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2020.08.18

私がインド哲学と縁ができたきっかけ(のひとつ)

 

「結果に執着せずに、行為に取り組む」

 

 

これ、インド哲学の大きな主題(テーマ)の一つ。俗に「カルマヨーガ」と呼ばれるものです。

 

 

我々の行為のほとんどは、「結果を意識してなされる」ものばかりです。

 

 

◎人間関係をつくるために(結果)、異業種交流会へ行く(行為)

 

◎他人からの「いいね!」を得るために(結果)、SNSに投稿をする(行為)

 

 

という具合ですね。

 

 

私は若い頃、数々の「成功法則」「自己啓発」の教えの洗礼を浴びました。セミナー行って、本やテープ(当時はカセットでしたw)を買って、とにかく食い荒らしました。

 

 

これらの「哲学」は、たいがいが「成功した姿をイメージすることの大切さ」が説かれます。ということは、「結果を意識しまくり」なわけです。

 

 

けど、インドの哲学ではそこにゆさぶりをかけるわけです。

 

 

自分が「これこそが正しい生き方だ!」と感じていたことが揺らされるので、人によっては「否定」や「疑い」といった形で反応してきます。当たり前といえば当たり前の反応ですね。

 

 

けど、中にはこういった話を聞くと「漠然とした質問」が頭の中にたちあがってくる人がいます。

 

 

Q:「結果を考えずに行動していたら、社会は成り立たなくないですか?」

 

Q:「結果を考えずに行動して、とんでもない未来になりませんか?」

 

Q:「結果を考えないのだとしたら、生き方が刹那的になりませんか?」

 

Q:「そもそもなぜ、こういう教えが大切だと説かれるのですか?」

 

 

たとえば、こんな反応ですね。

 

 

「否定するでも肯定するでもなく、自分の中に自然と質問がたちあがってきた」

 

 

これこそが、インド哲学のすべてのはじまりかと。

 

 

私は、31歳で会社をつくりました。運よく、数年後には会社は軌道に乗りました。最初は生活がカツカツでしたが、数年もすると倍々で収入は増えてきました。いままではいかないようなお店にいきはじめたのもこの頃ですね。

 

 

でも、いつしか自分の中に質問が立ち上がってきたのですね。

 

 

それは、「成功ってどこまでいったら成功なの?」というシンプルな質問でした。

 

 

「小さな成功をすると、次の成功が欲しくなる。で、さらにその次・・・」このループがずっと続くかと思うと、面白いような、チャレンジしたいような、うんざりするような、そのレースから逃げ出したいような複雑な気持ちが入り混じっていたことを今でも思い出します。

 

 

で、「この問いの答えはどこかにないか?」を探しにかかるわけです。

 

 

この世界、「問いが明確であれば、いつか答えはやってくる」摂理のようです。数年後、私は、インド哲学と巡り会うという僥倖に恵まれたというわけです。

 

 

August 18, 2020 | | Comments (0)

2020.08.17

「無念」を引き継ぐ

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毎年、お盆の時期にはここに慰霊にいきます。

 

 

先の戦争(太平洋戦争です)で「戦争犯罪人」として裁判にかけられた人が、処刑された場所といわれています。(ここが処刑場があった場所かどうか、本当かどうかは知りません。けど、このあたりであるのは間違いないはずです。)

 

 

個人の方が立てた碑らしいですが、反対運動もあったようですね。

 

 

そのためか、碑文にはとても抽象的な言葉しか書いてありません。ましてや、「戦争犯罪人」として処刑された方のお名前もありません。公園の一区画にあるこの碑がどんな意味合いを持つのか知らない人もきっと多数かと。

 

 

ここに慰霊にいった、というだけで「何を考えているんだ!」という人もいらっしゃるかもしれませんね。それは、靖国神社の閣僚参拝があれだけの問題になっているのを見ても明らかです。

 

 

けど、私が毎年ここにいくのは「戦争処理をめぐる戦後の混乱の中で、亡くなった方の『無念』をわずかでも引き継ぎたいな」と思うからです。

 

 

なぜ、そういう思いを持つかわからないのですけどね。思えば、若い頃からの心の奥底からの発動のようなものかと。

 

 

そうそ、そこには「右翼や左翼」「軍国主義や平和主義」といったイデオロギーは存在しません。むしろ、そんなものとは対極にある世界です。

 

 

「人は亡くなるときに、何かしらの『無念』を持つんじゃないか?」と思うのです。で、それを後世に引き継いでもらえる人生は、そうでない人生よりも豊かだと思うのです。

 

 

「戦争犯罪人」という最後は、我々が想像もできないほどの「無念」だったのかと。で、そんな「無念」を引き継ぐのは、同じ国で生きる(そして、そのメリットを存分に享受してきた)人間として当然だと思うのです。

 

 

「だって、戦争を起こした人たちでしょ?」「法律に基づいて処刑された人でしょ?」など、いろいなつっこみは入ると思います。

 

 

けど、処刑されたご本人たちはこれらにこたえるすべをもちません。それこそが、最大の「無念」のはず。

 

 

わたしの知っている中での「事実」を伝えることが、わずかばかりの「無念」に応えることなのかと思うのです。

 

 

いままで、ご縁ある方にこの辺のお話をしたことがありました。今年もどこかで機会があればやりたいですね。



August 17, 2020 in 訪れた場所のこと感じたこと | | Comments (0)

2020.08.05

主流か、傍流かって話



SNSを使って起業する」という話があります。

 

 

一見すると、なんとなく現実的な話に聞こえます。

 

 

SNSは多くの人との結びつきを可能にします。で、友達の友達とも次々と関係が結びやすいです。だから、サービスや商品を記事としてアップすると、申し込みが入ったりします。

 

 

けど、SNSってそもそも何?」ってことを考えると、「SNSを使って起業する」ことがいかに荒唐無稽かがクリアーになってくるはずです。

 

 

なぜなら、SNSには「商品を買いたい気分の人」「サービスを受けたい気分の人」がそもそも少ないからです。自分に置き換えていえば、わかりますよね。

 

 

SNS主流は、「暇つぶし」「なんとなく」「同じ趣味や好きなの人の情報をゲットしたい」「同じ趣味や志向の人とつながりたい」です。(あくまで、私の見立てですけど)

 

 

「ビジネスの情報をもらいたい!」「何かのサービスを受けたい」という人は、決していないわけではないでしょうけど、SNS全体からみたら傍流なのかと。

 

 

たとえば、Amazonというネット通販があります。

 

 

ここには「商品を買いたい気分」の人がたくさんいるわけです。そのための、仕掛けもたくさんあるわけです。

 

 

「この商品を買った人はこんな商品を買っています」ってリコメンド機能、ワンクリックで商品を購入できる機能。そのような仕掛けがお客さんをどんどんと「その気」にさせています。そのためのお金と人が投資されているわけです。

 

 

同じように、百貨店の高島屋や伊勢丹には「お金を使う気まんまんの気分」の人が、東京ディズニーランドにも「お土産を買う気まんまんの気分」の人がいるわけです。

 

 

こうした企業は時間をかけて「気分を持った人」とコミュニケーションをとってきたわけです。

 

 

そう考えると、起業して続けていくためのポイントは「商品を買う気持ちまんまんの人と適切なコミュニケーションをとる」ことが挙げられるかもしれませんね。

 

 

そこは、SNSのように「すぐに」「誰とでも」「インスタントに結びつく」ことができる世界ではありません。

 

 

「時間をかけて」「自分のサービスを好んでくれる人と」「じっくりと関係をつくっていく」世界です。

 

 

前者が刹那的な一瞬一瞬の付き合いだとすると、後者は成熟した大人の付き合いといってもいいかもしれないですね。

 

 

個人起業家であっても、ここを目指さしたいものですね。

 

 

でないと、一発花火を打ち上げることはできても、永続的に仕事を続けていくことはできにくいでしょうし。そのためには、主流と傍流とを取り違えないことが大切なのかと。

 

 

August 5, 2020 in 経営をするということ仕事のことについて | | Comments (0)