2005.08.04

ひとそれぞれの宿命

僕は旅をしている間、基本はドミトリーにとまっていた。ドミトリーとは、3〜10人ほどが入れる大部屋で、基本的にベットだけ借りる。インドあたりで150円くらいから、タイあたりで200円くらいからだったかな?とにかく安いのが売りだ。


国籍、男女、老若を問わずに旅人が集まるので、いろんな情報交換がなされたりする。僕が旅に出よう、と思ったのはドミトリーで旅の情報交換をしている旅人を見ていいなあ〜、と思ったということは以前にも書いた。僕もこの共同宿泊施設でいろんな人の生きざまに触れて、いくたの勉強をした。

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ベトナムのハノイのドミトリーに宿泊した時のこと。


3日ほど前から隣のベットにいたスイス人の女性が、外出先から泣きながら帰ってきた。当時27才の僕よりちょっと若いその女性は半年かけてベトナムの少数民族を研究しているのだ、という。興味深い話の数々に僕の好奇心はかきたてられ、毎日彼女の話を聞いていた。


「今日は郵便局にでもいって、久しぶりに自宅に電話でもしてくるわ」といって外出したのが数時間前。その間に、一体何があったのだろうか?彼女は全く語ろうとしない。ずっと水を飲み続け、泣いている。


ドミトリーには僕の他にノルウェーの女性と日本の男性がいた。けど、僕らは何もできずに彼女を見守るしかなかった・・。


しばらくすると彼女が口を開いた。何でも「自宅にしばらくぶりに電話をしたら弟が交通事故で亡くなっていた」との知らせに接したそうだ。部屋にいいようのない空気が流れた。


「そうなの・・」とノルウェー女性が口にした。「いくつだったの?」だとか「兄弟、仲はよかったの?」だとか話を続ける。口数は少ないが、ポツリポツリと語るスイスの女性。そんな中、僕は彼女を前にどうしていいかが分からなかった。


翌日、彼女はスイスに帰っていった。「またどこかで会いましょうね」といって明るく宿を出ていった彼女。僕は自分の非力さ、器量のなさのようなものに自己嫌悪を感じていた。このまま旅なんかしていてもいいのか?と思った。


人の器量、みたいなものは想定外の出来事が起きた時に真価が問われる。想定内の出来事の中では、誰しもが器量を持って(るように)生きていける。今思えば、あの状況で周囲が何をできる訳ではない、と思う。どんな言葉をかけても慰め程度にもならないだろう。


ノルウェーの女性はそれをきっと分かっていた。そして、彼女なりにできることをその場の判断で行っていた。事実、当初はポツリポツリとしか話せなかったスイス人の女性が序々にではあるが落ち着きを取り戻していった。明らかに人としての器量、で僕は負けていた。


旅には喜怒哀楽が凝縮されている。いろんなことが起きるので自分を発見する機会が増えていく。何が得意で何が不得意かが分かっていく。どんなことに怒り、どんなことに感動し、どんなことに困るのかが分かっていく。それはとりもなおさず「自らの役割」(=生きている宿命、のようなもの)に出会いやすくなる、ということだ。


僕は何ごとも努力、努力でやれば何とかなる、とは思わない。人にはオギゃーと生まれた時から与えられた役割のようなものがある、と思うから。自分なりの役割を見つけて、それを最大限に活かす事が生きることだと考えている。僕はあの状況で何もできなかった、というのはその後も僕の中で大きなテーマとなった。逆にいうとそんな事を通じて、僕は自分の役割を考えた。「一体、俺にはどんな役割が与えられているのか?」と。


追記
僕もインドから数週間ぶりに電話をしたら叔父の訃報に接しました。

August 4, 2005 in 旅人たちの人生設計 | | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.07.02

泣けた手紙

旅先での僕の楽しみは、中央郵便局(G.P.O.)にいくことだった。旅先からハガキを出す際には「7月中旬にはチベットのラサあたりに行きます。暇なら一報を!」の一言と住所を必ず添えておいた。


住所、といってもいたって簡単だ。ラサの場合「TIBET LHASHA G.P.O. to KAZUHIKO OTSUKA」。わずかこれだけで手紙が届くのだから世界の郵便システムは素晴らしい(といっても数多くの郵便物がいまだ行方不明だが・・・)。

長い旅にでた時、僕はよく手紙を書いていた。


僕の場合、1ヶ月も旅をしていると名勝旧跡にはあまり興味をそそられなくなっていく。街から街へといった旅のスピードが徐々に落ちていく。「今日はバスのチケットをとりにいった!」といっては一仕事した感じになっていく。チャイなどを飲みながら、一日ぼーっとしたりする日が増えていく。そういや今日一日誰とも話してないな、と夜になって気がついたりする。


旅先から自分を見つめて、手紙を書く・・・なーんてことは全くない。要はヒマで人とのコミュニケーションに飢えていたのだ。それともなきゃ、「僕は旅にでてこんな生き方をしている」という傲慢な自己主張だろうか・・。


そんな僕にとっては、手紙をいただくのは何より楽しみだった。知り合った旅行者と連れ添ってG.P.O.に行く。手紙があった奴は、それこそ欣喜し。手紙がみつけられなかた奴は落胆し、「明日こそは」と唇を噛む。そんなことに明け暮れていたのだ。所詮、それが僕の旅の現実だ。


そんな僕がちょっと涙した手紙がある。


1997年、チベットに向かった僕は高山病にかかった。チベット入り起点となる中国のゴルムドからラサまでバスで44時間。悪路に続く悪路と、標高5,000メートルをこえる山脈越えにすっかりと体がまいってしまった。


ラサに到着し、ようやくとホテルを見つけたが、呼吸は苦しいわ頭は痛いわで全く動けない。何せ息が続かないので1階から2階にいくだけで15分はかかるのだ。食事ものどを通らず、なぜかやたらと蠅がたかる。幻覚がみえる。なぜかバングラディッシュで苦しんでいる僕が見える。


酸素ボンベで濃い酸素をを吸うのだが一向に回復しない。宿にあったガイドブックにも「高山病は最悪死に至る。治らない場合は平地にいくしかない」と書いてある。近い平地といえばネパールあたりだろうが、そのネパールにいく気力と体力がない・・・そんな日が1週間も続いただろうか。僕はかなり精神的にまいっていた。ちょっと旅にでたことを後悔していた。


だが、結果的に回復した。(ここにもちょっとしたドラマ?があったがこれはいずれ)回復して僕がまっさきに訪れたのがラサのG.P.O.だった。


そこには1通の手紙がきていた。旅に出るちょっと前に、「若者はなぜ旅にでるか」といったNHKの番組に僕は出演した。その収録でプロデューサーから紹介された女性からだった。


手紙には「自分をとりまく現実はどこまでも追い掛けてくる。旅は逃げではなくて、現実に向かう事なんだ」みたいなことが書いてあった。チベットの土地で高山病にかかって精神的に不安で、旅にでてきた現実をちょっとだけ後悔していた僕にはなんだか響く言葉の数々だった。僕はラサのGPOの前で泣けてきた。


数カ月後、帰国をするとその女性は日本にいなかった。「海外で日本語教師になる」といっていたが、その夢の実現に向けて旅立った後だった。以来8年あまり、その女性と会うチャンスはなかった。あのラサでの手紙が最後だった。


その女性はもう手紙を送ったことも忘れているかもしれない、とも思う。けど、自分が何気なく書いた一言が読み手を自分の想像以上に感動させたり、歓ばせたり、感傷に浸らせたりするんだということはいずれどんな形でも伝えたい、と思うのだ。


僕はブログというメディアを使って自分を表現する。それがこれからの経営者として必須だと思うからだ。ただ、表現するということは時に人を不快にさせたり、傷つけたりする可能性を併せ持つ。


けど僕の表現することが、読み手に対してわずかでもプラスの影響力があるであれば、それは表現なされるべきだろう。「人生観が変わった」「感動した」などといった大それたものではなく、「ちょっと気合いが入った」「なるほど!と思った」でも表現する価値はあるはずだ。


それを地道に行っていくことが、「広告」というモノや商品を表現する世界でメシを食べている経営者としての使命だとも思うのだ。

July 2, 2005 in 旅人たちの人生設計 | | Comments (2) | TrackBack (0)