2020.07.02

「あやふやなもの」が「世界の真実」みたいな顔していないか?

 

 

私はインドの哲学が好きです。

 

 

なぜなら、頭で考えてもわからないことについて、理解が深まるからです。

 

 

たとえば、「まじめに生きている人が病気で苦しむのはなぜ?」という自問自答があるとします。

 

 

近い人が病に倒れたとき「なぜ、あんないい人が・・」という経験をしたこともある方はいらっしゃることでしょう。で、あれこれと考える。

 

 

けど、このテーマって頭で考えたところで「なるほど!」という答えはでてこないんではないでしょうかね?

 

 

でも、「答えのでてこないこと」に真剣に格闘して、人は苦しむわけです。

 

 

「考えてどうにかなることか?」「考えてもどうにもならないことか?」を見極める知性

 

 

たとえば、インド哲学はこのような視点を与えてくれます。これが自分に落ちるだけで、「生きるエネルギー」をダダ洩れさせずみ済みます。

 

 

そんな私ですから、インド哲学は「ホンモノ」と思っています。

 

 

で、「数千年の昔から続いてきた」「歴史の名前を残すような人が、この知恵を活用した」みたいな情報が、私の信念をより強固にしてくれます。

 

 

でも、世界には「インド哲学」とは対極にあるような考えかたもあるわけです。

 

 

たとえば、「人は自分の欲求に従って生きていくと成功する」という話があるとします。巷でよく聞かれるテーマですね。

 

 

これ、一見すると「そうだよねえ」と素直に受け入れてしまいやすい。

 

 

だって、世界にはそういう「成功者」があふれていますし、そういう人の体験話を聞くと「世界の真理ってのはそういうものなのかな」とも思ってしまう説得力もある。

 

 

「でも、本当にそう??」とインド哲学的に突っ込みを入れていくと、いろいろとあやふやな点もあるわけです。

 

 

•「自分の欲求」で生きることが、幸せに生きることにつながるのかどうか?

 

•「自分の欲求」をそもそも人間は自覚できているのかどうか?

 

•「自分の欲求」といいながら、「他の人の欲求」を自分に重ね合わせたりしていないかどうか?

 

•「自分の欲求」ってのは永遠に変わらないものかどうか?

 

• もし「自分の欲求」が変わるのだとしたら、新たな欲求がでてくるたびに次の成功と求めることにならないか?

 

• 次の成功を求めるのだとしたら、どこまでいけば成功の状態になのだろうか?

 

• そもそも「成功する」っていったいどのようなことだろうか?

 

 

たとえばこんな感じですね。

 

 

わたしは、「あやふやなことがそのままになっている」のを好まないですから、「人は自分の欲求に従って生きていくと成功する」のあやふやさがどうしても気になるんです。

 

 

もっと口悪く言うのであれば、「真実でないものが、真実顔しているのが好きでない」ともいえるでしょうかね(笑)

 

 

自分でも「面倒くさいな」と思うときがあります。でも、性分みたいなものですからしょうがないですね。

 

 

こういう性分の方とお会いすると、無人島で人と遭遇したかのような気分になったりします。少数ですけど、世界は案外といるものですよね。

 

 

July 2, 2020 in 人間が悩むということ人間の認知について言葉について | | Comments (0)

2020.06.16

「誰々が◎◎と言っていた」の被害から身を守るために

 

 

誰かとコミュニケーションをしているとします。

 

 

で、その時に「誰々(そこにはいない第三者)があなたのことを◎◎と言っていた」という言葉がでてくるとします。

 

 

それが自分にとってネガティブなことだとすると、たいがいは心が揺れますよね。

 

 

「あの人はそう思っていたんだ・・・」と時には落ち込んだり、「あいつにそんなこと言える筋合いがあるのか?」と逆に攻撃をしたくなったりするかもしれません。

 

 

けど、残念なことにこの手のコミュニケーションばかり繰り返す人というのは一定数いるようです。心理学の世界でもちゃんと症状として名前がついていて、対策だとか注意ポイントだとかがまとまっているようですね。ここでは詳細を控えますけど。

 

 

私も過去にこの手の戯言に翻弄されひどい目にあったことがありましたから、以降は「誰々が◎◎と言っていた」という発言にはとても敏感です。

 

 

会話でこの言葉ができたら「へえ、そうなんだ。じゃあ本人に確認してみるわ」というように習慣づけておく。

 

 

これを口にすると「わたしは『あなたのために』意を決して話をしたのだから、直接話をされると・・・」って困った反応が多いですね。まあ、陰口を話しているのですから狼狽するのも当たり前なんですが(笑)

 

 

この切り替えしをしていくことで、この手の発言を繰り返す人は寄り付かなくなってくるようです。または、この手の発言をしないようになるみたいですね。

 

 

きっと、「誰々が◎◎と言っている」って発言は、自分の言葉にコントロールされやすい人間を選んで発言しているのでしょう。自分が変われば、世界が変わるわけです。

 

で、こうしたコミュニケーションには他にも別バージョンがあります。

 

 

そのうちのひとつが、「神さまが◎◎とおっしゃっているいる」だとか「天の啓示で〇〇が聞こえている」というやつですね。

 

 

わたしは見えない世界が好きですし、その存在を信じています。だから、「神さまのお言葉(託宣)」や「天からの啓示」なるものは確かにあると思います。

 

 

けど、1対1のコミュニケーションにおいてこの手の言葉が語られる。更に、その発言が自分にとってとてもネガティブな場合。これは、注意しないといけないと思います。

 

 

だってこれ、よくよく考えれば「誰々が◎◎と口にしていた」と同じ構造ですから。

 

 

人間関係だけの話であれば、前述したように「へえ、本人に確認してみるわ」とやれば発言の真偽のほどはだいたいクリアーになってきます。

 

 

でも、「神様」や「天」といった「大いなるもの」がでてきてしまうと、「確認してみるわ」というわけにはいきませんからね。

 

 

1対1のコミュニケーションになぜか第三者の発言が入ってくる・・・。これは、そもそもおかしな話なんですよね。二人で第三者の悪口をいうのであればわかりますけど(笑)

 

 

大切なのは、「第三者が入ってくる脈絡のなさ」だったり「なんぜここでその話?」って違和感にまずは意識的になること。それが、「誰々が〇〇と言っていた問題」の被害から身を守る処世術といえるでしょう。

 

 

この手の問題は、そこかしこで見聞きするのでまとめてみました。またいずれ。

 

 

June 16, 2020 in 人間関係に関すること言葉について | | Comments (0)

2020.06.04

サンスクリット語を習っているわけ




 

1_20200604135701

 

数年前からサンスクリット語を学んでいます。

 

インドの聖典(神聖な教え)などで使われている言葉ですね。一説には、サラスヴァティ女神(仏教の世界観では、弁才天)がお創りになられた言葉ともいわれています。

 

 

お寺などで見る梵語はサンスクリット語のことですし、ヨガで唱えられるマントラはほぼほぼサンスクリット語ですね。日本語の「お世話」「護摩」「彼岸」「旦那」なんて言葉は、元をたどるとサンスクリット語が源という説もあるようです。

 

 

なぜこの言葉を学ぼうかと思ったかというと、とあるインド思想の先生の本がきっかけです。

 

 

この方が、「日本語に翻訳されたインド聖典を読むのは、動物を檻の外から眺めているようなもの」(大塚の意訳です)といった趣旨のことを語られていたんですね。

 

 

これ、なかなか感情を刺激する言葉ですよね。だって「日本語で翻訳されたインドの聖典では、そのもの実態に触ることさえもできない」とも読み取れますしね。

 

 

でも、サンスクリット語を学ぶのはなかなか敷居が高い話でもあります。「サンスクリットは難しいらしい」という話はそこかしこで聞いていましたからね。そんなこんなで数年の時間が経っていたわけです。

 

 

そんな自分に転機が訪れたのは、2016年に訪れたインド。リシケシというヨガの聖地で「サンスクリット語を教える先生の家」にたまたまお邪魔したことです。

 

 

昔でいう寺子屋のような場所に、毎日10人くらいの生徒がやってきます。で、先生がそれぞれのノートに書いたサンスクリット語を、生徒がひたすらに書写していました。

 

 

手本となるサンスクリット語の難易度には生徒によって差があるようでしたが、文法などのテクニカルな話はまったくなし。ひたすら書写するんですね。

 

 

1回の授業は3040分でしたでしょうか。終わると先生からチャイとお菓子をいただき、生徒はそれぞれの持ち場へと帰っていく。毎日、これの繰り返しです。

 

 

「へええ、これでサンスクリット語が学べるのか・・・」となんだか不思議な感覚にとらわれたものです。どうしても言葉を習うには、文法書などから入らないとって先入観がありましたから。

 

 

でも、そこで10年以上にわたって学んでいる方(現地在住の日本人の女性です)のこんな話を聞いて、「あ、自分もやってみたい」と思いました。

 

 

「ここで10年以上サンスクリット語を学んでいる。文法などは一切わからないけど、この言葉のもつ魅力にとりつかれている。たぶん、一生学ぶのをやめることはない。」

 

 

「分からないけど、魅力に取りつかれるような言葉ってどんなだろ・・・」結局、この言葉がきっかけとなって、帰国後すぐに教室に通いはじめたんですね。

 

 

サンスクリット語を学んだからといって、インド人と会話できるわけではありません。旅行やビジネスがしやすくなったりするわけでもない。そういう意味でいうと「現代で活かせるメリットは圧倒的に少ない言葉」です。

 

 

でも、この言葉がもつ魅力は確実にあるはずです。

 

 

「人間のものの見方をニュートラルにしていくような働き」といったらいいのでしょうかね。「ありのものをありのままに見ていく働き」といったらいいのでしょうか。「心を静まるべきところに静めていく働き」といったらいいのでしょうか。

 

 

遅々として文法などの勉強は進んでいませんが、「この言葉をやめることだけはないのだろうな・・・」という心境にまではようやくたどり着いたというわけです。

 

 

こんなスタートラインの心境に至るまで、4年ちょっと。インドの叡智というのは、ずいぶんと長いスパンでものを考えるようで。。

 

 

いつか、経営などの世界でサンスクリット語の智慧が活かせていけたらいいですね。その可能性は十二分にあると思っています。

 


June 4, 2020 in 人間の認知について言葉について訪れた場所のこと | | Comments (0)

2014.04.01

人間は都合よく記憶を書き換えている

1

「人間は自分にとって都合のいいように妄想し、自分にとって都合のいい事実だけ信じる」


先週末に公開のこの映画。自分なりにあえて主題をまとめてしまうとこんな感じか。
白ゆき姫殺人事件 オフィシャルサイト


『白ゆき姫殺人事件』というタイトルのもつ語感が、なんかサスペンスチックで、映画の持つ魅力を引き出せていないのでは?というシロート考えはあるものの、現代人必見の映画です。


「あの時に、こんなことがあった」だとか


「あの時に、こんなこと言われた」だとか


「あの人にはあんなことをしてしてあげたのに」だとか


人間の過去の記憶(エピソード記憶)ってのは、たいがいは自分にとって都合のいいように書き換えられていていい加減なものなわけです。(こういう学術的研究もあるようですね)


けど、「ワタクシ」(私)をコントロールする司令塔の脳みそは、絶対的な万能感を持っている。


だから、「私が記憶していることは、間違いがないはずだ!だって、私自身のことじゃん!」とになるわけですね。


そういう人に、「エピソード記憶なんていい加減なものじゃん!」なんて言おうものならたいがいは、反発をされるわけです。


この映画は「人間のエピソード記憶なんていい加減なもの」というメッセージ(&具体例)を観る人に与えてくれます。


それぞれが、自分にとって都合のいいエピソード記憶同士のぶつかり会い


そこを理解してはじめて「自分の記憶も間違っているかもな?」という謙遜の精神や、「あいつのいっていることにも一理あるかもな?」という気持ちが他人に対して生まれてくるんじゃないでしょうかね?


「絶対」「間違いなく」「確実に」


が多用されるということは、おそらくエピソード記憶に固着しているってサインです。


ここから離れる勇気(固着は安心と安定をもたらしますから離れるのには勇気が必要ですね)と自在さを持つことは、他への共感への第一歩になるんでしょう。


「これって本当なんですかね?」


この映画でふいにでてくるこの一言、なかなか深いですよ。

April 1, 2014 in 人間関係に関すること人間の認知について観た映画、読んだ本、行ったイベント言葉について | | Comments (0)

2013.11.22

答えは空の上

Yjimage

「私は どこかで 間違えたかしら 今は分からない 答えは空の上」


1週間ほど前。目覚めると、YUKIの『PRISM』の一節がどこからか聞こえてきた。


外から聞こえてきたというより、自分の中から聴こえてきたって感じ。かっこ良くいえば、どこからか降ってきた感じ。


この詩の背景には、JUDY AND MARYを解散しソロで独り立ちした不安や迷いだとかがあると思うのですね。


一世を風靡して、まだまだ勢いのある時での解散だったから、さぞかし悩んだでしょう。決断するには、すごい覚悟をしたことでしょう。


で、決断をしても「私は どこかで 間違えたかしら?」と逡巡することもままあったことでしょう。あんな才能ある人ですら、否、才能ある人だからこそ、悩んだことでしょう。


この詩にはそんな思いが込められていると思うのです。


「解散は正しかったか?」、「解散して損をしたんじゃないか?」、「解散して後悔するんじゃないか?」・・・


さて、一般的に自分の決断に対して「答え」を求めることが、自分らの迷いや不安を増殖させるらしいですね。


いうは易いですが、「答えは空の上」と言い切れれば悩みや不安からも解放されていくのでしょう。


それは、現実逃避ではなく、人間がコントロールできないことに頭を使わない、という叡智なのだと思います。


それにしてもギリギリの状態からつむぎだされた言葉ってのは、聞く人の心に突き刺さりますね。


この間、日本ではじめてカードとしての商品化したインドの叙情詩『バガヴァッドギーター』は、戦場で親族と戦わなくてはならない状況から話がスタートします。(『バガヴァッドギーターカード』向井田みお著)


で、主人公が「戦いたくない」といってダダをこねる。いってみれば、究極の悩み、究極の葛藤におかれた状況が舞台設定。


ここまでの究極のギリギリの状況の中で、人が自分をコントロールするすべが物語になっているのですから驚きです。ここまでの厳しい状況でも人間はなんとかやっていけるんだ、と人間の偉大さを思わずにいられません。


それにしても、なぜこの時期にYUKIの一節が聴こえてきたんでしょうかね?まったく不思議。。。


「答えは 空の上」なんでしょうが、気になります(笑)

November 22, 2013 in 人間が悩むということ言葉について人間の成長について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.11.20

チャレンジってのは挑戦って訳すんだ、と感じた夜

1


FUNKEY HONEY公演に友達が出たのでいってきた。(今回で3年目)


舞台が終わって、出待ちして、別れをつげて、ふと空をみあげると満月。


それを見つめる着物姿の彼女がめちゃ幻想的だった。


「チャレンジ」


生きていれば人は何らかのチャレンジをしているわけです。


いうなれば、新しい本を買うのもチャレンジだし、いったことのない場所にいくのもチャレンジ。


でも、英語が輸入された時、僕らの先達はこの言葉を「挑戦」と訳したわけです。


戦いを挑む・・・


自分らの口にする「チャレンジ」ってのは、どこかライトに、どこか軽くなっていないか? 


どこかコントロール可能で、結果が想定できる範囲の中で、夜に飲む酒がちょびっと美味しい程度の「チャレンジ」を挑戦呼ばわりしていないか?


今回の満月は、きちっと戦いを挑んだ彼女に対する賛美、贈り物だったのかもしれません。


素晴らしい復活でした!


追記
もうすぐ「かぐや姫」も公開ですね。

November 20, 2013 in 観た映画、読んだ本、行ったイベント言葉について初心を忘れないということ感じたこと | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.07.02

わかりやすさには注意

「人生はカツ丼だ。一気に食わなければ味が分からない」


ある作家がこんなことをどこかで書いてました。


で、この手のメッセージに触れた時、人は「なるほど!」と納得するタイプと、「ふーん、だから??」というタイプに大きく別れます。


自分はどちらかというと、前者のタイプですね。


自分の中にある言葉にならない言葉や感情、思いやニュアンス・・・それらが言語化されることに一種の喜び(?)を感じる人間です。(この「カツ丼」云々については、別になんとも思いませんけどね)


でも、何かを言語化するってのは「言葉にならないものを削ぎ落とす」って危険性があるのですね。だって、この作家の語る言葉と、自分自身との感情はどう考えたって「=(イコール)」になるわけがないのですから。


たぶんなのですが、人生における豊穣感ってのは「言葉にならない思いや感情」ってのを保ち続けることにあるのです。


でも、人はそんなに強くないですからそれを保ち続けることができない。すぐに言語化して自分のコントロールできる状態にして、気持ちのモヤモヤを解消しようとするわけです。


あとは、「言葉にならない思いや感情」ってのが普通の人よりたくさんある人ってのがいるわけです。


たとえば、作家という職業の人は「言葉にならない思いや感情」に満ち満ちた存在であるから、その反発として言葉に長けているという側面があると思うのです。


いずれにしても、職業作家でもない限りはなんでもかんでも言語化しないことも大事なような気がします。


自分の感情や気持ちが言語化された先には、また次の感情や気持ちがやってきます。そこは、汲んでも汲んでも水が尽きない井戸のようなものですしね。


世の中でのざっくりとした大きな流れとしては、言葉にならないものを言語化できることってのは素晴らしい、みたいな空気がありますけどね。

July 2, 2013 in 言葉について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.05.08

モチベーションって言葉って一人歩きしてないか?

1


いまの事務所に引っ越す前、飯田橋に会社があった時の話。


事務所の近くにご夫婦できりもりしている小さなトンカツ屋があったんです。


ご主人がカウンターのお客さんにトンカツを出す時に、指を一本出して「これは一番のトンカツだ」みたいな感じで無言で念を込めるようなしぐさをするんです。


自分のつくったトンカツに絶対の自信があるんでしょう。


で、お店が終わると店内を綺麗に片付ける。調理用具がカウンターの中に整然とある一定の秩序の元に置いてあるのが店の外からよく見えるのです。


自分は、「職人」という言葉を聞くとあのトンカツ屋を思い出すのです。


さて、このご主人に「仕事でモチベーションがあがらない時はどうしますか?」と聞いたらなんて答えるでしょうかね?


まあ、話をしたこともないので類推するしかないのですが、おそらく「モチベーションなんて考えたこともない」っていうんじゃないでしょうかね?


人間ですから体調が悪い時も、気が乗らない時も、心配事があって気が落ち着かないときもあるでしょう。


でも、「モチベーション」って言葉でひとくくりする感性がないと思うのです。


だって、自分が動かなければお店が開けないわけですからね。たんたんと店を開いていかないといけないわけです。


さて、どこかに書いたかもしれませんが自分はこの「モチベーション」って言葉が嫌いです。


この本にも書いてありますが、「モチベーション」って言葉は非常に消費行動的なんです。


人間は内発的動機(好奇心や関心ごとによってもたらされる動機づけ)で自分の時間の全てを満たせれば理想なわけです。


けど、それは理想世界なわけです。


で、どこか頭のいい人がその理想ってのを消費行動と結びつけたわけです。


モチベーションを高めるには、内発的動機が満たされる仕事をしないといけないですよね•••といって、転職市場や資格市場や能力開発市場がどんどんとでてきたわけです。


まあ、そういう市場がでてきたのはいいのですが、「モチベーション」という言葉が一人歩きしているわけですね。


「モチベーションがあがっているからうんだらかんだら」だとか「モチベーションをあげるためにうんだらかんだら」だとか•••


労働とは目の前にあることに真面目に取り組むことがまず基本となろう。そうした点をなおざりにしたまま、仕事にやりがいや喜びを見出すとか、仕事を通して自己実現を図るといったことを目指すことに問題はないのだろうか(P137)


この本が指摘していることは、まさにその通りだと思います。


毎日、毎日、きちんとやることをやる。その先には習慣って世界が開けているわけです。


で、その習慣って世界を持つ人をみる人によっては「モチベーションが高い」と見えるってだけなんだと思いますよ。


たぶん、それは決して派手な世界観ではないのですよ。

May 8, 2013 in 人間の美意識について言葉について | | Comments (2) | TrackBack (0)

2013.04.12

部下との話は短くする。が、ダイアログはこの限りではない。

「部下との話は短くする」


なぜなら•••


「人は情報を上書きするから」と口にするのは自分の師匠筋。


あれこれ話をすると、部下はどんどんと情報が上書きされていって最初に話をしたことはほとんど覚えていないから、という。


「エネルギーをむやみに減らさないため」と口にするのは先輩経営者。


人と人とのやりとりは、なんだかんだいってエネルギーを消耗する。そのエネルギーの消耗をコントロールすることは大事なことだ、という。


「ボロを出さないため」と口にするのは別の経営者。


話が長くなると「昔はこうだった」だとか「俺はスゴいでしょ」といった話さなくてもいい話に流れてしまいがちだから、という。


どれもこれも実体験からくる素晴らしい叡智。かくいう自分も「部下との話は短くする」に賛成な1人です。


•••が、案外とこれって難しいんですね。


あれもこれもってのがどんどんとでてきてしまうわけです。


「このままだと情報が上書きされるなあ」と思っても話を続けてしまってしまうこともあったりするわけです。


「これって、なんでかな?」と考えてみたのですが、多くの経営者が持つ「動いていないとなんとなく不安になる」って気質が根底にあるんでしょうかね。


だもんで、意識的に意識的に「話を短く」をやろうとしているわけです。まあ、仕事を通じた修業みたいなものです。


で、最近気がついたことがあります。


自分は、「部下との話」を通じて頭の中やアイデアを整理していることがあるんですね。


だから、そこで展開されている話とはまったく関係のないことが頭の中をグルグルと駆け巡っていることがたたあるわけです。


人によっては「社長は話を聞いていない」と格好の餌食になるのですが、実はこれは大事な大事な時間でもあるのです(笑)


「必要なことを必要なだけ会話をする」ってので確かに仕事は回ります。効率的に仕事を回すという意味では「部下との話は短く」ってのは大事です。


けど、何かを生み出したり、考え方を昇華させたり、忘れていたことを思い出すには周囲とのダイアログ(対話)は不可欠ですね。


最近の自分。


「部下との話は短く」とは思いますが、「ダイアログについてはその限りではない」と思うようになりました。


「ダイアログできる力」ってのは、教養や一般常識やコミュンケーションってのが根底に存在する一つの仕事の能力です。


小説家の司馬遼太郎さんが「奥さんに話をすることで小説の構想をまとめていた」とどこかで読んだ記憶がありますが、きっとダイアログ力があるご夫人だったんでしょうね。

April 12, 2013 in 人間関係に関すること尊敬する人、または師匠筋言葉について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.04.05

「なりたい自分」に固執しない

「なりたい自分」(または、「本当の自分」)


ってキャッチコピー(?)をビジネスの場に持ってきた人ってのはスゴいですね。


「個人の欲望を開拓する」ってのが資本主義とはいえ、これほど的確に「人間の成長欲求」に訴えるコピーってのはそうそうないでしょう。


資格ビジネス、スクール、旅行、転職•••さまざまな業種がこのコピーが持つ世界観のお陰でビジネスを展開してるわけです。


でも、「なりたい自分」に実際になったら人はどうするんでしょうかね?


「会社を経営したい」「司法書士の資格をとりたい」「セラピストの技術を身につけたい」「留学して語学を学びたい」•••実現したら、人はどうするんでしょうかね?


自分がいうまでもなく、ほとんどの場合で次の「なりたい自分」ってのが出てきます。資本主義は「欲望を次々と開拓すること」がベースにありますから、僕らは無自覚のうちにこうした思考回路に入っているからです。


で、その「なりたい自分」になると、次の「なりたい自分」がでてくる•••


そう考えると、常に「『なりたい自分』になれない自分」って状態であるわけです。


これって、人として幸せな状態なんでしょうかね?


「なりたい自分」ってのは「夢」とほぼ同義語で使われているし、「夢」を持つことは悪いことではないと多くの人が思っている(そんなことないのかな?)この時代下ですが、ここは立ち止まって考えてもいいことかもしれませんね。


かくいう自分。


夢(「なりたい自分」ですね)を持つことは大事だし、それは人として尊いと思ってます。けど、「夢に固執しなければ」という前提ですね。


「夢」には「やる気」だとかを震いたたせるエネルギーがありますが、ほっとくと「現実逃避のいいわけ」だとか「自己愛を満たす手段」に変身してしまうこともあるので要注意ですね。


自分がたてた「夢」から離れる勇気を持つのは、たぶん大事なことなのです。


「夢に向かって今日やったことは何?」という問いかけをして、心の中に何かしらの葛藤があれば、それは自分がたてた夢から離れるサインなのかもしれないかな、と思ったりします。


あとは、「なりたい自分」に縛られて苦しくなるのであれば、「なりたい自分」を設定しない勇気ってのも今の日本には必要だと思うのです。


足るを知る、という考え方ですね。


たぶん、「なりたい自分」ってのがなくなって、そのことに心底葛藤がないのであれば人はすこやかに、幸せに暮らせるのだと思いますよ。

April 5, 2013 in 人間の認知について人間の美意識について言葉について | | Comments (0) | TrackBack (0)

2013.04.02

この時期は、初心を考えるにいい機会があふれている

自分が社会人になったのは、平成5年の3月29日、風の強い日でした。


新宿にある会社の会議室で会長、社長、本部長の訓話を聞きました。


「一隅を照らす」という話が印象的でしたね。


いま、自分がおかれている環境は何かの縁起で与えられたもの。だから、精一杯努力して、光り輝きなさい。そんな丹念な仕事の積み重ねが、月日の経過とともに思いもよらぬ力になっていくでしょう。


みたいな精神的な話でした。


で、社会人になりたての自分にはその話はすーっと入ってきたわけです。「おっ、頑張るぞ」と動機づけされたわけです。


けど、1年とか2年とかして「会社って思っていたことと違うよな」ということが増えてくると、「あの時の話も、何かしらの操作性があったんじゃねえか(うん、きっとそうに違いない)」などと思うこともあったわけです。


でも、よーく考えてみると「新入社員に向けた『一隅を照らす』って話」そのものは何も変化がないわけです。


それを受け取る自分の心、その心が変化をしてきてその時の自分にとって都合のいい解釈をしているだけなんですね。


で、今の自分は「本部長、一時期、疑ってごめんなさい。『一隅を照らす』ということの大事さを自分なりに感じました」と思うわけです。


今春、自分は社会人になって20年になります(途中2年間の無職期間含む)。


知識だって情報だって人間関係だって、たぶんあの頃とは比較にならないほど増えました。


けど、「全てを吸収しようとする柔軟さ」だとか、「将来、こんなふうになってやろう」みたいな心意気だとか、はたぶん働きはじめた時の方があったような気がするんです。


挨拶とかすんごい真面目に大きな声でしてたし、自発的に掃き掃除なんかしてたし(笑)


「初心忘れるべからず」なんていいますが、たぶん「初心」なんてそうやすやすと戻ることのできないものなんです。


仮に、「初心」に口があれば、「お前ら(経験者ですね)がそんなに簡単に戻ることのできねえもんだよ」とかいうような気がするんですね。


昨日は、街に新入社員と思しき人がたくさんいました。


「あの人は新入社員だな」ってのが今の時期はなんとなくわかるのですが、半年もたつとまったく分からなくなるのは、それぞれが初心から徐々に離れていくからなんでしょうかね。


この時期は、初心の頃の自分に近づかんとな、と思えるいい機会です。


これから社会人になる人は、「一隅を照らす」つもりで頑張ってくださいね。


ってか、自分も「一隅を照らす」ように頑張ります。

April 2, 2013 in 仕事のことについて言葉について初心を忘れないということ | | Comments (0) | TrackBack (0)