2005.11.02

サパにいこうかしら?

ハノイ(ベトナム)から中国国境に向けて電車で10時間あまりラオカイという町


そこから更にバスで2時間、山をいくつか越えると「サパ」という町に到着した。


旅のルートから外れていたのだが、「なんか素敵な響きの町だなあ〜」と思ってでかけたのがきっかけ。


「ラサ」(チベット)とか「トルファン」(中国)とか「カトマンズ」(ネパール)だとか、聞いただけで旅心を誘われてしまう地名、そんな語感が「サパ」にもあったのだ。

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サパのモン族 左からグーちゃん、モーちゃん


ここには少数民族「モン族」だとか「メオ族」だとかが、毎週末になるとやってきて市場をひらく。


東南アジア全般にいえることなのだが、男性より女性が働く。更にいうのであれば、モン族は子供がよく働く。


カゴいっぱいに自分達がつくった藍染めの衣装やら、帽子、楽器等をつめこんでマーケットを行き来する人たちに売っていく。


非情(?)なことに愛嬌のある子供、かわいらしい子供ほど次々と商品が売れていく。


売れない事もは売れる子に商品を託したりする それでバックをしたりしている。子供ながらの苦肉の策として考え出した知恵、だろう。


僕はモーちゃんから全身の衣装と、帽子と、楽器と、バックを買った。これだけ買っても15ドルくらいだったかな。けど貧乏旅行者には痛い出費だった。宿がたしか1日2ドルのゲストハウスに宿泊していたから。


マーケットが終わり、僕は知り合いになったおばさんの村にいくことにした。


サパから山道を歩いて2時間、更にそこから険しい傾斜を30分かけて登っていく。僕はへろへろだった。


家に着くとおばさんがご飯とお酒をふるまってくれた。米に野菜の煮物のシンプルな料理、だった。


おばさんはモン語しかしゃべれない。だから何をいっているか全くわからない。「ジョリー」が美味しいだとか、綺麗だとかという意味で、「バジョリー」がその反対という意味だということは知っていた。


だから「ジョリー」と「バジョリー」だけで会話をした。


けど、確かにこういっていたのが分かった。「ベトナム人だったらもっと美味しいものをご馳走するんだけど、モン族は貧しくてこんなもので」と。


子供の頃に聞いた。


「すみませんこんなもので、といって食事やお土産を出すのは日本人だけだ」と。


それが嘘だったと僕は知った。謙遜だとかの心はかなりの民族が持っている普遍的な感情だ、と僕は旅を通じて感じた。それをモン族のこのおばさんがはじめて教えてくれた。


疲れと酒とで一気に眠くなって、僕は藁の中で寝た。


すると、見知らぬ外国人が来たということで遠くから僕を眺めていた子供達がわらわらと集まってきた。そして、クリスマスだということで賛美歌を歌ってくれた。時は9年前、ちょうどクリスマスイブだった。

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中国語は4声の発音で言葉が成り立っている。だから抑揚だとかがあって、上手な中国語はちょっとした楽曲みたいだ。


が、モン族は6声(人によっては8声といっていた)で言葉がなりたっているらしい。だから、賛美歌なんかもいままで聞いた事がないほど美しい、のだ。神様の声、といったらいいすぎかもしれないが。


「なんかだ夢みたいだなあ〜」と僕は写真を1枚だけとらせてもらった。「旅にでてきてホントによかった」としみじみと思った。

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昨日、寝る時にふと思った。「サパにいきたいなあ」と。


でも、「9年前に会った子供達が変わっていたら嫌だな〜」-そんな思いが頭をもたげた。


実際、僕はある国を再訪した時に、かつての知り合いが妙にツーリスト慣れしてしまって嫌な思いをしたことがあるからね。


思い出は大切にしておくべきか、思い出よ再びとアクションをおこすか。


しばらく逡巡は続きそうだ。


November 2, 2005 in 訪れた国のこと | | Comments (2) | TrackBack (1)

2005.09.17

手帳に書いた夢が実現、した

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僕の手帳には、「将来やりたい夢」みたいなことが書いてある。


といっても、「会社を上場させる」だとか「年収を1億にする」といった大きな夢ではなく、「チベットのカイラス山にいきたい」だとかチョンジヒョンに会いたい」だとか行きたいとこ、会いたい人リストみたいなものだ。


夢は書くと実現する、なーんていわれるが僕はけっこう本気で信じている。考えたことを紙に書くというのは理屈を越えた力が生み出される、と思うからだ。

昨年、僕はドイツのミュンヘンにいった。仕事関係のメッセのようなものがある、と聞いたからだ。


出発を前に、何気なく地図を見ていたらドイツとオーストリアが隣あっているということに気がついた。「オーストリアって??サウンドオブミュージックの舞台じゃん!!」


soundmusic


「好きな映画は何?」と聞かれると僕は迷うことなく「サウンドオブミュージック」を挙げる。1966年のアカデミー賞で5部門の受賞をしたミュージカルの古典的な名作だ。


「ドレミの歌」や「エーデルワイス」などの曲は、このミュージカルから誕生した。音楽の時間にこのビデオを見た、という方も多いだろう。

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ドレミの歌のワンシーン


雄大な自然と、主人公マリア(ジュリー・アンドリュース)の歌声を聞いているだけで僕はいいようのない癒し(?)を味わう。イライラ、ムカムカした時、自分に自信が持てなくなった時はこのビデオを見る。すると数時間後にはかなりのエネルギーが注入され、復活の兆しが見えてくる。

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マリア役のジュリー・アンドリュース


「ロッキー」などの映画をみてポジティブになる、という人もいるだろうが僕はダメだ。なんか、見ている人を元気づけてやろう、っていう制作者の意図がみえみえでしらけてしまうのだ。操作主義みたいなものが僕の感性に妙にひっかかるのだ。


それに比べて「サウンドオブミュージック」は素材の旨さで勝負しているお寿司やさんみたいだ、と思う。ストーリー展開と音楽とキャストとの絶妙なバランスは、「人間ってなんて素晴らしいものを生み出す存在だろう」と見るたびすげえなあ〜と思ってしまうのだ。


いつのことだっただろうか「オーストリアのザルツブルグには、サウンドオブミュージックの撮影場所が現存している」と旅仲間から聞いていて、それが記憶に残っていた。


すっかりと忘れていたのだが、「ザルツブルグに行きたい」とむかーし手帳に書いた事を思い出した。おっ!紙に書いた夢がやってきた!!僕は日帰りでザルツブルグ行きを決めた。


ザルツブルグは静かでいい街、だった。サウンドオブミュージックツアーみたいなものに参加して、ザルツブルグの街を回った。すげえ、と思ったのは映画のまんまで家だとか自然だとかが残っているのだ。

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これが映画のワンシーン

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上のシーンを逆側から僕がとった写真

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ませた(?)子供が逢瀬をした場所


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マリア一家がナチスから逃げた修道院(実際はお墓)


僕はヨーロッパにはまり関心はなかった。「ヨーロッパは老後にとっておく」とそれまではいっていたが、いやいや若くて感性のある時期に尋ねないといかん、と思いを新たにした。


昨日の新聞で、「サウンドオブミュージック」の監督であるロバート・ワイズ監督が14日、91歳で亡くなったことを知った。


年齢から計算すると、「サウンド〜」は50歳の時ではないか。僕はこれには驚いた。50歳であんな映画をとれるなんてどんな才能、センスなんだろう、と。


僕はワイズ監督から多くの元気をいただいた。きっとこれからも。慎んでご冥福をお祈りします。


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追記
「サウンド〜」の撮影ではザルツブルグの街を挙げて、撮影に協力したそうです。けど、ナチスのシーンでは各家庭が撮影であってもハーゲンクロイツを掲げるのを断った、とか・・。元々、ナチスドイツのオーストリア併合の話ですからね、根深いものが残っているんだなと感じました。


September 17, 2005 in 訪れた国のこと | | Comments (5) | TrackBack (0)

2005.09.01

遥かなりチベット

チベットで高山病おかされた。1週間は起きる事もままならない日が続いた。


安宿のスタッフに病院へいくことをすすめられた。古い小学校のような汚い病院で、鼻毛の出た老医師の診察を受けた。チベットに長らく伝わる丸薬をもらい、人の助けをもらいながら宿に戻ろうとした。


その道中、僕はひとりのお坊さんと知り合った。

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ジョカン寺の前でネパールに向かう前の日に(チベット・ラサ)

「お前、体調悪そうだな!こっちにこい」といっている。僕は彼についていった。そこにはジョカンと呼ばれる有名な古寺があった。


そこでは、敬虔な仏教徒が自らの体を投げ出して祈りをささげている。そう、かつてテレビでみたことのある五体投地というやつだ。「ここで皆と同じようにするといい」とお坊さんはいう。僕はしんどい体をしゃくとりむしみたいに投げ出した。


すると、高山病で痛くてしょうがなかった頭が10分ほどで落ち着きを取り戻すではないか。さらには、4,000メートルに近い高地ゆえ苦しかった呼吸もどんどん楽になっていく。

これには驚いた。


「久方ぶりに外出して外の空気を吸ったからじゃないか?」と旅仲間には言われたが、僕はえもいわれぬ力の存在を感じた。


それ以来だろうか、僕はチベットに興味をもちはじめた。ネパールでもインドでもチベット人の居住地区を訪ねた。


一緒にいて苦痛にならない人種、それが旅先で知り合ったチベット人たちだった。この人達って違う民族とは思えないな、といたるところで感じながら旅をした。


そんなことから数年後、旅から足を洗って仕事をするようになってのこと。


僕は世界的に有名なヒーラーと席を同じくする機会に恵まれた。その時、「あなたの前世はチベット人のお坊さんね」と僕はそのヒーラーに突然にいわれた。


なんでも僕の前世は、「我が強くて、上の人と衝突ばかりして、あまり出世できなかったお坊さん」だったそうだ。そんなだから、今生の目的は「自分の我を押さえて、感情をコントロールして、周りと協調してやっていくこと」ともいわれた。


僕はあまりこういうことには真剣にとらえいないのだが、この時ばかりは凄っ!と思った。それって僕の長年の課題だからだ。それにそのヒーラーは僕がチベット好きだってのも知らないだろうし。


更にそれから数年後、日本人ヒーラーの方にも同じようなことをいわれた。「大塚さんの過去は啓蒙をする人ね。チベットあたりのお坊さん、みたいね」と。これまた驚きだった。僕は将来的に学校教育にかかわりたい、と考えていたし、またまたチベットのお坊さんがでてきたからだ。


スピリチュアルな話になってしまったが、自らが生きる目的みたいなものなんて一生をかけて探していくものだ。たかだか、 30歳そこそこでそんなものが見つかるのなら、それはそれで怖い。自分の可能性を縮めてしまいそうで。


でも、僕は前世がお坊さんだったらいいなあ〜と素直に思った。


そう考えると子供の頃から組織社会(タテ社会)に身を置くのがすきだったし、自分の話で人が「へえ〜」といってくれるのに喜びを感じる人間だったな。そう、今現在、ブログで偉そうなことをとうとうと語ってるところなんかはどこかのお坊さんみたいだ、とも思った。


(但し、禁欲生活は無理ですね。お酒は飲みたいですし、肉も大好きです。そんなのもお坊さんとして出世しなかった原因かも)


今日、朝一番のインスピレーションが「チベット」だったのでこのネタを。前世の話は、確認のしようがないから一つの物語としては夢(?)がありますね。自分をポジティブにさせる部分はうまく取り入れて、のスタンスが大事ですね。

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追記
今日は朝からジムにいってきました。大好きなインストラクターのレッスンが、木曜日の朝限定なので。朝は寝ぼけてて(?)振りをまちがえてばかりですが、それもご愛嬌のキャラがとてもいい人なのです。

September 1, 2005 in 訪れた国のこと | | Comments (2) | TrackBack (1)

2005.08.17

点の旅と線の旅

「そろそろ日本に帰ろう!」インドのダラムサラという街で僕はふと思った。


旅にでてきて4ヶ月あまり、当初はインドからパキスタンを抜けてイランに行こうと思ったのだが、途中、チベットはもちろん、ネパール、インドで見聞きしたチベット文化圏のもつ魅力にはまってしまっていた。


それとともに旅のスピードが落ちていった。次々と移動を繰り返すのではなく、一つの街に何日も滞在して現地のチベット人と仲良くなる、というスタイルにかわっていった。その過程で、チベットの精神的な指導者ダライ・ラマがいるインドのダラムサラにいくことが今回の旅の最終的な目的となっていったのだ。

長い旅に出るのは簡単だが、旅を終えるのは難しい。それには慣性の法則が働くからだ。


昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くこと、僕らは無意識にでもそれを信じているし、望んでいる。それにブレーキをかけて、今日と違う明日をつくりだすことは相応に骨が折れる。会社を辞めて旅にでるのが大変なのも、慣性の法則があるためだ、と思う。


当初は「非日常」だった旅が、時の経過とともに「日常」へと変化をしていく感覚。旅での「日常」があまりにも淡々としているがゆえに旅をする人はそこに「待った!」をかけるチャンスに悩む。それは「このままでいいのか」と仕事に悩む会社員と本質的にはあまりかわらない。


僕にとって「日本に帰ろう」の転機はダライラマ猊下との謁見だった。わずか、5秒ほどの謁見だったが「旅を辞めて帰国して何でもいいから仕事したいな」という気分になった。ダライラマ猊下が直接の原因だったかどうかは今では思い出せないのだが。


数日後、僕はデリーの旅行会社に日本行きの航空券を買いにいった。大人が4人も入れば窮屈になってしまうような事務所でカタコトの英語で切符をとった。スタッフが発券の手続きをしているとき、僕は机の上にあった世界地図を何気なくながめた。


その瞬間、僕は衝撃が走った。「何?? 俺ってこれだけしか移動していないの??」と。


この時の旅、旅のスタートは神戸だった。船で上海に向かい、天津、北京を経由して内モンゴルで草原にいって、シルクロードを西へ西へと向かった。そこからチベット、ネパールを経由して、北インドを1ヶ月ほどかけて回った。その間、4ヶ月あまり。電車とバス、ヒッチハイクだけでよく動いてきたな〜と思っていただけにショックだった。その旅行会社の地図では僕が移動した距離は20㎝ほどしかなかったのだ。


「まだまだお前の知らない世界があるんだぜ」とまだ訪れたことのない中東やアフリカ大陸が僕を嘲け笑ってるかのようだった。お釈迦様の手のひらから抜けだせない孫悟空、みたいだとも思った。反面、ちょっと嬉しくなった。まだまだいける国がたくさんある、という事実に。世界は限りなく広い、を痛感した瞬間だった。


僕らはよくいう、「世界は広い」と。ただ、それを実感覚として感じることって少ない。僕はモロッコにオランダ経由でいった時、「なんて遠いんだ!」と思った。でも、それって「点の旅」で味わった遠さなんだ。モロッコとオランダと日本とを結ぶ3点の中で遠さを感じているにすぎない。


僕がインドで感じたのは「線の旅」をしてきて感じた遠さ、だった。中国では24時間電車にのった。チベットに入る時には44時間バスに乗った。ネパールに入る時には2泊3日をバスで移動した。そんな「線の旅」をしてきて僕はかなり遠い場所に来た、かなり動いたと思っていた。けど、それは世界地図の中ではわずかな実線を描くにすぎなかった。


日本に帰って働くようになって7年が経過した。その間、僕は「線の旅」をすることなしに「点の旅」をちまちまとしている。(「短い線の旅」はしてるかな?)それも楽しんだけど、どこかしらに納得のいくまで「線の旅」を続けたい自分もいるのだ。僕の世界地図はまだまだ白紙の場所がいっぱい残っている。生涯をかけてちょっとでも汚していきたいものだ。


追記
インドから日本までは飛行機で10時間くらい。4ヶ月かけて歩いてきた道をひとっとびは何ともいえませんでしたね。話は変わりますが、将来、チベットの聖地カイラスに航空機を飛ばす計画があるそうです。「線の旅」でしか行けなかったカイラスに「点の旅」で気軽にいけるのは僕らにとって幸福なことなのかな、と考えるとなんともいえません。


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August 17, 2005 in 訪れた国のこと | | Comments (4) | TrackBack (0)

2005.05.18

高僧タマニャー

1997年にミャンマーを1ヶ月くらい旅した。敬虔な仏教徒が多い国だ。どこの商店や家庭にも信仰している僧の写真が飾られていた。その中の一人に僕はなぜか会いたい、と思った。後にそれがタマニャーという高僧だと聞いた。ミャンマー人の中でも徳の高い人気がある高僧だという。

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タマニャーにいただいた写真入りのお守り 


ある人には「アウンサン・スーチー女史が軍事政権から一時釈放された時に真っ先に訪れたのがタマニャーの所だ」と聞いた。他の人には「あまりにも信仰されしすぎて政権からにらまれている」だとか「少数民族との間でいざこざがあったときにタマニャーが行ったらすぐさま解決した」と聞いた。


「一年で悟りを開いた」だとか「タマニャーは空を飛べる」などといったことを真剣に話す人もいた。
何としてでも会いたい、と僕の思いは熱望へと変わっていった。


ただ、その旅行で僕は体を壊した。とにかくミャンマー料理が会わなかったのだ。タマニャーはパアンという街に住んでいる、とは聞いていたが簡単にはいけない。行っても謁見できるか分からない、ということで、再びのリベンジを期待して僕はミャンマーを去った。


それから4年の月日が流れた。僕は勤めていた広告代理店を退社して会社を作ろうと思った。その前にぜひどこかに旅行に行きたい、と考えた。会社を作ってしばらくは寝食を犠牲にしてでも働こうと思っていたからだ。


「タマニャーに会いに行こう」と直感がやってきた。僕と妻はミャンマーへと飛んだ。ちょうど21世紀が始まる2001年正月の話だ。世界遺産のバガンでも古都マンダレーでもない、僕たちはタマニャーの住むパアンというごくごく地味な街で新世紀を迎えた。


詳細は省くがタマニャーとの謁見は実現した。タマニャーが側近を介して一言「何か質問があれば一ついいですよ」とおっしゃった。僕は「これから会社をつくるのだが名前をどうしたらいいか考えている」と聞いた。


タマニャーによると「私の写真を胸に入れて、落ち着いた状態で心と向き合いなさい。その時にわき上がってきたのがあなたの会社名です」とのこと。僕はホテルに帰って自分の心と向き合った。数秒後、「ぱらりる〜」ととても会社名とはいえない言葉が頭をよぎった。そんなんじゃだめだ、と思っても広告代理店 博通だとかマンガにでてくるような会社名しかうかばない。


雑念が多すぎる・・結局、僕が影響を受けた本のタイトルをそのまま会社名にした。結局、僕の会社の名は21世紀のはじまりに、ミャンマーの安ホテルの一室で決定された。会社の生命は、21世紀がスタートする時期に、とてもいい場所で吹き込まれたのだ、と最近ふと思った。


追記 タマニャーは昨年、お亡くなりになられたそうだ。ご冥福をお祈りしたい。


May 18, 2005 in 訪れた国のこと | | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.04.17

韓国の旅行から帰って

30歳で1,000万円のお金を持って世界に旅にでた。それから20年の月日が流れた、という人に会ったのはベトナムでのこと。彼は中国を5年、韓国を1年かけてまわった、と話していた。その彼が語った。「中国がストレートのウィスキーだとしたら、韓国がロックで、日本は水割りなんですよ。つまり根は一緒ですね。僕らのルーツは間違いなく中国や韓国にあると実感しましたよ」と。

2泊3日の韓国旅行にいってきた。親と一緒だったのでどんなもんだろ、と思ったが結構力をいれて回ってきたので盛りだくさんだった。2回目の韓国訪問だが、短い時間だったので何ともいえないが、日本と韓国とは根は一緒だったのだな、と思った。


「せんぷうき」「せんたくき」など同じような言葉があるのは周知のごとく、アイドルなどに対しての美的感覚や長兄を敬い、謙譲の精神を持つところなど、よく似ている国民性だと思う。もしかすると彼のいう通り、日本のルーツなのかもしれない。


竹島をめぐる問題だとかで揉めているが、隣接する両国が仲がいい、というのが世界の中でそもそもめずらしい話であって(タイとミャンマー、ベトナムとカンボジア、インドとパキスタン、中国とモンゴルなども仲が悪かった)良い悪いは抜きにしてこれくらいの問題は目くじらを立てる程ではないのかもしれない、と思う。


僕は単純に同じ感覚を持つ民族同士仲良くしたいと思うだけだ。パフォーマンスのNANTAは素晴らしかったし、焼き肉も冷麺もうまかった。チョン・ジヒョンに代わるだけの女優は少なくとも日本にはいない。両国が理解するためには草の根レベルの話として皮膚感覚としてお互いの国のことを知る事が大切、とあたりまえながら思う。

April 17, 2005 in 訪れた国のこと | | Comments (0) | TrackBack (1)