で、先生がそれぞれのノートに書いたサンスクリット語を、生徒がひたすらに書写していました。

 

 

手本となるサンスクリット語の難易度には生徒によって差があるようでしたが、文法などのテクニカルな話はまったくなし。ひたすら書写するんですね。

 

 

1回の授業は3040分でしたでしょうか。終わると先生からチャイとお菓子をいただき、生徒はそれぞれの持ち場へと帰っていく。毎日、これの繰り返しです。

 

 

「へええ、これでサンスクリット語が学べるのか・・・」となんだか不思議な感覚にとらわれたものです。どうしても言葉を習うには、文法書などから入らないとって先入観がありましたから。

 

 

でも、そこで10年以上にわたって学んでいる方(現地在住の日本人の女性です)のこんな話を聞いて、「あ、自分もやってみたい」と思いました。

 

 

「ここで10年以上サンスクリット語を学んでいる。文法などは一切わからないけど、この言葉のもつ魅力にとりつかれている。たぶん、一生学ぶのをやめることはない。」

 

 

「分からないけど、魅力に取りつかれるような言葉ってどんなだろ・・・」結局、この言葉がきっかけとなって、帰国後すぐに教室に通いはじめたんですね。

 

 

サンスクリット語を学んだからといって、インド人と会話できるわけではありません。旅行やビジネスがしやすくなったりするわけでもない。そういう意味でいうと「現代で活かせるメリットは圧倒的に少ない言葉」です。

 

 

でも、この言葉がもつ魅力は確実にあるはずです。

 

 

「人間のものの見方をニュートラルにしていくような働き」といったらいいのでしょうかね。「ありのものをありのままに見ていく働き」といったらいいのでしょうか。「心を静まるべきところに静めていく働き」といったらいいのでしょうか。

 

 

遅々として文法などの勉強は進んでいませんが、「この言葉をやめることだけはないのだろうな・・・」という心境にまではようやくたどり着いたというわけです。

 

 

こんなスタートラインの心境に至るまで、4年ちょっと。インドの叡智というのは、ずいぶんと長いスパンでものを考えるようで。。

 

 

いつか、経営などの世界でサンスクリット語の智慧が活かせていけたらいいですね。その可能性は十二分にあると思っています。

 


June 4, 2020 in 人間の認知について言葉について訪れた場所のこと |

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