2015.04.22

人間関係が難しいんじゃなくて、「が(我)」の取扱が難しい

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会社を立ち上げて、人をいれる。


その人に居場所と役割をつくろうと、社長は一生懸命に任せる仕事を考える。


仕事が順調に推移していき、任された側のオリジナリティも発揮されてくる。


これで、万事オッケーなはずなのだが、両者のバランスが崩れるとそうはいかなくなるわけで。。。


社長は「私が与えた仕事」と、任された側は「私がつくってきた仕事」と思う。


大切なのは、お互いに「私が」の「が」をどこかにやってしまうこと。


人間関係が難しいのではなく、己の「が(我)」の取り扱いが難しいというだけのこと。


今のところ、ここは経営学ではなく哲学や心理学の範疇。経営学者、研究テーマたくさんね(笑)

↓↓以下、5〜6月で決定している予定です。


『日本の神様カード』講座 in名古屋 5月30日(土)


『日本の神様カード』講座 in広島 6月5日(土)


『日本の神様カード』ワークショップin京都 6月14日(日)※神様カード著者の大野百合子さんの講座です。私も参加!


神道学者•三橋健先生と訪ねる武蔵御嶽神社巡り 6月21日(日)〜22日(月)※神道学者の三橋先生と青梅の武蔵御嶽神社にまいります。私も参加!


April 22, 2015 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.04.07

好き、嫌い、どうでもいい

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万人に薄っぺらく好かれるよりも、


ある人にはめちゃ好かれ、ある人にはめちゃ嫌われるような生涯を送りたいと思うのです。


生涯を終える時に、号泣する人がいる中で、「あいつがいなくなってせいせいした」という言葉の一つでもいわれるような人生が魅力的だと思うのです。


よきにせよ、悪きにせよ存在感を残したく、「あいつがいなくなったが、どうでもいい」とはいわれたくないな、と思うのです。


ワタクシ、他人に対して「好き、嫌い」は少ない方だと思います。


けど、「どうでもいい」という人はそれなりにいます。


ワタクシが「どうでもいい人」という心持ちになるのは、自分自身で勝手につくりあげた「好き、嫌い」に他人を巻き込ませようとする人です。


「好き」は人生の華です。それがあるから、人生が輝きます。


けど、「好き」が放つエネルギーはスゴいものがあります。エネルギーの制御をしないと、自分自身が作り出した「好き」「嫌い」にコントロールされることになりかねません。


ワタクシが最近、会った人によく話をしているインドのヨガ哲学『バガヴァッドギーター』では、こんな自分を戒めます。


「ラーガ」(好き)は無限の欲求の入り口、というスタンスをとります。「好き」は、周囲をコントロールをしたくなる自分のはじまり、というスタンスをとります。


「好き」な自分を冷静にありのままみつめるのは、静寂じゃないといけませんね。忙しくなると、心がなくなる、というのはこういう意味でも大切なのかもしれません。


April 7, 2015 in 人間が悩むということ, 人間の美意識について, 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.03.05

エゴ=1/知識

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インド哲学の授業で教えていただいたアインシュタインの公式。


「なんでこの話をそう受け取るんだよ、意味わかんねえ」って人間関係のイライラ。なんとなく、この公式が解明してくれているような気がしてならん。


エゴの絶対任務は自分自身の防衛。知識は自己を防衛するためでなく、自分自身のエゴを消滅させるために使いたいもの。


エゴまみれの身体にひらめきが宿ることはそうそうないでしょうからね。

March 5, 2015 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.01.23

この世は、「意味づけ」と「解釈」に溢れてる

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去年、肉離れを2回しました。


特に左足の時は内出血が激しく、復活までに2ヶ月ほど•••。飲み過ぎと、ストレッチ不足。。。2回とも「健康になろう」と続けてるスポーツクラブで怪我する、というネタ(笑)


その時に読んだある本に、


「怪我が続くということは、今は落ち着いて家にいなさいってサイン」


とありました。


たしかに、「物事をプラスに考える」とか「すべてのできごとには意味がある」という視点から考えると、これはいい考え方かもしれません。人によっては、この言葉だけで力強く生きられる、という人もいるでしょう。


けど、その時のワタクシは「なんでもかんでも意味づけするのはどうよ?」って感じたわけです。無責任な書き手だなあ〜、と。


「怪我は怪我、以上。じゃないの?」


と思ったわけです。


今の時代、「意味づけ」と「解釈」にあふれています。


それらは、人間が安定した心持ちになったり、自らの思いを実現するために「武器」として使うもの。決して、「意味づけ」や「解釈」に人間の側が振り回されるものではないと思うのです。


ワタクシの琴線にこの言葉がふれたのは、どこもかしこも「意味づけ」と「解釈」ばかりで辟易してたからかもしれないですね。


そもそも、「神道のこと測り難し」なんて言葉もある我が国。


大いなる存在が人間にみせてくれる世界


そこに存在する「意味」や「解釈」


「たかだか人間が、こられの深いレベルまでわかりっこないじゃん」


というのが我らが祖先のスタンスだったんでは??


人間のエゴが生み出した「意味」や「解釈」で世界を定義してばかりたら、この世の本当の広さがわからないじゃん、と思ったりするのです。


どう考えても、人間のマインドで考える「意味」や「解釈」で説明できるほど、この世はちまちました世界じゃないでしょうしね。

January 23, 2015 in 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.11.24

ブログでとりあげていただきました

作家・酒井日香さんのブログ「占い死ね死ね♡」で、先日の「『日本の神様カード』使い方講座」を取り上げていただきました。


『日本の神様カード』セミナーを受けてきました


「占い死ね死ね」というブログの著者ですので、「何を言われるのかなあ〜」とちょっと緊張してましたが実際はとてもあたたかな方で安心しました(笑)


「自由という名の無慈悲」


という言葉がでてきますが、いい得ていて妙ですね。


そもそも、絶対的な自由に耐えられるほど、人間はたくましくできていないと思うのです。


逆にいえば、絶対的な自由にまだまだ耐えられないから、ワタクシたちは人間として生まれ変わってきてるんだと思いますよ。


「自由になりなさい」と他人に口にする人は多いですが、その無慈悲さに気がついていない人は案外と多いんじゃないかと。


だって、それを口にしているご本人が、意のままにならない身体に魂を包んだ不自由な人間なわけですから、無茶苦茶なわけです(笑)


日本人は、そんな「自由という無慈悲さ」に個人を追いやるような文化はなかったわけです。


不自由な存在同士である人間が、共同体の中で各人の役割とたんたんと果たす文化があったわけです。そこに、「自由」や「つながり」を感じていたわけです。


・・・と書いてきて、ふと「自由って辞書でなんて書いてあるのか?」と思いました。手元の辞書によると、、


「他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動する(できる)こと」(『新明解 国語辞典』三省堂)


だそうです。


あえて突っ込むと、そもそも人間の自分の意志や感情ってのを人間が「自由」につくりだせるものなんでしょうかね?これが、自由に作りだせないのであれば「自由」じゃないじゃん!と自分は思うのですが。。。。


ワタクシはこう思うのです。


自分の中に宿った意志や感情。これらってのは、人間が「自由」につくりだしたようでいて、実は大きな存在(サムシンググレート)からのギフトではなかろうかと。大きな存在はそこに「自由」というファンタジーを人間にみせてくれているだけなんではなかろうか、と。


そのファンタジーを「俺が考えた」だとか「誰でも自由になれる」とか思うからおかしなことになるわけで・・・


ご飯に手を合わせて感謝していただくかのごとく、意志や感情についてもありがたくいただけばいいんじゃなかろうか、と。


「人間の自由意志を無視している」とかいわれそうですが、あらゆる生命の中で人間だけに無限の「自由」が与えられていると考える方が、おかしいんじゃないかと思うのですよね。


酒井さんのブログをきっかけに、このようなブログを書いたワタクシ。


これって自由意志?? それとも、ギフト??


どっちなんでしょうかね?


酒井さん、ご紹介ありがとうございました!

November 24, 2014 in オラクルカード&タロットカード, 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.11.17

絶望や苦悩の最中に読みたい本

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「しんどい時に読みたい本」って雑誌の特集があった。


「自分はなにかなあ・・・」と考えた時に、この本がよぎったので再読。


アウシュビッツの強制収容所に収容されたある心理学者(フランクル博士)の体験記録。絶望、恐怖、飢餓、望郷の思い・・・先が全く見えない中で生ききった叡智は、苦悩や絶望に向かっていく勇気を与えてくれます。


読んでいて苦しくなるような記述が多いこの本、最初から読まずにいきなり「8章 絶望との闘い」(P177〜P192)だけ読むだけでも価値あり。


「具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命をみなければならないのである」(P184)


「できごとには意味がある」とはよくいわれるけど、これ以上ない絶望的な苦悩を経験した著者以上に含蓄のある「意味がある」を口にできる人はそうそういないな、と。とにもかくにも骨太の本、いつかこの本で勉強会したいなあ。

November 17, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.11.11

歴史って人の頭の数だけあると思うのです 

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『週刊文春』にジャーナリスト本多勝一さんが出てて驚いた。「南京」をめぐっての両者の対立は40年以上に及ぶしね。


自分は南京の虐殺記念館に行った時に「この中庭に敷き詰められている砂利は30万あります。これ一人が虐殺された同朋の命なんです!」とガイドから聞かされた時に、「むむむ。。。どなんだろね?」と感じましたね。


展示の最後に本多さんら「南京肯定派」の本が多数飾ってあったのが妙に記憶に残ってます。


ワタクシは研究者でないから「南京」の事実には迫れませんが・・・けど、歴史って人の頭の数だけ存在すると思うのですよね。


年末までこの公開討論は続くようですが、どう考えても噛み合わないでしょう。すでにはちゃめちゃな討論、編集者はどうまとめるのかしら??

November 11, 2014 in 人間の認知について, 観た映画、読んだ本、行ったイベント, 訪れた場所のこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.11.05

人はみたいように世界をながめている

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朝日新聞の「天声人語」


かつて、深代惇郎という名文家がこの執筆者として活躍したことはどこかで聞いたことがあった。


「漢文が得意そうな白髪の老人。年齢は70歳くらい」というイメージを勝手につくりあげていたが、この本をたまたま手に取って深代が46歳で亡くなっていたことをはじめて知った。


「天声人語」を担当していたのは、44〜46歳の時だというから驚き。かくて、人は勝手に自分のみたいように世界をながめている。


この本、新聞人に活気があった時代感がふつふつと感じられてグーでした。

November 5, 2014 in 人間の認知について, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.08.16

終戦の日、巣鴨プリズンの跡地へ

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大学時代、日本の近現代史を専攻しました。


卒業論文は「東京裁判」、先の戦争が終わって、日本の指導者が裁かれた軍事裁判です。

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この裁判では、開戦当時の指導者28人が起訴され、7人が絞首刑になりました。


被告として捕らえられていた当時の指導者は、池袋の「巣鴨プリズン」に収容されていました。で、絞首刑もここで執り行われました。


大学時代、「当時の指導者はなぜ戦争をとめられなかったのか?」と強く思いました。


けど次第に、それが「後世の」「無責任な」「さまざまな情報を得ている」立場からの「感情論」なのだと思うようになってきました。


で、自分自身が会社を経営するようになってからは「自分が当時の指導者だったら、何ができんの?戦争、食い止められるの?」と自分のこととして考えるようになりました。


◉人間は当事者でなければ、いくらでも思考が柔軟になり、アイデァがでてくるものです。
◉人間は当事者でなければ、言葉や行動がいくらでも思い切って大胆になれるものです。


ひとたび、 先の戦争を「当事者」として想像した時、絶望的な状況の中でも最善の打ち手をしようと奮闘した時の指導者の姿がクリアーになってくるようになりました。


大学時代は、確実にこの感覚はなかったな。。。


歳を重ねて世界観が広がったのか、知らぬ間に体制側(?)に順応するようになってきてしまっているのか、人生の折り返しを迎えて何か心の変化でもあったのか・・・よくはわかりませんが。。


昨日は、巣鴨プリズンの跡地にまいりました。そこには、8月15日とはいえ普段とまったく変わらない光景が広がっていました。


それにしても、この辺の問題がイデオロギーの係争ごととして扱われるのはいい加減なんとかしたいものです。来年は終戦70年ですし。

August 16, 2014 in 人間の認知について, 訪れた場所のこと | | Comments (0)

2014.06.26

怖いできごとをきちんと怖がるのはむずかしい

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人は進化の過程で、不安や恐怖の感情を強く保持し続けてきた、だからこそ、現在の繁栄がある。


でも自然界に天敵がいなくなってからは、その本能は同族に向けられるようになった。


こうして自衛意識が暴走して戦争が始まる
。(『朝日新聞』2014年6月26日・作家 森達也「あすを探る」)


「怖いできごとを正しく怖がることは難しい」


自分の師匠が、たびたびこう口にすることを思い出しました。


「怖がる」というのは人間の本能。本能の中でも人の心をグワングワンとかかき回すパワーがあって、「すわっ、ここから逃げ出したい」と人を駆り立てるのが「怖がる」という感情。


だから、できごとを実際よりも大きく、実際よりもしんどくする認知が働いてしまうわけですね。


「オレの怖がっているできごとの実際の姿は果たしてこれで適正か?」


「怖がる」に直面したときは、いやーな感情を身体できちっと感じきる。で、どこかひとごとのような視点を持って、「怖いもの」の姿を正常に近づけていく・ ・・そんなことが大切なのか、と。


国と国との関係はもちろん、個人と個人の関係も、「自衛意識が暴走して戦争が始まる」って結構あるわけで・・・


自衛意識が人間の本能である以上、国にも人にもこれをコントロールするという叡智が求められるわけです。


「過剰な『自衛意識』は、愛のエネルギーをもって吹き払う」しかないんじゃないでしょうかね。「なにを荒唐無稽な!」という意見は百も承知ですが。。。


国際関係やビジネスの社会でこの手のことが通用するのかどうかわかりません(一部取り組み中)ですが、「過剰な自衛意識の先にある世界」が、人間が進化と成長の先に目指す方向であるとは到底思えないのですよね。


なーんてこの記事読んで思いました。

June 26, 2014 in 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.05.26

「不幸な自分」と遊ばない

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映画『晴天の霹靂』(5月24日公開)


自分の中にいる「不幸な自分」


「もっと生まれた環境がよければ、もっとマシな人生を歩けたのに」、だとか・・・


「もっと身体が強ければ、精力的に活動できたのに」、だとか・・・


「もっと学ぶ環境にあれば、苦労しなくてすんだのに」、だとか。


「不幸な自分」ってのは、(何らかの意図の基に)自分が造り出しているんじゃないでしょうかね?


「不幸な自分」と遊ぶのは、「できごとがうまく行かなくてもしょうがない自分」、「努力しなくてもいい自分」を無意識のうちに創っちゃうということ。


マンガ『ドラえもん』に出てくる勉強もスポーツもダメな主人公「のび太」。


彼が自分の出生した頃にタイムトラベルして、「どれだけ親から期待されて生まれてきたか?」を知ってから一生懸命に勉強するシーンがあります。


たぶんこのシーンって、「『不幸な自分』と遊ぶスイッチがオフになった瞬間なんじゃないのかな」とこの映画を観て思いました。


「不幸な自分」と遊ぶも遊ばないも、自らの選択のうちにあるということなのでしょう。


我々はかくも崇高なテーマ、を子供の頃みていたマンガで突きつけられていたのかもしれません。

May 26, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の認知について, 感じたこと, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.05.23

「人ごと」にもちっと市民権を

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AさんがBさんに悩みごとを相談しているワンシーン。


自分の悩みやそれに付随する怒りや寂しさといった感情をしゃべるAさん。そして、それを聞くBさん。


Bさんの反応は真摯にして冷静、かつ沈着。


それを観たAさんが「ちょっと、もっと私の立場に立ってよ」と怒り出す・・・。


ヒプノセラピー(催眠療法)を習っていた頃、こんな事例で「Aさん、Bさんについてどう思うか?」と問われたことをふと思い出す。


「Aさんの感情が動いたように、Bさんが怒ったり悲しんだりする」


これによって、Aさんに一種のカタルシスが起こるのは容易に想像できる。「Bさんがは自分と同じ立場になってくれている」と受け入れられた感覚は、時に悩んでいるバカバカしさに気がつくようなパワーにもなるかもしれない。


けど、仮に「Aさんの話を聞いてもBさんの感情が動かない」なんて場合。


・・・それでも感情移入をするフリ(?)をするのが二人の人間関係にとっていいことなんでしょうかね?


ってか、悩み事の相談って案外とこのパターンの方が多いいのじゃないかしら?(家族、親族などスゴーく近しい関係はのぞきます)


「人ごと」


この言葉の持つ語感ってどこか冷たくて、つけはなす感じがしますけど、自分はもうちょっと「人ごと」って言葉にいい意味での市民権(?)を与えたいのです。


人間が悩むと、どうしても「自分と悩みの同一化」が起こります。自分の中のどこかに悩みがあって、それがどんどんと肥大化してくる感覚に襲われます。


けど、ほんらい「自分」と「悩み」ってのは別物


「悩み」という感情が何かの反応として体内に起こっただけで、「自分」ってのはそれにおかされるものではないはずです。


自分の悩みなんだけど、どこか「人ごと」


たぶんそんな立ち位置が、「自分」と「悩み」を分離させ、「悩みに巻き込まれない自分」をつくるんじゃないか、と。そこから解決の扉が開くんじゃないか、と。


「人ごと」だから冷静に、「人ごと」だから高いレイヤーで考えられるなんてことは、この世にゴマンとあるでしょうしね。


追記
世の中には、「解決を求めていない『悩み』」なんてのもあって・・・。自分も含めた多くの男性諸氏は、ここに「解決」ってスタンスでつっこむ性質がどうもあるようで。


こうした「悩み」の場合は、時には自分を役者にして(?)でも一緒になって怒ったり悲しんだりすることでカタルシスのお手伝いをするのがいいのかもしれませんね。


「解決したい悩み」と「単に共感してもらいたい悩み」と見極める叡智を多くの男性諸氏に(笑)

May 23, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0)

2014.05.22

「酒をたくさん飲める自分でいたい」というイメージ

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3月に「右足ふくらはぎ」が、4月に「左ふくらはぎ」が相次いで肉離れに。


今回は内出血して足がパンパンに腫れる始末で、運動も外出しての酒も控え目にしてようやく回復の兆しがみえてきました。


1年半前に「ぎっくり腰」をやって5日間動けなかった時からの一連の流れ・・・


これらのできごとは、自分に何を突きつけているのかしら?


今回、なんとなく酒を控えめにしてみました。「病気でもないのに1週間断酒」などをいう挙行(?)は十数年以上ぶり。


すると・・・


「『酒をたくさん飲める自分』ってイメージでいたい自分」がどこかにいることに気がつきました(笑)


自分は大学の時に「酒を大量に飲めるようになりたい」と心底思いました。格闘技やプロレスにかぶれてましたから、そんなのが男らしいなどと思ったわけです(苦笑。そいや、昔のレスラーには酒豪伝説がたくさんありました)。


で、飲めない酒を飲んで、街で修業して・・・それが、ある瞬間(まさに、ある寒い夕方の一瞬でした!)からいきなり酒が好きになりました。その瞬間から、量が飲めるようになりました。あれから25年あまり・・・


「20歳の頃につくられた、『自分はこうありたい』ってセルフイメージ像」


そんなものに知らず知らずのうちに固着していた40過ぎの自分・・・


根拠のない関連づけかもしれないけど、今回の肉離れが「そんな固着したくだらないものから自由になりなさい」と言っているようで・・・。


心理学者のユングが提唱した「中年期に訪れる深刻な意識の変容」(ミッドライフクライシス)ってやつかしらね?


とまれ、「酒をたくさん飲める」ってセルフイメージから離れるようにしていこうか、と。親愛なる酒飲み仲間の諸君、酒は辞めないのでご安心(?)を(笑)


ただ、酒量はいままでより減るかもね。

May 22, 2014 in 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0)

2014.04.23

「なぜか好きな国」を訪れてきました

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なぜか好きな国


というのがどうもあるようで。


で、「なぜ?」を突き詰めても理由なんか分からなくて。


魂というものが存在するなら、きっとその魂がその国を彷徨したがっている、ということなのでしょう。そこはきっと、マインドフリーな体感覚が全てな世界なわけです。


「春に旅に行こう」と決めてからいろいろな地域が候補にあがりました。


チベット、マチュピチュ、ウユニ湖、タシケント、ウルムチ、南インド、スリランカ、イエメン、パキスタン・・・


結局、「なぜか好きな国」を訪れることにしました。


バックパッカーをしていた1997年。この国に査証ギリギリ(確か有効期限28日)の期間滞在しました。


勤めていた会社を辞めて、今の会社を創業した2001年。「しばらくは海外にいけないだろうから今のうちに海外に・・・」と1カ国だけ選んだのはこの国でした。


で、今回が3回目。


生涯、100ヶ国は回りたいので(まだ半分くらい・・・)、同じ場所を訪れるのは生産的(?)ではないのですが、今回は自分の「なぜか好き」を信頼しました。


はじめてこの国を訪れた時、自分は27歳でした。


「やりたいことをしたい」と会社を辞めて旅にでてきたのはいいですが、お金がなくて、帰国してからの見通しがなくて、手に職もなくて、借金はあって・・・でした。


「なるようになる」と思っていながら、自分の人生で「なるようになった」実体験(特に社会人としての経験)がきっと希薄だったんでしょう。「なるようになる」という言葉の裏には、たぶんどこか強がりがありました。


17年ぶりに訪れた街で、自分の人生「なるようになったなあ〜」と思いました。


今の仕事、周囲の人間関係、読んでいる本、観ている映画、考えていること、影響を受けている人•・・・


今の自分は何一つも17年前の自分には想像ができなかったことばかり。


そう考えると、今から17年後の自分にはどのような人生が開けているかまったく分からないわけで・・・。


まさに、「なるようになる」しかないわけです。17年前の自分とバーチャルに対話することで、そんなことを肌で感じてきました。


人生に確証を求めたい


という欲求は誰にでもあると思います。「人生の予見可能性」が心の安定をもたらすということもほとんどの人にあることでしょう。


けど、全体世界は自分たち一人一人の想像を超えた世界を見せてくれるようです。人生に過剰な確証を求めるということは、そんな世界への窓を閉じてしまう行為じゃないでしょうかね。


これから自分の「なるようになる」がどのように「なるようになる」のだろうか?を想像するのは面白いものだな、と思ったミャンマーの旅でした。

April 23, 2014 in 人間の認知について, 旅をすることについて、旅をかたること, 訪れた場所のこと | | Comments (0)

2014.04.10

この怒りって感情はワタシの怒り??

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『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ


「なんでこんなこと言われなといけないの?」


誰かに口にされて怒りを覚えることって、誰でもあると思うのです。


けど、その「怒り」って感情をよーく見つめてみると、実は「ワタシの怒り」ではなくて「相手(口にした人間)の怒り」だったりすることってあると思うのです。


自分と他人との同一化


とかく、今の時代は「つながる」が一つのキーワードですから、他人と自分とがごちゃごちゃになりがち。


言葉のやりとりをしているうちに、「相手の怒り」が言葉と言霊を通じて自分に入ってきて、いつのまにか「ワタシの怒り」みたいに感じてしまうわけです。


だから、「他人の怒りを引き受けて怒ることでしんどくなる」なんてことが起きてくるわけです。


怒りを覚えたら、その感情を徹底的に観ること。「その怒りの主体は誰なのか?」を観察すること。


そうすることで、自分と他人との境界がひかれ、「他人の怒りを引き受けない」なーんて心の平安がもたらされることでしょう。


人間、エネルギーは有限。


他の人の怒りを引き受けてエネルギーを消費するのはもったいない、です。


インドの宗教的哲学者クリシュナムルティは、「感情を観察すること」の大切さを教えてくれます。


人は、自分の感情を観察するするよりも感情に任せて動いた方がラクチン。だから、自分の感情のみならず、他人の感情までを引き受けてアクションに精を出そうとするのでしょう。


感情が揺れた時に自分の心を観察できる冷静さが、叡智というものなのでしょう。

April 10, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.04.04

イメージすることは力である

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古今東西、人間は言語化できないものをイメージの力で形にしてきた。


イメージができると、人は安定する。


姿が現れることによって、コントロール下に置けるから。


姿が現れることによって、自己同一化から脱却できるから。


姿が現れることによって、周囲との対話が可能になるから。


今の時代、市井の一個人は「イメージされたものに囲まれている」時代感を生きていて、自らが「イメージ化」する機会がなくなっている。


便利といえば便利、ラクといえばラク。


人間を悩ます死や病、老いや苦しみへの恐怖。みえないものへの怖れや自然への畏敬・・・イメージが不足するからいいようのない怖さが増長する、といえないでしょうかね。


イメージすることは、力です。生を地に足つけて生きていくための主体的な働きかけです。


「イメージの力」展 6月9日まで国立新美術館で開催です。世界各国のお面の展示コーナーはなかなか圧巻でした。


この展覧会のネーミングをした方のセンスはすばらしいですわ。

April 4, 2014 in 人間の認知について, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0)

2014.04.03

知らないうちに反知性主義に毒されていないだろうか?

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『ヤンキー化する日本』斉藤環


「行動してみなければ分からない」


確かにそれは、そう。


机上で考えるのと、現場で行動するのは確実にギャップが存在する。行動してみなければ、確かにこの世はわからないことだらけ。


でも、そこに「反知性主義に毒された自分」がいないかを自覚することは大事なこと。


「反知性主義」とは、じっくりと考えたり、情報を徹底的に集めたり、人の話をきいたり、歴史を調べたり・・・これらを「意味なきこと」としてしまう姿勢ですね。


敵と味方の戦力の違いを無視して無謀な戦争に突入した我が国の歴史を顧みるまでもなく、反知性主義はいたるところに蔓延するもの。


おそらく、知性主義を働かせると「見たくない現実」にぶちあたってしまうからなのでしょう。


例えば新しくビジネスをたちあげるとします。


そこで必要なのは、「気合い」でも「行動」でもないんです。まずは、徹底的な「知性」。自分がやっていくことに関して、知る(調べる)ことですね。


とかく、「知る」は「行動」に比べて地味。で、頭を使うし、しんどい作業です。(特に、起業を立ち上げるタイプの人は行動重視の人が多いでしょうし・・・)


「行動」には、なんとなくの「忙しい感」を伴います。心身が「オレはやってる感」に包まれます。


一方、「知る」には、「オレはなにやってるんだろ感」だとか「行動しなきゃヤバい感」がもたげたりします。


このじっくりと知性に向き合ってられないってそわそわした感覚が、知らずのうちに身につけている「ヤンキー化」した部分なのでしょう。


誰の心にもヤンキーはいる。これが僕の基本的な考え方だ。素直にヤンキースタイルを生きる者もいれば、嫌悪とともにそれを“否認”する者もいるだろう。しかし僕の見るところ、現代はヤンキー文化のエッセンスが、かつてないほど広く拡散した時代だ、むしろ自明すぎて見えなくなっているとすら言える。(P8)


著者のこの言葉、納得ですね。

April 3, 2014 in 人間の認知について, 仕事のことについて, 感じたこと, 経営をするということ | | Comments (0)

2014.04.01

人間は都合よく記憶を書き換えている

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「人間は自分にとって都合のいいように妄想し、自分にとって都合のいい事実だけ信じる」


先週末に公開のこの映画。自分なりにあえて主題をまとめてしまうとこんな感じか。
白ゆき姫殺人事件 オフィシャルサイト


『白ゆき姫殺人事件』というタイトルのもつ語感が、なんかサスペンスチックで、映画の持つ魅力を引き出せていないのでは?というシロート考えはあるものの、現代人必見の映画です。


「あの時に、こんなことがあった」だとか


「あの時に、こんなこと言われた」だとか


「あの人にはあんなことをしてしてあげたのに」だとか


人間の過去の記憶(エピソード記憶)ってのは、たいがいは自分にとって都合のいいように書き換えられていていい加減なものなわけです。(こういう学術的研究もあるようですね)


けど、「ワタクシ」(私)をコントロールする司令塔の脳みそは、絶対的な万能感を持っている。


だから、「私が記憶していることは、間違いがないはずだ!だって、私自身のことじゃん!」とになるわけですね。


そういう人に、「エピソード記憶なんていい加減なものじゃん!」なんて言おうものならたいがいは、反発をされるわけです。


この映画は「人間のエピソード記憶なんていい加減なもの」というメッセージ(&具体例)を観る人に与えてくれます。


それぞれが、自分にとって都合のいいエピソード記憶同士のぶつかり会い


そこを理解してはじめて「自分の記憶も間違っているかもな?」という謙遜の精神や、「あいつのいっていることにも一理あるかもな?」という気持ちが他人に対して生まれてくるんじゃないでしょうかね?


「絶対」「間違いなく」「確実に」


が多用されるということは、おそらくエピソード記憶に固着しているってサインです。


ここから離れる勇気(固着は安心と安定をもたらしますから離れるのには勇気が必要ですね)と自在さを持つことは、他への共感への第一歩になるんでしょう。


「これって本当なんですかね?」


この映画でふいにでてくるこの一言、なかなか深いですよ。

April 1, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること, 観た映画、読んだ本、行ったイベント, 言葉について | | Comments (0)

2014.02.28

シンクロがやってきた

「いつかこの方にはお会いしそうだな•••」


一昨日の朝、某新聞にでていたインタビュー記事。


お会いしたことない方だけど、なんか予感があったのでインタビューの内容をちょっとだけメモ。出版人で年齢は同じくらいの方。


で、昨日の午後。


ある打ち合わせで、同席をしていた方からこの方のお名前がでてくる。どうやらこの出版人と懇意にされているらしい。


で、話の流れで近々お会いできるような感じに。関係各位の打診はこれからなのだが、もしかすると「何かしらの企画をご一緒できるかも」という展開に。


「シンクロ」


こういうできごとを、そう呼ぶのでしょう。


けど、「シンクロ」って驚いたり、喜んだりする類いのものじゃなような気がしていて•••むしろ、ある条件が揃っていさえすれば「シンクロ」が起きることが普通な状態なんじゃないか、と。


「いつかこの人にお会いしそうだな」


と自分の心が動いたこと。たぶん、これは自分の意志ではないわけです。


直感、というと安っぽくなってしまいますが、きっと自分ではないどこからかもたらされたものなのでしょう。


そんな世界観の中では、「できごと」が向こうの方から自分を追っかけてやってきます。


「シンクロ」なんてビシバシと起きるでしょうし、いろいろなことがなぜかスムーズにすすんでいくわけです。


こちらから「できごと」を追いかけていく世界観とは対極ですから、エネルギーも少量で済みますし、なによりも障壁がどんどんとクリアーしていくのが心地よい。


たぶん、「できごと」を追っかけている感覚があるときは「シンクロ」なども無縁。それは、「直感」ではなく「エゴで考えた『直感』もどき」だから。


「もどき」はどこかスムーズさにかける、どこかつっかかりがある•••


「もどき」とそうでない世界とはたぶん形こそはにていても、対極にある世界なのでしょう。


シンクロに一喜一憂するのではなくて、「あー、やってきたか」って淡々とした世界観なのかな、と感じます。

February 28, 2014 in 人間の成長について, 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.20

恐いものの恐さを知ること

Takuan

「恐いものの恐さを知ること、それが本当の勇気」


無鉄砲で、暴れん坊だった若き日の剣豪・宮本武蔵にあるお坊さん(沢庵和尚)が口にした言葉です(だいぶ私の言葉になっています)。


武蔵はそこから蔵にこもって読書を3年し、人格を磨いていく・・・


吉川英治さんの描く『宮本武蔵』、前半の一つの山場です。


「恐怖心」


凡そ、フツーに生活をしている人でこれと無縁な人はいないわけです。


お金があればあるで、社会的な立場があればあるで、仕事のスキルがあればあるで、子供が健全に育っていればいるで・・・


これと付き合っていかないといけないのはたぶん人類全体のカルマなんでしょう。


昨日はワークショップでした。2ヶ月に一度、経営者が10人ちょっと集まる会合で、早いもので参加してから丸4年が経ちました。


テーマは一切なくて、それぞれが話をしたいことを勝手に話すところから会は進展していきます。


将来の事業への不安、家族や社内の問題、事業継承の悩み、新規事業への迷い、「ありたい自分」と「現実の自分」とのギャップの葛藤・・・


自分らが「問題」として人に相談したくなることの多く(ってかほとんど)は、この「恐怖心」って問題にいきつきますね。4年間でたくさんのケースを見聞きできました。


自分たちは、全力をあげて恐怖から逃げようとします。


「今はこれに取り組む時期じゃない」だとかいってマインドをフルに駆使したり、


「オレはゼンゼン恐怖んなんかないぜ」と感情のスイッチをオフにしたり、


やたらと周囲に対して攻撃的になったり、


恐怖を感じないようにバタバタと忙しく新しい行動をしてみたり・・・


ホントに人は狡猾に自分を騙す(笑)


沢庵和尚の言うように、恐いものを恐いものの姿のまま、過大評価も過小評価もせずに見つめること


これがやりきれると、できごとそのものが姿を変えてしまうことがあるんですね。そんなケースもいくつも見させてもらいました。


「恐いものの恐さを形のままに知る」


ここは「一人一人が自分でなんとかする」のではなく、信頼できる師匠や仲間、家族との相互依存(いい意味での依存です)の中で向き合っていくことが必要なんでしょう。


寺子屋、青年団、サークル・・・形はなんでもいいと思います。


「恐いもの」を必要以上に大きく見せるための情報がたくさんある時代は、こうでもして自分を守っていかないとやられちゃいますからね。


ってか、自分がそんなサークルでもつくるかな。

February 20, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の成長について, 人間の認知について, 精神的なこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.17

「嫌なヤツ」を考える

「嫌なヤツ」は自分の投影、だから「嫌なのだ」。


って考え方があります。


「嫌なヤツ」を見ることで、自分が抑圧している「嫌な自分」が直面化される。


だから、無視したり、バトルしたり、陰口言ったりして人は心の平静を保とうとする。つまり、自分の中で抑圧していることに更なるフタをする。


そんな考え方があります。


けど、これってどれだけマインドで考えたところで腑に落ちないと思うのです。


だって、「嫌だから嫌なんだ」ってマインドはもはや感情の領域。それを凌駕するマインドは存在しにくいわけです。


冬場に入る風呂の気持ちよさを理屈で説明できないように、「アイツは嫌」を理屈で説明、理解できるわけがないわけです。


たぶん、人間における「嫌なヤツ」問題は、自分のスピリットに働きかけないといけないわけです。


「世界は愛と調和に満ちている」と考えると、「嫌なヤツ」の存在ってのはどう考えても説明がつかないわけです。


愛とは無縁な気がするし、調和とはまったく逆・・


なんで愛と調和に満ちている世界にこういう人が存在するのか?


この説明のつかない矛盾。ここは、たぶん自分たちの「エゴ」の部分なわけです。


何かを期待したり、何かを求めたりとする自分たちマインド(「エゴ」)の部分なわけです。


「エゴ」は社会の推進力になりますし、人間の活力の源でもあります。


そんな一方で、「エゴ」は「イタい大人」の種子のようなもの。「エゴ」の種子は他人からの承認欲求をエサにしてどんどんど肥大化していく危険性があります。


ここはうまく付き合う必要がありますね。


「嫌なヤツ」は、自分の「エゴ」を客観的に見せてくれる存在


マインドではなく、スピリットでそんなイメージをしてみてはどうでしょうかね?


フツーは「自分のエゴの部分を見せてくれてありがとう!!」なんて聖人君子みたいなマネはなかなかできないでしょう。


けど、マインドが「アイツは嫌」と支配されてる時は「敵」と思ってたヤツが、スピリットに働きかけるとちょっとだけいとおしくなる(?)瞬間があるから不思議です。


そう、それは人生を生きていく上での同志みたいな感情かもしれませんね。

February 17, 2014 in 人間の成長について, 人間の認知について, 人間関係に関すること, 経営をするということ | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.02.04

謙虚と自己否定との間

「自分を肯定せず、いじめるのが好き」


無意識にそういうスイッチが入る人、案外と多いと思うのです。


かくいう自分もたぶんその一人。


そんなだから30代の頃は、「まだまだ自分なんか・・・」って常に思っていて、何かに駆り立てられるように動いていたわけです。


「ユニクロやソフトバンクの社長から見たら自分なぞは仕事ができない人」ってのが口ぐせだったわけです。


たまに、人様から褒められたりすると「いやや、自分なんか・・」というスイッチがすぐに入るような人間だったわけです。


そんな自分が、「謙虚なワタシ」だと思っていたんですね。


けど、本当にそれが「謙虚」に基づくものなのか?とあるとき思ったわけです。


人間社会には、「自己評価が高くて傲慢」「自己評価が低くて謙虚」ってステレオタイプの人ばかりが存在しているわけじゃないわけです。


「自己評価が高いが、人として謙虚」


って人もいれば


「自己評価が低いが、人として傲慢」


なんて人もたくさんいるわけです。


たくさんのパターンがある中で、時に人は「『人として謙虚でありたい』という隠れ蓑(?)の元で、自己評価を低くして生きる」という生き方を選ぶようです。


自己評価を低くするのは、アドラー流心理学的にいうとそれが「今の自分にとって何かしらのメリット」があるから。


自己評価を低くすることで得られるメリットが、「いま、この場所で」存在するからなのだそうですね。


「謙虚は美徳だけど固着するものじゃない」


「謙虚」と「自己否定」とがごっちゃになった人には、こういうテキトーさが必要なのかもしれませんね。

February 4, 2014 in 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.01.24

「ポジティブシンキング」と「生きる力」と

「ポジティブシンキングになれない」


「ポジティブシンキングになりなさい」


なんて、人が悩んでるシーンなどで普通に使われてますね。


けど、生きていればポジティブになんかなれない時があるわけです。


「どう考えてもポジティブなスイッチが入る気力が起きない」なんてことはフツーにあるわけです。


「ワタシはそんなことが人生で起きたことがない!」なんて人はたぶんどこかにフタをした生き方をしているはずなんです(いつか自我の逆襲がやってくる・・・はず)。


でも、そんなしんどい時期にも「よいこと」と「新しいこと」は日々おきているのであって・・・


元気がない時は、これら「よいこと」と「新しいこと」を丹念に集めていくしかないと思うわけです。


「よいこと」と「新しいこと」は、数が集まって、時間の経過で熟成されるうちに、調子のよい自分への呼び水になるわけです。


「今日一日、『よいこと』も『新しいこと』もなかったな」


なんて夜があれば、近くのコンビニでいままで買ったことのない商品でも買えばいいんです。


たとえ、それが10円のガム一つであっても「新しいこと」が一つできて一日を終えることができるわけです。


そう考えると、暗闇のどん底で周囲が敵にばかり見えてくるような日でも、どこかに必ず「よいこと」と「新しいこと」はあるはず。


こういう確信は、「ポジティブシンキング」の世界感ではなくて、「生きる力」って世界観の範疇だと思うわけです。


「ポジティブシンキング」が蔓延して、人間の「生きる力」に焦点が集まっていない


なんてことはないでしょうかね?


ポジティブシンキングになんかなれなくても、人間は「生きる力」を発動できる生き物なんです。


悩んだら「生きる力」を発動させればいいんです。


いうほど簡単じゃないとは思うけど、「ポジティブシンキング」なんかを目指してたら時に「悩みの泥沼」から抜けられなくなると思ったりします。

January 24, 2014 in 人間が悩むということ, 人間の成長について, 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.01.22

あのとき、ああいったじゃないですか

「文脈」


言葉は文脈で語られるわけです。


逆にいうと、文脈から言葉だけを取り出しても、本来は存在価値がなくなってしまうわけです。


言葉は絶対でないわけです。ってか、言葉ほどいい加減なものはないわけです。


だって、文脈によってその姿形をどんどんと変えていきますからね。


「あの時、こういったじゃないですか」


的な話は、組織の大小を問わずどこでもあることだと思います。私もこの手のやりとりは数えきれないほどやってきましたしね。


確かに、言葉だけとらえると主張する側の論理も分からなくないわけです。


でも、そこには文脈が存在している(存在していた)わけです。その言葉が語られた流れ、背景があるわけです。


その文脈を踏まえた話であればいいんです。


けど、多くの場合は時の経過とともに、文脈は忘れさられ言葉だけが一人歩きしているわけです。


こんな例に、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で始まる『葉隠』という古典があります。江戸時代に出版された武士の心得について書かれた本ですね。


この一節(言葉)だけみると非常にエキセントリックな主張に聞こえるわけです。だから、『葉隠』が先の戦争で「死を恐れず戦え」という国威発揚に使われたわけです。


けど、この本をきちんと読めば「武士らしく生きるためにどうするか?」という文脈があるのがわかるわけです。死ぬための本ではなく、生きるための本なわけです。


著者が生きていたら、どう思うんでしょうね。。。。「オレの言葉を勝手に解釈するなよ」とかいうんじゃないでしょうかね。


人間、脳のメモリーはあるようでそんなにないようです。だから、どんどんと文脈を忘れていくんです。で、自分にとって都合のいい言葉だけをメモリーしていくんです。


あとは、無意識のうちに自分にとって都合の悪い文脈をディレート(消去)してしまうこともあるようですね。でないと新しいものが入ってこなくなってしまうでしょうし。


「あなたは自分の都合で組み立てた言葉を発してるし、私だってそう」


言葉ってのはいい加減なものなんですから、本来ここはお互い様の世界なんですよ。


そもそも無力で限界がある言葉を通して我々はコミュニケーションを強いられているわけです。大いなる存在がこの世を生み出した時にちょっとばかし遊んだのかもしれませんね。

January 22, 2014 in 人間の認知について, 人間関係に関すること, 仕事のことについて | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.01.16

「なんであいつはああなんだ?」を悩むときの補助線となる一冊

1
『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社)


「人は変えられない、変えられるのは自分だけだ」


って言葉あります。


「なんであいつはああなんだろうね?」といくら陰口言おうが、「あいつは○○って過去があるからああいう行動をするんだ」とトラウマ的分析をいくらしようが、変えられないものはどうしようもない。


どこの組織、人間関係でもよくある話ですね。


この本が取り上げているアドラー流心理学にいわせると、そこには「変わらないことで得られる『目的』」が存在するからなんだと。


たとえば、「いつまでもダメな自分でると周囲から期待されずラクチンだ」なんて目的。


ほかにも、「周囲から陰口をいわれることで周囲から同情を買いたい」という目的だとか、「ダメな自分を演じることで逆に他人を支配したい」という目的だとか。


そういう極めて個人的な目的。


アドラーは、過去のトラウマに責任を求めるのではなく、今日、いま、ここに存在する何かしらの「目的」にアプローチする心理学。


人間関係の問題をトラウマ的なアプローチから入ることは、確かに一定の有益性はあるでしょう。


けど、一方でトラウマ分析の堂々巡りのスパイラルに陥ってしって、過去をこねくりまわしてしまうことに時間をつかってしまいがちであるのも事実かと。


フロイトやユングと並ぶ心理学の巨頭でありながら、いまいちマイナー感のあるアドラーが分かりやすくまとまっています。


自分自身を知るため、人を知るため。


人間関係を複雑にしないため。


そこからもたらされる悩みを軽減するため。


すべての人必読の本だと思います。

January 16, 2014 in 人間の認知について, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.01.08

エネルギーが変わった

Hatuhinode

新春から明らかにエネルギーが変わりました。


空気感が変わりました。


こういう時は、新しい出会いがなぜかやってくる。あたらしいできごとのきざしがやってくる。


かつて縁があった人から連絡がある。読む本、観る映画、参加したイベントが今の自分にどんぴしゃだったりする。


「たまたま」「思いもよらず」「あとで思えば不思議なんだけど」が多発する。


理屈じゃ説明できないけど、確実に存在する世界。


こういうことをいうと「スワッ、精神世界!」と聞く耳を持たれないことが多かったですが、最近はだいぶさまがわりしましたね。


「世界は自分自身の心の鏡」


と心理学ではいわれますが、「エネルギーが変わった」と感じることは、自分自身の心の中が変わったということなのでしょう。


この世界は、自分自身では分かり難い心の状態を「新しいできごと」「思いもよらないできごと」という形で顕在化させてくれるのですから面白いものです。


ともあれ、新春からエネルギーは確実に変わりました。


一つ一つの「できごと」を感謝し、丁寧に対応できる心の余裕を。一つ一つの「できごと」に「いい」「わるい」を決めつけない思考の柔軟性を。

January 8, 2014 in 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.12.27

「成長」は周囲の評価で感じられるもの

「成長する」


自分の成長を肌で感じる局面ってのは、生きていれば確かにあると思います。


けど、成長って本来は「徐々に」「わずかづつ」「本人の気がつかないまま」におこるものだと思うのです。


木が徐々に年輪を太くしていくようなイメージでしょうかね。


「勉強をはじめたばかりのころ」だとか「仕事を覚えたてのころ」ならいざしらず、一通り仕事を覚えた職業人の「成長」がダイレクトな手応えを持つはずがないのです。


だって、日々の成長なんかゆっくりと、じわじわとしか進みませんからね。


周囲から「君は昔とくらべて変わったよね」といわれて、「えっ、そうですか?」という世界観だと自分は思うのです。


だから、自分の成長を感じるには長い時間を共有している先生や先輩、仲間や友達やが必要となるんです。


「自分はこれだけ成長した」


就職の採用面接の場ならいざしらず、本来、「成長」なんて言葉は自分に対して使う言葉ではないんですよ。


「努力しているけど、自分が成長しているかどうかわからわない」という不安を持っている以上、「成長」はゆるやかでも確実になされていると思います。そこには世間や自分自身に対しての謙虚さがありますからね。


一方で、「自分は努力もしたので、こんなに成長した」と思っている人。そこに、過信と高い自己評価とが内在されていないか、年末年始のこの時期に観てみることは有益かもしれませんね。


今年、10年以上師事している師匠筋から「昔と比べだいぶ変わった」といわれました。


最初は「そうですか?」と思ったのですが、普段、ほとんどこの手のことを口にしない人(ってかいつも毒舌で厳しい言葉ばかり・・・)の言葉ですので、じわじわと喜びに変わってきました。


「今年あった嬉しかったできごと」


このテーマについて書こうと考えたら、まっさきにこの時のことがでてきました。


「成長」を周囲の評価で感じられる


ってのは、きっと人間の根源的な喜びなんでしょう。


来年も一つでも多くの喜びを感じられますよう。今日、27日で仕事納めです。

December 27, 2013 in 人間の成長について, 人間の認知について, 尊敬する人、または師匠筋, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.12.13

人間に自由意志があるのかどうか、ということ

「なりたい自分」ってのは周囲がつくるんじゃないか、というこないだのブログ


「人間には『なりたい自分』を目指すだけの自由意志はないのか?」


というレスポンスをいただきました。


至極もっともな反応だと思います。


哲学だとか心理学で人間の自由意志がどうとらえられているかはよくわかりませんが、自分は「人間の自由意志」なんてそんなにないんじゃないの?ってのが実感覚。


だって、病気、衰弱、死、離別、喪失・・・人間にとって大きなできごとであるこれらのことの何一つが自由意志で回避したり、未然に防いだりできないじゃないか・・・。


たとえば、「誰と出会うか?」。たとえば、「どんな会社で仕事をするか?」


なんとなく自由で選択する余地がありそうなこれらのことだって、自由意志で選択できる部分なんてごくごくごくごくわずかでしょう。


日本人だけでも1億人いて、会社だけでも数百万ある中でほとんどが一個人の自由意志とはかけ離れたところで何かの意志が動いているんじゃないでしょうかね?


運と偶然とが織りなす世界の中で、自分らは「自由意志がたくさんある」って幻想を生きていると思うのです。


最近、『老子』が人気があるようですね。


『老子』のいう知足(足るを知る)という生き方は「自由意志はそんなにないんじゃないか?」というところからうまれると思うのです。与えられた人生の中で全力を尽くそう、という生き方ですね。


『老子』が読まれているってのは、「人は自由意志がたくさんある」って幻想から人間が目覚めてきた証左なんじゃないでしょうかね。


宇宙飛行を自在にしているとはいっても、たかだかまだ月とその周辺。科学的にカビ一つつくれない人間が「自由」なんて口にするのがおこがましい、といいったらいいすぎかしら。


自由という幻想があるから不自由になる、不自由がゆえの自由


そんな現実にたまには目を向けたいものです。

December 13, 2013 in 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.11.29

投影ゲームってやつについて

人間には「自我」がある


という立場に立つ限り、不平や不満は必ず生まれます。


で、人は均衡や安定を求める生き物ですから、不平や不満が内在している自分ってのは、当然、気持ちのいいものではないわけです。


そういう前提に立つからこそ、


不平や不満を白黒はっきりとさせず、どれだけ灰色のままで抱えていられるか?


それが人間の大きさってやつだとも思うのです。


器の大きい人、とはたいがい自分の中に灰色の部分をたくさんもっている人です。それを持っていられる気力があるし、笑い飛ばすエネルギーがある。


そして、投影やルサンチマンをすることで自分の内的な矛盾を解消しようとしない冷静さ(?)があると思うのです。


投影やルサンチマンは一時的に内的矛盾が解消されますけど、次の投影やルサンチマンを呼びますからね。人間の組織で投影ゲームがはじまると、何が事実だか分からない、ってことになりますから注意したいですね。


器が大きい存在の人がいれば投影ゲームの連鎖は断ち切られるんですよ。

November 29, 2013 in 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.11.26

「いいこと」と「わるいこと」と

マーフィーの法則を出すまでもなく、「わるいこと」ってのは起きる時は続けて起こるもの。


不可思議ですね。


「わるいこと数珠つなぎの法則」(?)みたいなのがあるんでしょうかね?


自分の運のなさをなげいたり、順境に見える人をうらやんだり、「自分がやってきた行為(カルマ)の清算じゃないか」だとか意味づけをしようとしたり・・・


暗闇のジェットコースターに真っ逆さまに落ちるような経験をすると、人はそれぞれの生育歴や思考パターンによって自分の気持ちと向き合うようです。


いずれにしても、ここは人間が「思議する可からず(不可思議)」の領域なので、人間が思案してもどうにもならないこと。大いなる存在の領域に手をだしても、苦悩は続くだけでしょう。


ただただ、自分ら人間ができることは、マインドセットを見直すこと。


「いいこと」、「悪いこと」ってのは人間のマインドが織りなした世界観だから、このマインドセットを見つめること。


自分はこの「できごと」を「わるいこと」って思ってるけど、本当??


と問いかけること。


そもそも、できごとは「できごと」として存在しているだけ。そこに付着した人間の解釈が自分自身を苦しめるだけ。


人間は「できごと」に一定の解釈を与えることでコントロール下に置けるようになるらしいです。それが場面によっては生きやすさ、生きる喜びにもなる。


けど、時と場合によってはその解釈によって苦しめられるってわけだからおもろいものですね。


「できごと」に対して「いいこと」、「わるいこと」と解釈しない心の強さを。

November 26, 2013 in 人間が悩むということ, 人間の認知について, 感じたこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.11.19

昼飯はカレーかラーメンか(別題:覚悟が決まったあとには)

26歳で2年と11ヶ月勤めた会社を辞め、旅にでました。


そんな過去があるものですから、「会社を辞めて旅にでることに迷いはなかったですか?」と聞かれることがあります。


そんなときは決まって、「昼飯にラーメンを食べるかカレーを食べるかの違いくらいしかないと思った」と口にしてきました。


けど、人間の記憶ってのはいい加減なもの。我々のエピソード記憶は日々刻々、自分の都合のいいように書き換えられています。


「より美しく」だったり、「より悲惨に」だったり、「よりヒロイスティック」だったり・・・・


個々人によって書き換えられたエピソード記憶をもとに、記憶は再構成されていきます。


で、エピソード(できごと)そのものと記憶との間に乖離ができていく。


こないだ、あることがあってそんなことをぼけーっと考えた時に、「俺って本当は軽い気持ちで旅にいったんじゃねえな?」という思いがふともたげてきたわけです。


「いったい、26歳の俺はどんな気持ちで会社を辞めたんだろう?」と身体に聞いてみたんです。


そうしたら新たな発見が・・・


26歳の自分は、会社を辞めるのに相応の覚悟をしたわけです。貯金無し、借金ありって生活になることを覚悟したわけです。


帰国しても仕事が見つからないかもしれないって現実を覚悟したわけです。仕事が見つかったとしても、いままでの待遇から大きくへこむ可能性を覚悟したわけです。


・ ・・ん?


「昼飯をカレーかラーメンにするか」なんて軽い気持ちで当時の自分が会社を辞めて旅にでたわけじゃねえぞ、と気づいたわけです(笑)


あの頃の自分は、相応な覚悟をして自分は会社を辞めて旅にでたわけです。


いまの自分から見れば、「そんなのカレーかラーメンか、って程度の話じゃん」と思うのですが・・・旅に出たという記憶がどんどんと上書きされていって、「当時の自分がそう思っていた」と脳が誤解(?)していたんですね、たぶん。


・ ・・さて、今現在、なにかの問題を抱えているとします。


その問題を解決するには、相応の覚悟が必要だとします。覚悟には「大きな変化」だとか「大きな手放し」が問題に内在されているでしょうから、すぐには決断は出せないでしょう。


こんな時は、覚悟が決まるまでマインドをフルに働かせて「あーだ、こーだ」と悩むのがいいと思います。人間は悩みたい生き物、ですしね。


特にM気質の人は悩んで自分を痛めるのが大好きなようですし(笑)悩んだプロセスが人間の根っこや存在感をつくるのは、どうやら間違いがない。


が、覚悟が決まって決断ができたら、それは時間の経過のうちに「カレーかラーメンか」的な話になっていくんじゃないでしょうかね?


それは、覚悟を伴う決断をした人に与えられる祝福のようなもの。レイヤーがあがるというか、問題から距離を置けるというか・・・


受験だ、就職だ、結婚だ・・・


大きな覚悟に直面する20代の人と比べて、自分ら40代ってのはこと「覚悟」ってことに関しては、案外と安穏としてるんじゃないでしょうかね。


ってか、きっとそうですね。


ということで、今日からブログ再開します。

November 19, 2013 in 人間が悩むということ, 人間の成長について, 人間の認知について, 旅をすることについて、旅をかたること | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.09.07

人間は色付きのメガネで世界を見ている

人間は誰しもが「色付きのメガネ」で世間を眺めてます。


この「色付きメガネ」って、持って生まれた性質と生育歴とで形成されるようですね。


他人の人生を生きることができないのと同様、他人の「色」がどのようなものかを体感することはほぼムリなこと。


でも残念なことに、この「色」の違いが人間関係の難しさの原因であることが多いようです。


たしかに、「キラキラとしたピンク色のメガネ」と「ダークで真っ黒なメガネ」との間では、当然、周囲の見え方も、考え方や意見も違ってくるでしょうから当然ですね。


で、「なんであんな考え方をするんだ?」ってお互いがお互いに対してそんな思いを持つ・・・


人間、誰一人として「無色透明なメガネ」なんて人はいないですから、「色」の分だけそれぞれが世間を歪んだ形でみているわけです。


けだし、「色」があまりに濃かったり、強かったりすると社会的にやっていきにくくなるわけです。


「なんであれをああいう風に考えるの?」


となるわけです。


極度のポジティブシンキングだったり、超悲観主義だったり、自分中心の被害者意識だったり、程度を超えた自己愛だったりですね。


けど、周囲からは「ちと、歪んでない?」としか見えないこうしたことだって、本人の認知は「何がおかしいの?」だったりするから難しいわけです。


さらには、「私の『認知が歪んでいる』と口にしているあなたの認知こそが歪んでいるんじゃない?」って自己防衛も入ってくるから、さらに難しいわけです。


おそらく「人の抱える生きづらさ」の根底には、「認知の歪み」って問題が多くの場合あるのでしょう。


けど、「自分の認知は歪んでるんじゃね?」ってことに自分から頭が向かないとおそらく何もはじまらないでしょうね。


逆にいうと、「自分の認知は歪んでるかもしれないなあ」とスイッチが入った時点から、変化と変容へと向かっていくんじゃないでしょうかね。


昭和の名経営者・松下幸之助さんのいう「成功できる人は素直な人」というのは、「認知の歪み」に自分から気がつき、そこから自在に離れられる人なのだと自分は思っています。


「認知は歪んでるけど、素直な人」なんてのはいませんからね。

September 7, 2013 in 人間の認知について, 人間関係に関すること | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.07.09

とりあえず、「    」(カッコ)にいれておく

「頭のやわらかさ」


ってのは、歳取ると重要ですね。


オヤジの小言ではないですが、やわらかいようでいて固いのが人間の頭脳でしょうし。


頭の固さは思考や、心の固さ、はたまた人間関係のぎこちなさともつながるから、やわらかくしていくにこしたことはない、と思うのです。


でないと、歳取ってから孤独だし、ともすると「イタい大人」へなってしまいますしね。


でも、固い頭を柔らかくするのは難しいわけです。


「あたまを柔らかくする本」みたいな本を読んで、能のトレーニングをしたり、映画や小説にふれて感受性を高めたりなんていっても、基本となるものができていないとダメだと思うわけです。


ではその基本となるものは何か?


自分は、「自己判断の停止」ってスイッチを自在に入れられるかどうか?だと思ってます。


目の前でおきたできごとに対して、自分らは「自己判断」をくだします。で、「自己判断」に基づいて行動します。


けど、この「自己判断」ってのが頭の固さの原因の一つでもあります。


「判断」をするというのは選択の世界。


「選択」は個々人の生きて来た環境や身の回りでおきたできごと・・・要するに過去のできごとから判断がなされます。目の前のできごと、って今の現実を、過去のできごとからの判断で処理しようとしているのが、人間の行動パターンなわけです。


「自分が無意識のうちに行っている選択。その外にある広大な世界」


頭をやわらかくするには、この広大な世界にアクセスする必要があるのかと。


現象学に「自分の判断をカギカッコにいれて保留しておく」エポケーって考え方がありますけど、まさにこの考え方ですね。


ある席で、二回りくらい離れた人の講釈(講釈、っていっている時点でだいぶ自己判断が入ってますが 笑)を聞く機会があったのです。


「これからの経営者は○○でなければいけない」的な話ですね。


大塚的な自己判断からすると「お前の無責任な意見なんか聞きたくねーよ、こら」って意識だったのですが、この発言を「    」(カッコ)にいれてしまうと見方、聞き方がぜんぜん違ってくるのですね。


たぶん、頭の柔らかいひとってのは意識的にか無意識的にか、このようなことをやっているんだと思います。


なんでもかんでも自己判断のスイッチを発動していると、エネルギーも消耗するしね(笑)


追記
あとは、頭を柔らかくしとくためには「無邪気な自分を取り戻す場所」を確保していることでしょうかね。


「あいつは頭が固い」って人で無邪気な人ってのはあまりいませんからね。


歳取ったら趣味が大切、ってのはこの文脈の中で語られるとベストな選択だと思いますよ。

July 9, 2013 in 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.11

人間はなんで所有したがるのだろう?

一般的に人間は所有したがる生き物です。


お金はいうに及ばず、家や車といった財産や恋愛相手。価値観や信念といったものにいたるまで、所有をしたがります。


で、時として「所有したものを守るために自分が存在する」なんて本末転倒なことが起きるわけです。


1996年の春、自分ははじめてつとめた会社を2年と11ヶ月で辞めました。


それだって当時としてはそれなりに悩んだわけです。


そこには、「せっかく勤めたのにもったいないじゃないか?」って意識が確実に存在していたのですが、それだって「会社員という立場の所有」の放棄だったわけです。


一度所有したもの


それを手放すというのはエネルギーやパワーが必要なわけです。


たぶんなのですが、所有は「変わらないものを求める人間の心理」に起因した行為なのだと思います。


自分らをとりまくものは「変化するもの」ばかりです。というか、「変化しないものなど存在するのか?」ってもともとが不安定な世界を自分らは生きています。


そんな中でお金やモノを所有することや信念を持つことは、「周囲のものを自分のコントロール化に置き、変化しないものに取り囲まれようとする営み」のような気がします。


そもそも、所有なんて行為は小難しいこと抜きに「欲しいから欲しい、以上」でいい世界だと思うのです。


けど、人間ってのは自分の事が一番よく分かりませんから「消費したり、信念を持ちたがる自分の気持ち」から「安定した、安心した自分を求めている気持ち」に気がつくことも大事かと。


だって、世の中は安定など全然していないし、無常ですしね。モノや信念の所有で永遠の安定がもたらされるなんてことは絶対にないわけですし。

June 11, 2013 in 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.06.06

人間の教育について

正しいことを教えても、自分なりの勝手な解釈の域をでない人ってのはいます。(「正しい」の定義はここではまず置いておきます)


この手の人は、自分自身の枠を壊す(広げていく)のではなく、事実の方をねじまげていきがちです。それも、多くの場合が条件反射的にですね。


一方で、トンチンカンなことを教えても、自分で軌道修正していく力が備わっている人ってのもいます。


この手の人は、事実をねじまげるのではなく、いちどは事実をうけとります。その上で自分なりに咀嚼して、解釈していきます。で、解釈に合わないことは自分なりに探索をしにいきます。本を読んだり、人の話を聞いたリですね。


「いい上司や先輩に恵まれれば自分を伸ばせるのに•••」と考える職業人はたくさんいるでしょうが(自分もそう思ったことがありますし)、そんなのはたぶん幻想なのです。


結局のところ、受け取り手の心の問題ですからね。


以上、自分の考え方です。


おそらくなのですが、大人の教育にとって必要なのは「自己解釈の溶解」なのだと思います。


学校教育は「自己解釈の形成」に重きが置かれていました。「私は○○です」という価値観やアイデンティティの確立が優先されました。


で、自分らは教育や生活を通じて幾多の価値観を生み出してきました。それはそれは、自分らが生み出した財産あり、生きてきて実践ですぐに役立つ武器となりました。


けど、その価値観やアイデンティティってのはすごく限られた情報や人間関係の中で築かれたものでしかないわけです。


で、時に人間はそんな脆弱なものを大切に大切にしているわけです。そこから、いまの自分をつくろうつくろうとしているわけです。


結局のところ、大人になった人間が伸びる伸びないは「ガキの頃につくった自分の解釈」を自分で破壊ができるか否かって部分に帰結するのだと思います。


では、なぜそれができないか?


単純に言うと、自我崩壊の恐れでしょう。


自分らは「自分はこう考える」を武器にして生きてきましたから、それが揺らぐと過度の恐れを抱いてしまうだけの話なのですね。


自分なりの価値観を持ってどっしりとしているけど、それに固執していなくて、自由自在な自分


って感じでいれたら教育なんてものを意識しなくても、自分は成長していくんだと思います。


逆に、自分にどうしても自分のつくってきた自我に固着したいって人は、そういう生き方もあるでしょう。ここは生き方の選択の問題です。


けだし、固着は次の固着を生みますし、年齢を重ねるたびに固着は自我にこびりつきます。


自分はイタい大人への第一歩は自我への過度の固着だと思ってますから絶対に選択はしたくないです。なので、縁ある方にはここを強く訴えたいな、と。


自分が人に行える「教育」ってのは、たぶんこれくらいしかないのですよ。そもそも、人が人を教育するってのも幻想でしょうしね。

June 6, 2013 in 人間の美意識について, 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.05.13

正義は正しい。けど、それを武器にするのは正しくない。

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その昔、宗教の勧誘をうけたことがあります。


高校時代の女友達から呼び出されたのですが、雑談もそこそこに「人間には10の悪がある」だとか「廃退した地球を救う」みたいな話になっていったんですね。


で、「一緒にやりましょう!いまやらないと手遅れになります」と。


「全然、興味がない」と話をすると「その理由をいってください」と。


まあ、いきなり呼び出され、聞きたくもない話をきかされて、挙げ句にこれですから無茶苦茶なわけです。


こんな押し問答が続いた結果、「目を血走らせて『廃退した地球を救う』なんていってもムリに決まってるじゃん、バカ」と一言残して帰りました。それが彼女と会った最後の瞬間ですね。


さて、この時の彼女の話。環境やら、教育やら、政治やら•••話としては非常にいい話でした。


いわゆる社会正義に基づく、正論ってやつですね。


でも、正論をいきなり錦の御旗のようにもってこられて「あなたも一緒にやりなさい」はちょっと違うと思うのです。


さて、こんな例を出すまでもなく「正義」ってのはやっかいです。


無意識のうちに人を巻き込もうとしますし、「正義」の外にある人の話を受け入れられなくなりますからね。


言葉をかえていえばおせっかいの押し売りだし、頭がガチガチで思考の柔軟度がないなわけです。


だから、自分の「正義」を正当化する都合のいい情報しか頭に入ってこないわけなのです。


でも、人って「正義」を口にしたい時期ってのもあると思うのです。


万人に共通しているのかはわかりませんが、自分は「人は不安になると正義に固執したくなる生き物だ」と思っています。


正義ってバリアーで自分を覆っていれば、自分の不安ってやつが外界に接することがないですからね。それは、ある意味で自己の安定を意味しますし。


たぶん、人間の脳みそはこういう形で自分らの自我を守ってくれているわけです。


そいや、自分も旅をしていたころはよく「正義」を口にしていたかな、と。


好きなことはしていましたが、仕事はなく、借金もありましたからね。今思えばちゃんちゃらおかしいですが、将来に対しての不安もありましたし。


あの頃に苦笑いをしながら自分の「正義」に付き合っていただいた周囲の皆さまには頭のさがる思いでありますわ(笑)


この映画に「正義は正しい。ただ、それを武器にするのは正しくない」というセリフがありました。


この映画の根底に流れている一つのメッセージなのでしょうが、今の時代を風刺しているようで痛快でした。

May 13, 2013 in 人間の認知について, 観た映画、読んだ本、行ったイベント | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.05.02

考えるに固執しない(または、「明日から休みです」)

「うむむ困ったなあ」


と考える。がなかなかいい考えがでてこない。


そんな時に、たまたま聞いた話や本の一節、映画のワンシーンなどで「おっ、そうか」と思う瞬間ってありますよね。


自分の場合ですが、この瞬間を迎えただけで問題解決が一気に向かうこともあります。人間、頭で考えたことは脆いですが、肚に落ちたことは強いということでしょうかね。


いやや、逆にいうと考えるという作業はこの瞬間を迎えるための呼び水ともいえるのではないでしょうかね?考えるというプロセスを経るから「おっ」という瞬間がやってくる。


たぶん、人間にとって考えるって作業は本来はしんどいものです。


けど、人間は目の前の問題を解決するように条件づけられていますから(昔の人は問題解決って思考はなかったと思いますよ)考えるという手段をつかって何とか現実を動かしたり、クリアーをしようとするのです。


でも、思考ってのは脳の分泌液のようなものです。


だから、特別な訓練をしてない限り考えれば考えるほどどーでもいいことを考えるものです。それは、エネルギーを摩耗させることにつながったりもします。


で、エネルギーの枯渇は更なるどーでもいい思考を生み出します。


だから、考えるのは大事だけど、一生懸命に考えたらあとはそこから離れるという知恵が大事になってくるわけです。


他人の「考えすぎ」はよくわかるけど、自分自身の「考えすぎ」はよくわからない


かくいう自分もたまにこの手のスイッチが入るようです。


そんな時は、「考えすぎじゃない?」と周囲からからいわれたその言葉すらも考えてしまうというループを描きます(笑)


まさに脳の分泌過剰、腸や胃で起きていたら病院ものですね。


どんなに運動しようと、どんなに芸術や学びからエネルギーを摂取しようと、ありそうでないのは40、50代男性のエネルギーなのです。


専門家でないのでわかりませんが、湯水のごとくエネルギーが湧き出てきた20代、30代とエネルギーの構造そのものが違うんだと思います。だから、資源エネルギーのみならず、自己エネルギーもぜひ大事に使いたいものですね。


ということで、明日からの連休(否、今日の夜から)は一切の思考を飛ばします(笑)


それぞれでご一緒するみなさん、よろしく!明日は9:30から某所に並びます。

May 2, 2013 in 人間が悩むということ, 人間の認知について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.04.05

「なりたい自分」に固執しない

「なりたい自分」(または、「本当の自分」)


ってキャッチコピー(?)をビジネスの場に持ってきた人ってのはスゴいですね。


「個人の欲望を開拓する」ってのが資本主義とはいえ、これほど的確に「人間の成長欲求」に訴えるコピーってのはそうそうないでしょう。


資格ビジネス、スクール、旅行、転職•••さまざまな業種がこのコピーが持つ世界観のお陰でビジネスを展開してるわけです。


でも、「なりたい自分」に実際になったら人はどうするんでしょうかね?


「会社を経営したい」「司法書士の資格をとりたい」「セラピストの技術を身につけたい」「留学して語学を学びたい」•••実現したら、人はどうするんでしょうかね?


自分がいうまでもなく、ほとんどの場合で次の「なりたい自分」ってのが出てきます。資本主義は「欲望を次々と開拓すること」がベースにありますから、僕らは無自覚のうちにこうした思考回路に入っているからです。


で、その「なりたい自分」になると、次の「なりたい自分」がでてくる•••


そう考えると、常に「『なりたい自分』になれない自分」って状態であるわけです。


これって、人として幸せな状態なんでしょうかね?


「なりたい自分」ってのは「夢」とほぼ同義語で使われているし、「夢」を持つことは悪いことではないと多くの人が思っている(そんなことないのかな?)この時代下ですが、ここは立ち止まって考えてもいいことかもしれませんね。


かくいう自分。


夢(「なりたい自分」ですね)を持つことは大事だし、それは人として尊いと思ってます。けど、「夢に固執しなければ」という前提ですね。


「夢」には「やる気」だとかを震いたたせるエネルギーがありますが、ほっとくと「現実逃避のいいわけ」だとか「自己愛を満たす手段」に変身してしまうこともあるので要注意ですね。


自分がたてた「夢」から離れる勇気を持つのは、たぶん大事なことなのです。


「夢に向かって今日やったことは何?」という問いかけをして、心の中に何かしらの葛藤があれば、それは自分がたてた夢から離れるサインなのかもしれないかな、と思ったりします。


あとは、「なりたい自分」に縛られて苦しくなるのであれば、「なりたい自分」を設定しない勇気ってのも今の日本には必要だと思うのです。


足るを知る、という考え方ですね。


たぶん、「なりたい自分」ってのがなくなって、そのことに心底葛藤がないのであれば人はすこやかに、幸せに暮らせるのだと思いますよ。

April 5, 2013 in 人間の美意識について, 人間の認知について, 言葉について | | Comments (0) | TrackBack (0)