2015.04.22

人間関係が難しいんじゃなくて、「が(我)」の取扱が難しい

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会社を立ち上げて、人をいれる。


その人に居場所と役割をつくろうと、社長は一生懸命に任せる仕事を考える。


仕事が順調に推移していき、任された側のオリジナリティも発揮されてくる。


これで、万事オッケーなはずなのだが、両者のバランスが崩れるとそうはいかなくなるわけで。。。


社長は「私が与えた仕事」と、任された側は「私がつくってきた仕事」と思う。


大切なのは、お互いに「私が」の「が」をどこかにやってしまうこと。


人間関係が難しいのではなく、己の「が(我)」の取り扱いが難しいというだけのこと。


今のところ、ここは経営学ではなく哲学や心理学の範疇。経営学者、研究テーマたくさんね(笑)

↓↓以下、5〜6月で決定している予定です。


『日本の神様カード』講座 in名古屋 5月30日(土)


『日本の神様カード』講座 in広島 6月5日(土)


『日本の神様カード』ワークショップin京都 6月14日(日)※神様カード著者の大野百合子さんの講座です。私も参加!


神道学者•三橋健先生と訪ねる武蔵御嶽神社巡り 6月21日(日)〜22日(月)※神道学者の三橋先生と青梅の武蔵御嶽神社にまいります。私も参加!


April 22, 2015 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.04.07

好き、嫌い、どうでもいい

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万人に薄っぺらく好かれるよりも、


ある人にはめちゃ好かれ、ある人にはめちゃ嫌われるような生涯を送りたいと思うのです。


生涯を終える時に、号泣する人がいる中で、「あいつがいなくなってせいせいした」という言葉の一つでもいわれるような人生が魅力的だと思うのです。


よきにせよ、悪きにせよ存在感を残したく、「あいつがいなくなったが、どうでもいい」とはいわれたくないな、と思うのです。


ワタクシ、他人に対して「好き、嫌い」は少ない方だと思います。


けど、「どうでもいい」という人はそれなりにいます。


ワタクシが「どうでもいい人」という心持ちになるのは、自分自身で勝手につくりあげた「好き、嫌い」に他人を巻き込ませようとする人です。


「好き」は人生の華です。それがあるから、人生が輝きます。


けど、「好き」が放つエネルギーはスゴいものがあります。エネルギーの制御をしないと、自分自身が作り出した「好き」「嫌い」にコントロールされることになりかねません。


ワタクシが最近、会った人によく話をしているインドのヨガ哲学『バガヴァッドギーター』では、こんな自分を戒めます。


「ラーガ」(好き)は無限の欲求の入り口、というスタンスをとります。「好き」は、周囲をコントロールをしたくなる自分のはじまり、というスタンスをとります。


「好き」な自分を冷静にありのままみつめるのは、静寂じゃないといけませんね。忙しくなると、心がなくなる、というのはこういう意味でも大切なのかもしれません。


April 7, 2015 in 人間が悩むということ, 人間の美意識について, 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.03.26

苦悩の時には、ノウハウはまったく役にたたない

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「なんでこんなことが起こるの??」


かつて、仕事の人間関係をめぐる「苦悩」に直面したときがあります。


自分が見ている現実と、周囲がみている現実とのギャップにただただ驚き。意味が分かりませんでしたね。


「オレはおかしくなったか?」と思って臨床心理士のセッションを受けにもいくわけです(笑)(徹底的にやってやろうと思って結局、3年行きました)


その頃、当たり前のことに気づいたのです。


「苦難の時に、経営や人間関係のノウハウはほとんど役立たない!」(当たり前じゃん、、、ですが)と。


何の因果か31歳で創業し、経営をすることになりました。


何もわからないのでとにかくがむしゃらに経営だとか人間関係の本を読みました。その手のセミナーにもお金を使いましたし、テープやDVDの教材もとにかく買いました。


世の中は、「中小企業の社長が勉強するブーム」に溢れていた時代でした。有象無象のマーケッターやコンサルタントがキラ星のごとくでては、どんどん消えていく時代でした。


それらの方のノウハウは、場面場面では役立つこともありました。


これらがあったおかげで基礎体力みたいなものもできた感もありますし、どこか自信にもなりました。


ただ、


●人間が心底苦悩に直面したとき


●意識の力(ポジティブシンキング)なんかじゃ乗り越えられないとき


には、まったく役立たないことに実体験として気づいたのです。


考えてみれば、あたりまえ。経営のノウハウなんてのは、数百年の歴史の風雪に耐えた普遍的なものなどないですからね。


「環境」「条件」などの変数が変われば、一気に使えなくなるものばかりだし、「人間の個性」っていう大事な部分を度外視したものばかり。。。


私は「いままで役にたつ!」と思ってたものが何ら使えない状況の中で、どーしたもんか、と思っていたわけです。


そのころ、ふと思ったんです。


「一人の経営者が、与えられた環境や条件の中で、四の五の言わず、自分が直面したできごとにどのように対応していくか」


これが経営じゃねか、と思ったのです。


文章で書くと「へー」かもしれないですが、これは私にとってパラダイムの変換だったわけです。


これまでは、「自分の理想があって、そのためにどうするか?」•••それが経営だと思っていたのです。ビジョンを描いて、理想と現実の間のギャップを埋める作業が、社長の役割だと思っていたのです。


それが、「直面するできごとにどのように対応していくか?」になったわけですからね。


どこか年寄りくさいし、どこか淡白だし、どこかあっさりしてる


それまでは、がむしゃら系でしたから、これを受け入れるのはかなり大変でした(笑)


けど、「その先にこそ自分が目指す経営者像がある」がなんとなくの予感から、確信へとどんどんと変わっていったんです。


そうしたら、日本の古の伝承『古事記』やインドのヨガ哲学『バガヴァッドギーター』など数千年の歴史を持つ本がいままでとはまったく違った形で読めるようになったわけです。


これらの根底を流れている考え方と、自分の志向するものとが同じ線の上にあるような気がしたのです。


それはまるで、「お前の生き方は正しいぞ」といってくれているかの気分。「そんな経営者がいてもいいじゃないか」といわれている気がしたわけです。


これらの物語にでてくる主人公の苦難に自分を投影さえすれば、苦難は苦難じゃなくなる、と感じたわけです。


で、それを会社経営者の立場としていつかつたえていきたいな、と思ったわけです。


社長として経験した「苦悩」、そしてそこでつかんだものは、次の時代の社長の財産になるなと思ったわけです。その思いが「苦悩」を耐えているときの、自分の励みになったわけです。


あさ、ふとこんな過去のことが頭をよぎったので自己開示。ってか、久しぶりのブログ更新なのに記事が長いし(笑)


March 26, 2015 in 人間が悩むということ, 人間の成長について, 人間関係に関すること, 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.03.05

エゴ=1/知識

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インド哲学の授業で教えていただいたアインシュタインの公式。


「なんでこの話をそう受け取るんだよ、意味わかんねえ」って人間関係のイライラ。なんとなく、この公式が解明してくれているような気がしてならん。


エゴの絶対任務は自分自身の防衛。知識は自己を防衛するためでなく、自分自身のエゴを消滅させるために使いたいもの。


エゴまみれの身体にひらめきが宿ることはそうそうないでしょうからね。

March 5, 2015 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.01.16

ネガティブな同調圧力に自己の主張を

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「自分の意見を主張すること」


集団社会の中では、こんなささいな行いが難しいことがあります。


反対意見の人から嫌われたり、集団社会から仲間はずれにあったりするからです。


どんな些細な流れでも、河の流れに抗うのは大変。逆に、どんなちょろちょろとした流れでも、河の流れに乗るのはラクチンなものです。


「周囲からの同調圧力に与(くみ)する」


だから、この選択肢をとるだけで人はラクチンになります。少なくとも、嫌われたり、孤独になったりすることから自分自身を防衛できますからね。


けど、ワタクシは「あの人イヤだよね?」とか「あの人困るよね?」的なネガティブな同調圧力だけはどうしてもキライなんです。


だって、それって誰でもが心の中に持つネガティブな部分に意図的に火を注ぐような行為だし、バーチャルな共闘意識をつくろうとする行為だからね。


自分と他者とがきちんとセパレートできてれば、「どこからがどこまでが自分の問題で、どこからどこまでが相手の問題か?」がわかると思うのですよね。


だから、「誰かが誰かをキライ」って話に、第三者が介在したり、加担したりなんておかしな話だなぁ、と。成熟途上の子供ならともかくね。


ワタクシのできる最大限は「あの人はキライ」って話を聞くことと、あとは、求められればアドバイスをすること。そこまででしょ。


米ソ冷戦時代じゃあるまいし、共通の的をつくって集団をまとめるなんてのは流行らないのですよ。


同調圧力に与しないと、一時的に「孤独」にはなるかもしれないし、周囲から距離を置かれたり、面倒くさがられるかもしれない。


けど、「孤独」を身にまとったもの同士はどこかで惹かれ合うから、結局は孤独にはならないんじゃないかと思いますけどね。


「俺は友達が少なくてさ」


ニコニコしながら話す20年来の友達と久しぶりの飲み。同輩ながら孤独を身にまとう姿がカッコよかった。。。ワタクシもかくありたい。ってか、かくあるぞと改めて誓う。


January 16, 2015 in 人間の成長について, 人間の美意識について, 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.05.23

「人ごと」にもちっと市民権を

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AさんがBさんに悩みごとを相談しているワンシーン。


自分の悩みやそれに付随する怒りや寂しさといった感情をしゃべるAさん。そして、それを聞くBさん。


Bさんの反応は真摯にして冷静、かつ沈着。


それを観たAさんが「ちょっと、もっと私の立場に立ってよ」と怒り出す・・・。


ヒプノセラピー(催眠療法)を習っていた頃、こんな事例で「Aさん、Bさんについてどう思うか?」と問われたことをふと思い出す。


「Aさんの感情が動いたように、Bさんが怒ったり悲しんだりする」


これによって、Aさんに一種のカタルシスが起こるのは容易に想像できる。「Bさんがは自分と同じ立場になってくれている」と受け入れられた感覚は、時に悩んでいるバカバカしさに気がつくようなパワーにもなるかもしれない。


けど、仮に「Aさんの話を聞いてもBさんの感情が動かない」なんて場合。


・・・それでも感情移入をするフリ(?)をするのが二人の人間関係にとっていいことなんでしょうかね?


ってか、悩み事の相談って案外とこのパターンの方が多いいのじゃないかしら?(家族、親族などスゴーく近しい関係はのぞきます)


「人ごと」


この言葉の持つ語感ってどこか冷たくて、つけはなす感じがしますけど、自分はもうちょっと「人ごと」って言葉にいい意味での市民権(?)を与えたいのです。


人間が悩むと、どうしても「自分と悩みの同一化」が起こります。自分の中のどこかに悩みがあって、それがどんどんと肥大化してくる感覚に襲われます。


けど、ほんらい「自分」と「悩み」ってのは別物


「悩み」という感情が何かの反応として体内に起こっただけで、「自分」ってのはそれにおかされるものではないはずです。


自分の悩みなんだけど、どこか「人ごと」


たぶんそんな立ち位置が、「自分」と「悩み」を分離させ、「悩みに巻き込まれない自分」をつくるんじゃないか、と。そこから解決の扉が開くんじゃないか、と。


「人ごと」だから冷静に、「人ごと」だから高いレイヤーで考えられるなんてことは、この世にゴマンとあるでしょうしね。


追記
世の中には、「解決を求めていない『悩み』」なんてのもあって・・・。自分も含めた多くの男性諸氏は、ここに「解決」ってスタンスでつっこむ性質がどうもあるようで。


こうした「悩み」の場合は、時には自分を役者にして(?)でも一緒になって怒ったり悲しんだりすることでカタルシスのお手伝いをするのがいいのかもしれませんね。


「解決したい悩み」と「単に共感してもらいたい悩み」と見極める叡智を多くの男性諸氏に(笑)

May 23, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0)

2014.04.10

この怒りって感情はワタシの怒り??

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『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ


「なんでこんなこと言われなといけないの?」


誰かに口にされて怒りを覚えることって、誰でもあると思うのです。


けど、その「怒り」って感情をよーく見つめてみると、実は「ワタシの怒り」ではなくて「相手(口にした人間)の怒り」だったりすることってあると思うのです。


自分と他人との同一化


とかく、今の時代は「つながる」が一つのキーワードですから、他人と自分とがごちゃごちゃになりがち。


言葉のやりとりをしているうちに、「相手の怒り」が言葉と言霊を通じて自分に入ってきて、いつのまにか「ワタシの怒り」みたいに感じてしまうわけです。


だから、「他人の怒りを引き受けて怒ることでしんどくなる」なんてことが起きてくるわけです。


怒りを覚えたら、その感情を徹底的に観ること。「その怒りの主体は誰なのか?」を観察すること。


そうすることで、自分と他人との境界がひかれ、「他人の怒りを引き受けない」なーんて心の平安がもたらされることでしょう。


人間、エネルギーは有限。


他の人の怒りを引き受けてエネルギーを消費するのはもったいない、です。


インドの宗教的哲学者クリシュナムルティは、「感情を観察すること」の大切さを教えてくれます。


人は、自分の感情を観察するするよりも感情に任せて動いた方がラクチン。だから、自分の感情のみならず、他人の感情までを引き受けてアクションに精を出そうとするのでしょう。


感情が揺れた時に自分の心を観察できる冷静さが、叡智というものなのでしょう。

April 10, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.04.01

人間は都合よく記憶を書き換えている

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「人間は自分にとって都合のいいように妄想し、自分にとって都合のいい事実だけ信じる」


先週末に公開のこの映画。自分なりにあえて主題をまとめてしまうとこんな感じか。
白ゆき姫殺人事件 オフィシャルサイト


『白ゆき姫殺人事件』というタイトルのもつ語感が、なんかサスペンスチックで、映画の持つ魅力を引き出せていないのでは?というシロート考えはあるものの、現代人必見の映画です。


「あの時に、こんなことがあった」だとか


「あの時に、こんなこと言われた」だとか


「あの人にはあんなことをしてしてあげたのに」だとか


人間の過去の記憶(エピソード記憶)ってのは、たいがいは自分にとって都合のいいように書き換えられていていい加減なものなわけです。(こういう学術的研究もあるようですね)


けど、「ワタクシ」(私)をコントロールする司令塔の脳みそは、絶対的な万能感を持っている。


だから、「私が記憶していることは、間違いがないはずだ!だって、私自身のことじゃん!」とになるわけですね。


そういう人に、「エピソード記憶なんていい加減なものじゃん!」なんて言おうものならたいがいは、反発をされるわけです。


この映画は「人間のエピソード記憶なんていい加減なもの」というメッセージ(&具体例)を観る人に与えてくれます。


それぞれが、自分にとって都合のいいエピソード記憶同士のぶつかり会い


そこを理解してはじめて「自分の記憶も間違っているかもな?」という謙遜の精神や、「あいつのいっていることにも一理あるかもな?」という気持ちが他人に対して生まれてくるんじゃないでしょうかね?


「絶対」「間違いなく」「確実に」


が多用されるということは、おそらくエピソード記憶に固着しているってサインです。


ここから離れる勇気(固着は安心と安定をもたらしますから離れるのには勇気が必要ですね)と自在さを持つことは、他への共感への第一歩になるんでしょう。


「これって本当なんですかね?」


この映画でふいにでてくるこの一言、なかなか深いですよ。

April 1, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること, 観た映画、読んだ本、行ったイベント, 言葉について | | Comments (0)

2014.02.17

「嫌なヤツ」を考える

「嫌なヤツ」は自分の投影、だから「嫌なのだ」。


って考え方があります。


「嫌なヤツ」を見ることで、自分が抑圧している「嫌な自分」が直面化される。


だから、無視したり、バトルしたり、陰口言ったりして人は心の平静を保とうとする。つまり、自分の中で抑圧していることに更なるフタをする。


そんな考え方があります。


けど、これってどれだけマインドで考えたところで腑に落ちないと思うのです。


だって、「嫌だから嫌なんだ」ってマインドはもはや感情の領域。それを凌駕するマインドは存在しにくいわけです。


冬場に入る風呂の気持ちよさを理屈で説明できないように、「アイツは嫌」を理屈で説明、理解できるわけがないわけです。


たぶん、人間における「嫌なヤツ」問題は、自分のスピリットに働きかけないといけないわけです。


「世界は愛と調和に満ちている」と考えると、「嫌なヤツ」の存在ってのはどう考えても説明がつかないわけです。


愛とは無縁な気がするし、調和とはまったく逆・・


なんで愛と調和に満ちている世界にこういう人が存在するのか?


この説明のつかない矛盾。ここは、たぶん自分たちの「エゴ」の部分なわけです。


何かを期待したり、何かを求めたりとする自分たちマインド(「エゴ」)の部分なわけです。


「エゴ」は社会の推進力になりますし、人間の活力の源でもあります。


そんな一方で、「エゴ」は「イタい大人」の種子のようなもの。「エゴ」の種子は他人からの承認欲求をエサにしてどんどんど肥大化していく危険性があります。


ここはうまく付き合う必要がありますね。


「嫌なヤツ」は、自分の「エゴ」を客観的に見せてくれる存在


マインドではなく、スピリットでそんなイメージをしてみてはどうでしょうかね?


フツーは「自分のエゴの部分を見せてくれてありがとう!!」なんて聖人君子みたいなマネはなかなかできないでしょう。


けど、マインドが「アイツは嫌」と支配されてる時は「敵」と思ってたヤツが、スピリットに働きかけるとちょっとだけいとおしくなる(?)瞬間があるから不思議です。


そう、それは人生を生きていく上での同志みたいな感情かもしれませんね。

February 17, 2014 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.01.26

食べるからエネルギーがでるのか、エネルギーがあるから食べるのか

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「宴会で料理がなくなるスピードがめちゃ遅くなった」


40代に入った頃からか、なんとなくそんな気がしていた。


肉体的にたくさん入らなくなってくるし、健康や体重の不安もあったりもするのかしらね・・・


若い頃のガツガツした感じがなくなって、成熟してきたといえば聞こえはいいのだが。。。


昨日はジムの飲み会@飯田橋。豚と牛のしゃぶしゃぶ食べ飲み放題。


怒濤のごとく、わんこそばでも食べるかのごとく、肉と野菜が無くなっていった。。。


で、必ず言われる一言。


「今日、ジムでカロリー消化した以上、食べちゃった」と。


ジムに入って10年以上、ずーっとこんなことをやってるわけです(笑)


で、翌日に昨晩の分を取り戻すべく動く。で、動くと腹が減って、ガッツリ食べる。。。


こと自分の場合、ジムにいかないと体重が落ちるはこの循環のせいなんだろうな。。。


食べるからエネルギーがでるのか、エネルギーがあるから食べるのか


たぶん、後者だな。。。


久々のメンバーでの新年会でまたエネルギーをもらいました。ご一緒した皆さん、お疲れさまでした。

January 26, 2014 in 人間関係に関すること, 感じたこと | | Comments (3) | TrackBack (0)

2014.01.22

あのとき、ああいったじゃないですか

「文脈」


言葉は文脈で語られるわけです。


逆にいうと、文脈から言葉だけを取り出しても、本来は存在価値がなくなってしまうわけです。


言葉は絶対でないわけです。ってか、言葉ほどいい加減なものはないわけです。


だって、文脈によってその姿形をどんどんと変えていきますからね。


「あの時、こういったじゃないですか」


的な話は、組織の大小を問わずどこでもあることだと思います。私もこの手のやりとりは数えきれないほどやってきましたしね。


確かに、言葉だけとらえると主張する側の論理も分からなくないわけです。


でも、そこには文脈が存在している(存在していた)わけです。その言葉が語られた流れ、背景があるわけです。


その文脈を踏まえた話であればいいんです。


けど、多くの場合は時の経過とともに、文脈は忘れさられ言葉だけが一人歩きしているわけです。


こんな例に、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で始まる『葉隠』という古典があります。江戸時代に出版された武士の心得について書かれた本ですね。


この一節(言葉)だけみると非常にエキセントリックな主張に聞こえるわけです。だから、『葉隠』が先の戦争で「死を恐れず戦え」という国威発揚に使われたわけです。


けど、この本をきちんと読めば「武士らしく生きるためにどうするか?」という文脈があるのがわかるわけです。死ぬための本ではなく、生きるための本なわけです。


著者が生きていたら、どう思うんでしょうね。。。。「オレの言葉を勝手に解釈するなよ」とかいうんじゃないでしょうかね。


人間、脳のメモリーはあるようでそんなにないようです。だから、どんどんと文脈を忘れていくんです。で、自分にとって都合のいい言葉だけをメモリーしていくんです。


あとは、無意識のうちに自分にとって都合の悪い文脈をディレート(消去)してしまうこともあるようですね。でないと新しいものが入ってこなくなってしまうでしょうし。


「あなたは自分の都合で組み立てた言葉を発してるし、私だってそう」


言葉ってのはいい加減なものなんですから、本来ここはお互い様の世界なんですよ。


そもそも無力で限界がある言葉を通して我々はコミュニケーションを強いられているわけです。大いなる存在がこの世を生み出した時にちょっとばかし遊んだのかもしれませんね。

January 22, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること, 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.12.25

人前にでることをはばからず

親は親になることで親になっていく。


社長は社長になることで社長になっていく。


先生は先生になることで先生になっていく。


その立場に身を置いてはじめて学びがはじまります。


かくいう自分、会社やって13年経ちますが、社長って何かいまだによくわからん。感覚的には一回りしてきた感じですかね。


最初は知識も経験もないからシンプルで、それが複雑になっていって、で、シンプルに戻ってきた・・・


ただ、一回りしたといってもレイヤー(次元)は確実にあがっていて、社長って立場に身を置いた人間ならではの言語化できない何かは確実に自分の中にあるわけで。


その言語化できないものが、たぶん立場に身を置いた人間のみが受け取れる財産だと思うのです。


逆にいうと、立場に身を置かなければ、それらのものは絶対に獲得できないと思うのです。学びを深めたかったら、四の五の言わず「立場に身を置け!」ということですね。


今年はさまざまなご縁で、「人前にでる」ことが多かった一年でした。


「人前にでるなんておこがましい」ってずっと思っていましたが、「立場に身を置」かなければえられない経験ってありますね。心底思いました。


そう、親だって社長だって未完成なままで「親としての顔」「社長としての顔」をして毎日をいきているわけです。


で、喜怒哀楽、失敗や反省を重ねながら徐々に「親」や「社長」になっていくわけです。


人前にでる、ってのも同じようなものだと思うのですよね。


人前にでることをはばからず


来年はそんな思いで一年を過ごしていこうと思います。2013年もあと1週間ですね。

December 25, 2013 in 人間の成長について, 人間関係に関すること, 感じたこと, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.12.20

昨日は会社の飲み会でした

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「会社での飲み会」


プライベートな友達との会話の中では、けっこうマイナス的な意味合いで使われることが多いような気がします。


「ジムに行きたいけど、会社の飲み会があって行けない・・めんどうくさっ」とか、「会社の飲み会があるけど、テキトーにやり過ごして合流します」って感じですね。


会社ってものへの帰属意識が多様化した時代ですから、まあこんな考えはフツーにでてくるわけです。


「社長」という役割の自分は、飲み会を主催する側の人間ですから、この手の話を聞くのはなんともな気持ちなのですが(笑)


けど、日本に数百万の会社があって、その中でたまたま一つの会社に籍を置いて、たまたま同じ時期に働いたメンバーがいて、たまたまお互いの人生がシンクロした。


「会社の飲み会」はそんなメンバーが集まっている、と考えるとちょっと見え方が違ってこないかしら??


お互いの人生がシンクロしたから、喜びや共感や尊敬や感謝があるわけです。


お互いの人生がシンクロしたから、怒りや衝突や失望や落胆があるわけです。


いずれにしても、お互いの人生がシンクロしたことは人間の叡智を越えてるわけです。しょっちゅう飲み会があるのだったらいざしらず、たまに時間を共有するのはいいことだと思いますよ。


昨日は会社の忘年会。みなさん、今年もお疲れさまでした。

December 20, 2013 in 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.09.07

人間は色付きのメガネで世界を見ている

人間は誰しもが「色付きのメガネ」で世間を眺めてます。


この「色付きメガネ」って、持って生まれた性質と生育歴とで形成されるようですね。


他人の人生を生きることができないのと同様、他人の「色」がどのようなものかを体感することはほぼムリなこと。


でも残念なことに、この「色」の違いが人間関係の難しさの原因であることが多いようです。


たしかに、「キラキラとしたピンク色のメガネ」と「ダークで真っ黒なメガネ」との間では、当然、周囲の見え方も、考え方や意見も違ってくるでしょうから当然ですね。


で、「なんであんな考え方をするんだ?」ってお互いがお互いに対してそんな思いを持つ・・・


人間、誰一人として「無色透明なメガネ」なんて人はいないですから、「色」の分だけそれぞれが世間を歪んだ形でみているわけです。


けだし、「色」があまりに濃かったり、強かったりすると社会的にやっていきにくくなるわけです。


「なんであれをああいう風に考えるの?」


となるわけです。


極度のポジティブシンキングだったり、超悲観主義だったり、自分中心の被害者意識だったり、程度を超えた自己愛だったりですね。


けど、周囲からは「ちと、歪んでない?」としか見えないこうしたことだって、本人の認知は「何がおかしいの?」だったりするから難しいわけです。


さらには、「私の『認知が歪んでいる』と口にしているあなたの認知こそが歪んでいるんじゃない?」って自己防衛も入ってくるから、さらに難しいわけです。


おそらく「人の抱える生きづらさ」の根底には、「認知の歪み」って問題が多くの場合あるのでしょう。


けど、「自分の認知は歪んでるんじゃね?」ってことに自分から頭が向かないとおそらく何もはじまらないでしょうね。


逆にいうと、「自分の認知は歪んでるかもしれないなあ」とスイッチが入った時点から、変化と変容へと向かっていくんじゃないでしょうかね。


昭和の名経営者・松下幸之助さんのいう「成功できる人は素直な人」というのは、「認知の歪み」に自分から気がつき、そこから自在に離れられる人なのだと自分は思っています。


「認知は歪んでるけど、素直な人」なんてのはいませんからね。

September 7, 2013 in 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.09.02

なくしたエネルギーはなくしたところで取り戻す

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「友達は限りなく少なく」


というのは自分の師匠筋。


人は人間関係の中で大量のエネルギーを消費するから、という考えは分からないでもない。仕事に向けるエネルギーが人間関係で消耗している、なんてことはよくあることだしね。


けど一方で、人は人間関係の中でエネルギーが満たされる、という側面も持っている。


仲のいい友達と酒を飲んでバカ話するだけで元気になる、ってのはエネルギーが解放されると同時に、新しく満たされるから。


人間関係の中で消耗したエネルギーは、人間関係の中で取り戻すのがたぶんベストなんです。なくしてものは、なくした場所でとりもどすのがベストなんです。


一般的に人は人間関係に疲れると周囲との接触を断ちたがるようだけど、それは本当はナンセンスなんですよね。


週末は、ニュージーランドからのお客様(?)との飲み会に、中華での会食(&アフター)でした。毎週のことですが、よく飲んだ。


今週もきばっていきましょう!

September 2, 2013 in 人間が悩むということ, 人間関係に関すること, 感じたこと | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.08.29

オレに話しかけるなオーラ

「はじめて大塚さんに会った時、『オレに話しかけるなオーラ』があったよな」


といわれることがあるんです。


昨日は、10人ちょっとの経営者が集まる2月に一度の研修会だったのですが、そこでもネタとしてしょっちゅういわれます。


だいだい、はじめて皆と会っているのが4〜5年前かな。本人は「話しかけるなオーラ」なんて出してる自覚がないので、いわれても困るのですが・・・


とはいえ、「みんな仲良くしましょう」ってスタンスでもないけどね(笑)


こないだ、4年ぶりに某雑誌の女性編集者とお会いしたら「大塚さん、全然雰囲気変わりましたね!」と。


自分じゃ、何がどう変わったのかよく分からないが・・・


そいや、毒舌で人をあまり褒めない自分の師匠筋(昨日の研修の先生です。10年くらい師事してます)も「数年前から比べると雰囲気変わったよなあ〜」としみじみといわれた。


いままでほとんど褒められたことないので、ちょっと驚いたけど(笑)人間だからいやな気分はしないな。


ここ3〜4年で「自分の中のさまざまな感情」ってのに向き合ったのは事実。


それは、「口にしたくてもできなかった感情」だったり、「一人だけ我慢をしてきたという変な思い込み」だったり、「なんでオレだけこういう思いするんだよって気持ち」だったり・・・


人間には子供の頃からのかくも深い部分に存在している抑圧された感情があるのか、と。


この手の感情がどこかに存在していると、世界に対して自由自在に接することがたぶんできないんですね。世界が抑圧されているように見えるんです。


だから世界に対して構える。人に対して構える。できごとに対して構える。


それがきっと「話かけるなオーラ」みたいに表出するんですよ。


頭が人間をコントロールしているわけじゃなくて、抑圧された感情が人間をコントロールしているのでしょうから、本人は当然に無自覚なわけなんです。


まあ、ピンと来る人にはピントくるし、何をいってるんだって人にはどうでもいい話だろうが(笑)でも、この手のことからくる問題ってたぶんいっぱいあるんですよ。


これからの経営者はこの手のことを知らないと立ち行きがいかなくなるなんて自分は思ってます。

August 29, 2013 in 人間の成長について, 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.07.11

人と人とが分かり合うということ

わたしは私のために生き、あなたはあなたのために生きる。


わたしはあなたの期待に応えるために、この世に在るわけではない。そして、あなたもわたしの期待に応えるために、この世に在るわけではない。


もし縁あってお互いが出会えれば、それは素晴らしいこと。
もし出会わなければ、それはそれで仕方ないこと。


※ゲシュタルト療法の創始者エリック•パールの「ゲシュタルトの祈り」より


一般的に人間は、相手と分かりあうためにコミュニケーションを図ります。


けど、「コミュニケーションを進めていっても、理解が進まない」(むしろ、コミュニケーションギャップが拡大する)って局面がまあ普通にあるわけです。


誰の影響か忘れましたが、自分はいつからか「コミュニケーションってのは人と人との違いを理解するためのものだ」と思うようになってます。


で、このスタンスにたつと「コミュニケーションを通じて相互理解ができたと感じた時」ってのがありがたくなります。だって、基本的に人と自分とは別の生き物ですしね。


なりやげなようにも聞こえますが、所詮は「私は私、あなたはあなた」。


おぎゃーと生まれてきた時からそれぞれの使命は違うし、見てきたことや、聞いたこと。覚えてきたことに感じたこと。何を大切にしてきたかも違うし、何に心地よさを覚えてきたかも違う・・・


それが、コミュニケーションを交わしただけで分かり合えるってのは、幻想に近いのじゃないかしらね。


エリック•パールのいうような「縁があったらよし、縁がなくてもしかたなし」みたいな世界観ってのは自分は大好きですね。


こういうことを書くと人によって人により受け取り方はさまざま。


「縁があったらよし」って言葉に重きを置く人と、「縁がなくてもしかたなし」って言葉に重きを置く人がいますね。


「縁がなくてもしかたない」ってのなら、コミュニケーションなんてとらなくていいじゃん


みたいな暴論(?)をいう人だっています。


こんなことひとつとっても、人間ってのは人によりさまざまなんだな、と思います。


創造主はかくも人間を面倒に創りあげたものです(笑)


あまりの面倒さに「創造主が人間をこういうふうに創った意図なんてあるのか?」と思うこともままありますが、人間の叡智じゃ及びもしないきちんとした意図があるのでしょう。たぶんね。

July 11, 2013 in 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.07.05

「大手企業」というイメージ

突然ですが、「大手企業」って言葉に何をイメージしますか?


自分が思いつくままに挙げると・・・


「自由が利かなそう」「一部の有能な社員が多くの社員をひっぱっていそう」「名刺をだしたらちょっとだけ周囲の見る目が変わりそう」

あとは・・・


「危機的な状況になっても動かない人が多そう」「責任の所在が明確でないから、いざとなったら無慈悲でありそう」「子供がいたらちょっと自慢できそう」


それに・・・


「収入がよさそう」「経営者が変わったら天国から地獄にいくことがありそう(逆もアリ)」「教育制度がありそう(むろん会社による)」「休みがとれそう」


もちっといくと・・・


「我慢しないとならないことが多そう」「決済までに時間がかかりそう」「人事部とか企画部がありそう」


まあ、そんなところかな。


でも、自分は「大手企業」ってやつで働いたことがないから、これはあくまでもイメージなんですけどね。


実は、中小企業の社長にとって「大手企業」ってやつのイメージは案外とやっかいなものなのです。


かつて、大地震の後に、同業の大手企業が数社すぐさま休業を決定したんです。でも、自分は「休むまでもないな」と思って休みにしなかったんです。


この時に、「大手企業は休むのに、うちの会社は・・」ってゲームが社内の一部で発生したのを後になって知りました。


当事者(この場合、社長である私ですね)に直接なにかを口にするのならともかく、「大手企業」を持ち出してゲームとしてのコミュニケーションが派生するのはどうもいただけませんね。


この手の発言って、ほとんどの場合は深い意味でなされてないのかもしれません。


でも、「深い意味でなされてない発言」っては、案外と組織のコミュニケーション阻害の大きな原因なのだと思います。


「うちの社員は大手企業の社員とくらべるとうんだらかんだらだ」などと深い意味でなくても陰でいわれたら誰だっていい思いしませんよね。


根本はそれと一緒のような気がするんだけど・・・。


いわれてイヤなことはなるべくいわない。けど、どうしても感じたら本人に直接口にする。ここは、人間としての頑張りどころ。


これを組織のルールにできるといいのでしょうけどね。なかなか、難しいでしょうね。個々人の人間力が問われることですし。

July 5, 2013 in 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.05.10

出会う人は自由自在に選べないんじゃないか?

「出会う人には出会うだけの意味がある」


なーんてことをいう人がいます。


たとえば、周囲に困っている人がいて、誰かに相談したとき。「そういう困った人も出会う意味があるからね」みたいな感じです。


まあ、言葉として分からなくもないし、自分の実体験として「出会う意味がある」というのも体験したことがなくはない。


でも、「どう考えても意味があると考えられない」って出会いもあるわけです。


人によってはこれを「反面教師」と表現して、出会いに正統性を求めるように意識を持っていくのでしょうが、人間は感情の生き物ですからそれができない局面だってあるわけです。


てか、確実にあります(笑)


自分は、人間の出会いってやつを「意味」って観点からとらえると場合によっては袋小路にはいるんじゃないかな、という立場。


だって、人との出会いって大きな存在(人によっては神だとかサムシンググレートといってもいいのかもいしれませんね)の配剤による部分が大きいじゃないですか•••


遺伝子情報をわずかしか解明できず、カビ一つつくれない人間って存在が「この出会いの意味は何だ?」なんて理屈で考えても全体像なんて到底分からないんですよ。


登山の素人がエベレスト(これも「大きな存在」の領域ですね)に挑戦するようなむちゃくちゃなことじゃないかな、と思うのです。


それよりも、「人間は出会いを選択できない」って考えた方がいいんじゃないでしょうかね?(たぶん誰かの受け売りですが、忘れました)


人間は自由意志があると思っていますけど、実は実はごくごく限られた選択肢の中から選択をしている。で、それが自由意志だと思い込んでいるわけです。


世界には60億の人が、日本にも1億の人がいるわけです。


で、一生涯で物理的に会える人というのはだいぶ限られてくるわけです。


で、そのすさまじいまでに限られた人との出会い中から「あの人に困っている」だとか「あの人とは気が合う」とかやっているわけです。


おそらくなのですが、「自分は出会いを選択できる」という観念がどこかにあるから(ってか、フツーはありますよね)人間関係をとりまくさまざまな悩みが生まれるのではないか、と。


「出会いを選択できない」って想いが肚に落ちれば、そこには一種の諦め(「しゃーないな」って感覚)が生まれるような気がするのです。


この「しゃーない」は現実逃避ではなくて、自分の人生を引き受ける覚悟。


「あいつは頭にくるし、むかつくけど、自分の人生だししょうがないか(笑)」って感じの見方ができたらいいのかもしれませんね。


追記
昨日は、『おのれナポレオン』のライブビューイングに行く予定でした。


天海祐希さんが入院し、急遽宮沢りえさんが代役を努めるとだいぶニュースになりましたね。すげえシーンに立ち会える、と鳥肌モノでしたが公演中止になってしまいました。うーん、残念。


でも、今日の夜からやるみたいですね。陳腐な表現ですが、宮沢りえの女優魂ってのはすさまじいですね。リハウスの宣伝でてたころにはまったく想像できなかったですわ。

May 10, 2013 in 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.04.22

250通(もしくは、250人)

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250通


お葬式会社の人に聞いたのですが、人が亡くなるときにだいたいマックスでこれくらいの方にお伝えをすればことたりるそうです。


逆にいうと、自分らが亡くなる時、近くには250人くらいの友達、親族、会社関係者がいるということですね。


1クラス45人で「5クラスちょっと」って考えると、なかなかなんとも多いなあと思いますが、いままで知り合った人の総計を考えると少ないような気もします。


この数字が多いか少ないかはさておき、自分らが生きていくということは、この250人が時の経過とともに移っていくさま、と表現できるんじゃないかと思うわけです。


自分らをとりまく環境ってのは、無常の集まりですから、何一つとして永遠なものはないわけです。


で、それは人間関係だって同様なわけです。


成長するスピードや、進んでいく方向ってのは人それぞれですし、「何を優先順位にするか?」ってのも、その時その時に置かれた環境や個々人の気質によってどんどんと変化していきます。


だから、「すんごく仲が良かったけど、なんとなく疎遠になっちゃった」「久々にあったけどどーも違うな」なんてことがごくフツーにあるわけです。


だから、すんごくいい時、ってのを大事にする。


今、この場、この時間を大切にするってことが、道徳論ではなく重要なことだと思うのです。


その先に、ごくごく自然のうちに自分の250人が形づくられていくんでしょうしね。


週末のかすみがうらマラソンは雨天で回避しましたが、その分、運動したので筋肉痛になりました。よく飲みましたし、よく食いました。仕事の打ち合わせもしました。で、誕生日もやりました。


お会いした方の今現在の250人に、自分が入っていればありがたいですね。


今週もきばっていきましょう!


April 22, 2013 in 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.04.12

部下との話は短くする。が、ダイアログはこの限りではない。

「部下との話は短くする」


なぜなら•••


「人は情報を上書きするから」と口にするのは自分の師匠筋。


あれこれ話をすると、部下はどんどんと情報が上書きされていって最初に話をしたことはほとんど覚えていないから、という。


「エネルギーをむやみに減らさないため」と口にするのは先輩経営者。


人と人とのやりとりは、なんだかんだいってエネルギーを消耗する。そのエネルギーの消耗をコントロールすることは大事なことだ、という。


「ボロを出さないため」と口にするのは別の経営者。


話が長くなると「昔はこうだった」だとか「俺はスゴいでしょ」といった話さなくてもいい話に流れてしまいがちだから、という。


どれもこれも実体験からくる素晴らしい叡智。かくいう自分も「部下との話は短くする」に賛成な1人です。


•••が、案外とこれって難しいんですね。


あれもこれもってのがどんどんとでてきてしまうわけです。


「このままだと情報が上書きされるなあ」と思っても話を続けてしまってしまうこともあったりするわけです。


「これって、なんでかな?」と考えてみたのですが、多くの経営者が持つ「動いていないとなんとなく不安になる」って気質が根底にあるんでしょうかね。


だもんで、意識的に意識的に「話を短く」をやろうとしているわけです。まあ、仕事を通じた修業みたいなものです。


で、最近気がついたことがあります。


自分は、「部下との話」を通じて頭の中やアイデアを整理していることがあるんですね。


だから、そこで展開されている話とはまったく関係のないことが頭の中をグルグルと駆け巡っていることがたたあるわけです。


人によっては「社長は話を聞いていない」と格好の餌食になるのですが、実はこれは大事な大事な時間でもあるのです(笑)


「必要なことを必要なだけ会話をする」ってので確かに仕事は回ります。効率的に仕事を回すという意味では「部下との話は短く」ってのは大事です。


けど、何かを生み出したり、考え方を昇華させたり、忘れていたことを思い出すには周囲とのダイアログ(対話)は不可欠ですね。


最近の自分。


「部下との話は短く」とは思いますが、「ダイアログについてはその限りではない」と思うようになりました。


「ダイアログできる力」ってのは、教養や一般常識やコミュンケーションってのが根底に存在する一つの仕事の能力です。


小説家の司馬遼太郎さんが「奥さんに話をすることで小説の構想をまとめていた」とどこかで読んだ記憶がありますが、きっとダイアログ力があるご夫人だったんでしょうね。

April 12, 2013 in 人間関係に関すること, 尊敬する人、または師匠筋, 言葉について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.04.10

人は思うようにならない。ってか自分も

自分はゴルフをたまーにします。


が、身体がまったく思い通りに動きません。


ダンスのレッスンにもでます。


が、ボディウェーブがなかかなかうまくできません。


「他人は思うようにならん」と仕事をしていれば誰でも直面することがあると思うのですが、「自分自身だって思うようにならん」わけです。


耳をピクピクと動かすことができませんし、「ピンク色の像を考えるな」と念じてもピンク色の像が思い浮かぶし、連日の飲酒は身体によくないと分かっていても毎日の酒は止められない•••


つまり、アンコントロールにあるのは自分とて一緒なのです。


他人に対して「何回いってもわかんねえなあ」とか「いい加減に気がつけよ」とか思うことはままあります。


それが仕事の役割ですから当然ですね。


けど、人間は思うままにならいのは自分だって他人だって一緒なのですね。


そんな自分でも、ゴルフでたまーに快心の一打がありますし、ダンスも「今日はなぜか身体の調子がバツグンによくて動ける」なんて日もあります。


思い通りに動くタイミング、瞬間てやつがあるんですね。


同時に、他人にも「おっ、めずらしく今日は聞き耳持っているな」って瞬間があります。


たぶん、このタイミングをつかまえられるかどうか、ってのが大事なのでしょうね。

April 10, 2013 in 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (2) | TrackBack (0)